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推しの結婚

いつもとは全く異なる角度の記事を記してみよう。

皆さんは、推しの結婚を喜べる人間だろうか。
私は否である。

先日、応援しているとあるスポーツ選手がご結婚を発表され、思い立ったのでこの記事を記してみる。

喜べないと言っても、私が彼と結婚したかった、や、結婚するのが悲しい、という感情とは異なる。
 どちらかというと、一度"「嬉しくない」感情を通る"という表現が近いと思う。推しがどういう種類のものでも、推しの結婚を知った私は、嬉しくないという感情を通過する瞬間がある。

 例えば、アイドルに対して、所謂「リア恋」状態であると、その喜べない感情に対して直感的に理解できるだろう。

 しかし私はアイドルや俳優に恋をしたこともないし、同性だろうが異性だろうが、年上だろうが年下だろうが、どんなに身近な人であろうが、なんなら推しのカップルYouTuberであろうが結婚に喜べないのだ。
 理由は「自分との乖離」である。

 推しというのは、憧れを抱く人間である。私は、憧れは「何かについて自分より上にいる」人間、つまり自分(のレベル)より上(のレベル)の存在で、一定の乖離が起きないと抱かないものだと考えている。
 例えば、学校のクラスメイトに推しがいるとしよう。例えばその推しの学力、運動神経、容姿等の要素が、ほぼ自分と同程度だったとしても、「面白い」や、「なんか動きがかわいい」等の要素で推しになることはあるだろう。他人から見たら、全く同じフィールドで戦っている私とその推しも、私から見た「面白さ」や、「動きのかわいさ」という軸で自分と比較したときに何かしら自分にはできない、もしくは自分がもつ基準より上回っているのだ。

 例えば、推しのカップルYouTuberがいたとしよう。そのカップルの個人がもつ何かが自分より優れているか、そのカップルの関係値が自分が持つカップルというものの認識や、自分を含めるカップルよりも上回っているのだ。仮にそうでないならば、推しではなく、それが基準や、その他大勢になるはずだ。

 さて、推しの結婚を通じて感じる乖離。これは、これまで感じていた推しとの距離が明確化、もしくはさらに大きくなるということである。
 私は結婚=幸せだというイメージが強くある。この前提のもと、推しと自分の間に感じていた距離が、推しが結婚することで、推しはこんなにすごい、そして幸せであることを再認識し、それと私の間の乖離が浮き彫りになって辛くなるのだ。

 冒頭から、嬉しくない、や、辛いという曖昧な表現をしてきたが、このマイナスな感情をとても表現しづらいのだ。悔しい、わけではないし、悲しい、わけでもない。憤っているわけではないし、怯えてるわけがあるはずがない。

 ただ、推しと自分のレベルの差が浮き彫りになり、私と憧れの人はこんなにも差があるんだということに直面して、推しが幸せなのは嬉しいはずなのに、「嬉しくない」感情が通ってゆく。そして、私にとって推しは1人ではない。まだ若い他の推しも、いずれは彼のように結婚するのだろう。その度にこのなんとも言えない感情が通過するのか。そしてその頃私はどんな苦しみと直面しているのかという想像と絶望に駆られる。

 ここまで読んでいただいた方には分かる通り、私は推しの結婚が嫌なわけではない。推しが幸せになるのは心の底から嬉しいし、私生活をエネルギーに、推しのテリトリーで活躍しているのを見るのは私にとってもとても嬉しい。

 だが、推しが幸せになるときに嬉しくない感情を感じる人間はここにいるので、推しの結婚を喜べなくてすでに自責の念にかられて苦しい方がいれば、一緒に苦しみましょう。

 そして推し達よ、いつも憧れを抱かせてくれてありがとう。

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