想いの羽
お正月の羽根つきが大好きだった。
美香が5歳の正月。
「コン……コン……」とリズム良く響く羽根つきの音に、彼女の心は踊った。
しかし、松の内が過ぎれば羽子板は片付けられてしまう。
お正月の特別な空気感も美香はすごく好きだった。
「もっとやりたいのに……」
そんな美香に、2歳上の姉・杏香が教えてくれた。
「みかちゃん、バドミントンって知ってる?」
「なにそれ、おねーちゃん」
杏香はワクワクしながら美香に耳打ちした
両親にねだって買ってもらった初めてのラケット。美香はそれを抱きしめて眠るほどだった。
だが、幼い美香にとってラケットの棒(シャフト)はあまりに長く、地面を擦っては失敗を繰り返す。
「なんで私、こんなに下手なの?」
ヒビが入ったラケットを前に泣きじゃくる美香をそっと、杏香は抱き寄せた。
時が経ち、小学校四年生。美香は姉がキャプテンを務めるバドミントン部に入部した。
体も大きくなり、道具を自在に扱えるようになる。
中学校、高校と姉の背中を追い続け、美香は着実に「打ち方」の精度を上げていった。
ただ振るのではなく、どうすれば鋭い球が打てるか、どうすればミスを減らせるか。フィードバックを繰り返し、技術を磨く日々。
ある日、杏香を悲劇が襲う。不慮の事故による脊髄損傷。車椅子生活を余儀なくされた杏香と、光を失った家族。美香もまた、ラケットを握る意味を見失い、無気力な日々を送った。
しかし、沈黙を破ったのは杏香だった。
「早く起きな!これから毎朝ランニングだよ!」
驚く美香に、杏香は力強く告げた。自分はもうコートには立てない。けれど、美香を最高の選手にプロデュースすることはできる。自分が美香を応援すれば良い。
自分がこうなった以上、何もできないけど、美香ならできる。そう思って、杏香は縁の下の力持ちになろうと決めた。
眠い目をこする美香に伴走し、車椅子から鋭いゲキを飛ばす。合い反する二人だが、なんだかんだ言って、美香は杏香のことを信じていた。
雨の日も、風の日も、雪の日も、晴れの日も毎日毎日二人は練習に励んだ。
毎年あるバドミントン大会。
美香は、高校一年生ながらも選手として出場した。観客席には、両親と杏香が応援に来ている。
相手は、同じ一年生 東郷。
評判では、ここの地域の中ではトップだと言われている相手だった。
最初こそ美香がリードをしていたものの、ネットに引っかかったシャトルが下に落ちる寸前、拾おうとしてラケットを低く持ちすぎ、床に引っ掛けてしまった。
それから、美香のペースは崩れ逆転された。
3回戦で負けた。
悔し涙を流す美香に、タオルを差し出し「よくやった」と褒める杏香。
二人の努力を見ている両親は、目頭を熱くして娘たちをハグして四人で泣いた。
また次の日も心新たにして、杏香は美香に朝練に誘った。杏香は冷静に分析していた。「今の美香に足りないのは、逆境を想定したシミュレーションだ」と。
大学生になり、美香はナショナルチームBに選出される。強化合宿での過酷な練習の中、美香はふと姉に尋ねた。
「お姉ちゃん、どうして自分のことより私のことを優先してくれるの?」
杏香は笑って答えた。
「最初は悔しかったよ。でもね、体が動かなくてもワクワクは止められなかったの。私は、美香を通じて世界を体験することを選んだんだよ。美香が動くと、私の心も一緒に動く。それが私の最高に面白い人生なの」
そもそも何のために努力するのか。それは義務でも根性でもなく、二人で一つの「ワクワク」を共有するためという、新しい人生の目的を選び取った瞬間だった。
静まり返った代々木第二体育館。センターコートの湿度は、観客の熱気で限界まで高まっていた。
ネットを挟んで対峙するのは、宿敵・東郷。高校時代の敗北から幾度となく壁として立ちはだかってきた相手だ。
美香の太ももは乳酸で焼けつくように熱く、指先はラケットを握る感覚さえ怪しくなっていた。ふと視線を上げると観客席の最前列に、身を乗り出すようにしてこちらを見つめる杏香の姿があった。
「美香、楽しんで!」
声は聞こえなくても、姉の唇の動きで分かった。その瞬間、美香の脳裏を走馬灯が駆け巡る。
雪の日に車椅子を回しながら並走してくれた姉の吐息。
折れたラケットを抱いて泣いた幼い日の夜。
そして、あの正月の「コン……コン……」という心地よい羽根つきの音。
「……あぁ、そうだ。私は一人で打ってるんじゃない」
東郷の放った時速300kmを超えるスマッシュが、美香の右サイドを襲う。
常人なら反応すらできない一撃。しかし、今の美香にはシャトルのコルクの回転さえもがスローモーションに見えていた。
身体が勝手に動く。杏香と二人、何万回と繰り返した「逆境シミュレーション」が、反射神経を凌駕した。身体に染み付いた経験がここにきて爆発している。
低く沈み込み、床スレスレでシャトルを捉える。あの日、ラケットを床にぶつけて泣いた時とは違う。しなやかな手首の返しで、シャトルはネットをなめるようにして相手のフロントコートへ入った。
東郷が必死に飛びつく。高く浮いたシャトル。
「これでおしまい」
美香は高く跳躍した。
その背中には、コートに立てなかった姉の翼が宿っている。
美香の動きと、観客席で拳を握る杏香の心が、完全にシンクロした。
「いっけぇぇぇ!!」
全身のバネを一点に集中させ、渾身の力でラケットを振り抜く。
「バシィィィン!」という爆発音が会場に響き渡り、シャトルは東郷のラケットを弾き飛ばしてコートの中央に突き刺さった。
静寂のあとの、地鳴りのような歓声。
美香は膝から崩れ落ちた。顔を上げると、観客席で顔をぐしゃぐしゃにして泣き笑いする杏香が見える。
二人の「ワクワク」が、日本一という最高の形で結実した瞬間だった。
差し出された東郷の手を握り返し、美香は確かな足取りで姉のもとへと歩き出す。
その手には、二人で積み上げた時間の証。
夢にまで見た、オリンピックへの切符が握られていた。
