コワレ・ソロエ・ヒトノコエ ムネノカナタノ“ナニカ”トトエ
役員室が静かすぎた。
さっきまで調和のリズムで揺れていた室内は、
今は逆に“整いすぎて”いた。
空気が粒子レベルで並びすぎているような、
息を吸うだけで喉の奥がビリつくような。
社長が時計を見た瞬間、
その音が妙にクリアに響いた。
——カチ。
その“カチ”に、
全員が微かに肩を震わせた。
専務Aが眉を寄せて言う。
「……リズムが止まりましたね」
専務Bが資料を閉じる。
「止まったというか……“揃いすぎた”。
この感覚、久しぶりだ」
副社長だけが静かに俯いている。
胸に手を当てて、何かを抑えているような様子だった。
社長が彼を見つめる。
「大丈夫か?」
副社長はかすれた声で答える。
「……胸の奥から、“声”がするんです。
誰でもない誰かの声。
コワレ……ソロエ……ヒトノコエ……って」
その瞬間、
壁にある社章がカタリと揺れた。
誰も触れていない。
誰も立ち上がっていない。
ただ、揺れた。
専務Aが低く呟いた。
「……呪文の第二段階が始まった…?」
専務Bは違和感に気づいていた。
「いや、違う。
これは“誰かが来る”ときの揺れだ」
そこへ、役員室のドアが唐突に開いた。
ドアノックも無し。
呼び出しも無し。
空気が押し出されるようにして開いた。
入ってきたのは——
本部長・芹沢。
普段は本部フロアからほとんど出ない、
社内でも“幽霊部長”と呼ばれる人物。
副社長が驚きの声を出す。
「せ、芹沢本部長……!?
どうしたんですか、急に」
芹沢は答えず、
ただ部屋を見回し、
空間の“揃いすぎた空気”を確認するように深く息を吸った。
そして、ぽつりと言った。
「……呼ばれた」
静寂が落ちる。
誰が?
何が?
どうやって?
それを誰も問えなかった。
芹沢は胸のポケットから、
黒い手帳を取り出す。
開いたページには、
見覚えのある呪文が手書きで記されていた。
コワレ・ソロエ・ヒトノコエ
ムネノカナタノ“ナニカ”トトエ
社長が険しい顔で聞く。
「その呪文……なぜ知っている?」
芹沢は目を閉じ、静かに答えた。
「この会社には、“声の奥に潜む何か”がいる。
私はずっとそれを調べていました。
今日——ついに共鳴が起きた。」
副社長が胸を押さえ、苦しげに呟く。
「……声が……近い……」
芹沢は副社長に歩み寄り、
その胸に手をかざした。
「君は“入り口”に選ばれた。
調和の日に、選ばれるのは必ずひとり」
社長が椅子を蹴って立ち上がる。
「ふざけるな!
副社長を巻き込む気か!」
芹沢は静かに言う。
「巻き込んでいるのは、
会社そのものです。」
沈黙。
役員室の空気がまた震えた。
天井の照明がゆっくり回転する。
専務Aが小さく呟く。
「……呼んでいる……何かが……」
芹沢は副社長の胸元を見つめながら告げた。
「ここから先は、
“ナニカ”に問いかけなければ進めません。
ムネノカナタの奥で、
あなたに何を見せているのか。
何を欲しがっているのか。」
副社長の瞳が少しずつ赤く、
夕焼けみたいに染まり始める。
彼の唇から、
誰のものでもない声が漏れた。
「……トエ……
……トエ……」
それは異質で、
それでいてどこか懐かしい響きだった。
芹沢は覚悟のように息を吸う。
「始まりましたね。
第三段階、突入です。」
次の瞬間、役員室の床が低くうねり、
まるで地中の何かが“背伸び”をしたように揺れた。
社長は歯を食いしばり叫ぶ。
「ここで何が起きる!?」
芹沢は静かに答えた。
「——“向こう”が来ます。」
