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悪銭はよく鳴る 第四話 数字は鳴らない

 彼女は、デザートの前にコーヒーと紅茶で迷っていた。

 六本木の小さなフレンチだった。

 高すぎる店ではない。だが、安くもない。

 白い皿に、少しだけ料理が置かれる種類の店だった。料理の量より、皿の余白のほうが多い。グラスの中のワインは、喉を潤すためというより、会話の間を濡らすためにあるようだった。

「紅茶にしようかな」

 彼女はメニューを見ながら言った。

「コーヒーじゃなくて?」
「今日、眠れなくなりそうだし」
「まだ早い時間だよ」
「そういう問題じゃないの」

 彼女は笑った。その笑い方が、僕は嫌いではなかった。銀座の女たちとは違う笑いだった。

 銀座の女たちは、笑う仕事をしている。彼女たちの笑いは、よくできている。必要なところで少し遅れ、必要なところで少し大きくなる。男が自分の言葉で場を明るくしたように錯覚できる、きれいな笑いだ。

 彼女の笑いには、まだ自分のための部分が残っていた。だから僕は、ときどき彼女と会っていた。

 その頃の僕たちの関係を正しく表す言葉を、僕は今でも知らない。
 恋人だったのかもしれない。ただの食事相手だったのかもしれない。互いに暇な夜を埋めるための、都合のいい知人だったのかもしれない。

 曖昧な関係は、便利だ。名前をつけないで済む。だが、名前のない関係ほど、金を出すときに音がする。

 この話をするうえで、ひとつ先に言っておいたほうがいい。

 僕は、金に困っていなかった。

 生活に困っていたわけではない。
 借金があったわけでもない。
 今月の家賃を気にしていたわけでもない。

 むしろ、逆だった。

 僕には、十分な金があった。

 十分、という言葉は便利だ。人によって意味が違う。月末に家賃を払えることを十分と呼ぶ人もいるし、老後まで働かずに済むことを十分と呼ぶ人もいる。

 僕の場合は、後者だった。

 四十を少し過ぎた頃、僕は仕事を辞めた。
 会社に嫌気が差したからではない。上司と揉めたわけでもない。精神を病んだわけでもない。少なくとも、その時点では。

 ただ、もう働かなくてもよくなった。それだけだった。

 若い頃の僕にとって、金は数字だった。

 画面の中で増えるもの。
 減るもの。
 赤くなったり青くなったりするもの。
 利回りになり、税引後の受取額になり、年率換算され、複利で未来へ伸びていくもの。

 金は紙ではなかった。金は、数字だった。

 朝起きると、まずスマートフォンを開いた。米国市場の終値を見る。為替を見る。金利を見る。暗号資産を見る。夜中に目が覚めても見る。誰かと食事をしていても、相手がトイレに立った瞬間に見る。

 金は眠らない。そう思っていた。
 正確に言えば、眠らないのは僕のほうだった。

 やがて資産は増えた。運がよかった。時代もよかった。
 才能があったとは思わない。才能があると思い込むほど若くもなかった。ただ、早く始めて、途中で降りず、何度か大きく賭けて、何度か偶然死ななかった。

 それだけだ。

 気づけば、もう働く必要はなくなっていた。

 僕は資産の多くを、安定したものへ移した。大きく増やすより、減らさないことを優先した。ただ守ればよかったのだ。ポートフォリオは美しかった。
 無駄がなく、リスクも抑えられている。長期で見れば、たぶん問題ない。大きな贅沢をしなければ、死ぬまで困ることはない。

 完成していた。

 そして、完成したものは、退屈だった。

 チャートは見なくなった。見ても、何も感じないからだ。画面の中の金は、増えても鳴らない。減っても匂わない。燃えない。灰にならない。僕は長いあいだ、それを金だと思っていた。だが、本当は違ったのかもしれない。

 金とは、紙だった。

 折れるもの。
 湿るもの。
 財布の奥で曲がるもの。
 指先の迷いを吸うもの。
 出したくない瞬間に、出されるもの。
 燃やせば鳴るもの。

 あの雨の夜、見知らぬ男から一万円札を奪い、それを燃やしたあと、僕の中で何かが変わった。

 いや、戻ったのかもしれない。

 数字の世界から、紙の世界へ。

 画面の中にあった金が、街へ戻ってきた。

 それから、僕は財布そのものではなく、財布を開く前の顔を見るようになった。

 レジ前でも、券売機の前でも、タクシーの後部座席でも、人は紙幣を出す直前に、ほんの少しだけ自分の生活へ戻る。

 残りの金。明日の昼飯。帰りの電車。払わなければ済んだかもしれない何か。言わなければよかった一言。

 指が止まる。

 その止まり方に、まだ鳴っていない音があった。だが、通りすがりの財布では足りなかった。
 もっと近い金が欲しくなった。名前のある関係から出てくる札。

 断りにくさや、好意や、見栄に押されて、財布の奥から出てくる一枚。

 そういう札は、きっと長く鳴る。

 けれど、奪うのは粗かった。

 あの雨の夜の一万円札は、よく鳴った。火をつける前から震えていた。酸っぱく、甘く、恐ろしく、生々しかった。

 だが、粗かった。

 走ったのか歩いたのかも覚えていない。誰かの声、落ちた缶コーヒー、濡れたタイル。そういうものが、まだ手に残っていた。

 あれは危ない。

 警察に捕まれば、もう燃やせなくなる。それに、少し下品だった。僕は犯罪者になりたいわけではなかった。ただ、音が聴きたいだけだ。味わいたいだけだ。

 ならば、別の方法があるはずだった。

 人は、奪われなくても、出したくない金を出すことがある。

 そのことに気づいたのは、彼女と食事をした夜だった。

 魚料理のあと、彼女はナイフとフォークをきれいに揃えた。

「いつも出してもらってるよね」
 彼女は言った。僕はワインを一口飲んだ。「そうだっけ」
「そうだよ」
「気にしなくていいよ」
「そう言われると、余計気にする」
 彼女は笑った。

 少しだけ、本気が混じっていた。僕はその笑いを見ていた。

 いつも出してもらっている。

 余計気にする。その言葉は、あとで使えると思った。そう思った自分に、少しも驚かなかった。僕はだんだん、そういう人間になっていた。

 会計は僕がした。いつものようにカードを出した。

 店員が端末を持ってきて、僕は暗証番号を押した。小さな電子音がして、支払いは終わった。

 金は動いた。だが、何も鳴らなかった。
 当然だ。数字が移動しただけだ。
 紙はない。手触りもない。出したくなさもない。

 店を出ると、外は少し冷えていた。彼女はコートの襟を立て、息を白くした。

「ごちそうさま」

 そう言って、いつものように笑った。僕はその笑顔を見ながら、ふと思った。この人は、今、金を出すつもりがない。

 もちろん、それでよかった。いつもそうだった。

 僕が誘い、僕が店を選び、僕が払う。彼女は礼を言い、ときどき小さな菓子や本をくれた。それで関係は保たれていた。

 だが、その日は違った。

 彼女の財布が見たくなった。

 彼女が、出すつもりのなかった金を出すところが見たくなった。

「じゃあ、今日は半分もらっていい?」

 僕は言った。

 彼女は一瞬、意味が分からないという顔をした。

「え?」
「さっき言ってたから」
「何を?」
「いつも出してもらってるって」

 彼女は笑った。冗談だと思ったのだろう。

「急に?」
「うん。半分」
「今?」
「今」

 笑いが、途中で止まった。彼女は僕の顔を見た。
 僕は、できるだけ普通の顔をしていたと思う。

「振込じゃだめ?」
「現金がいい」
「現金?」
「うん」
「なんで?」
「ちょっと必要で」

 我ながら、雑な嘘だった。

    金に困っていない男が、高い店でカードを切った直後に、現金が必要だと言う。

    普通に考えればおかしい。彼女も、そう思ったはずだ。けれど、そこで笑って流せるほど、僕たちの関係には名前がなかった。

    恋人ではない。
    友人とも言い切れない。
    赤の他人でもない。
    だから彼女は、すぐには断れなかった。

「今、あんまり持ってないかも」
 彼女は言った。

「いいよ。無理しなくて」
 僕はそう言った。優しい声で。
 その声が、自分でも嫌になるほど自然だった。

 無理しなくて。

 それは、親切な言葉の形をしていた。だが、その中には小さな針があった。

 払えないならいい。
 最初から払う気がなかったならいい。
 いつも奢られるつもりで来ていたなら、それでもいい。

 そんな意味が、言葉の裏に薄く貼りついていた。彼女はそれを感じたと思う。
 目の奥に、小さなものが浮かんだ。

 怒りではない。
 失望でもない。

 それらになる前の、もっと柔らかいものだった。信頼が、形を変える直前の表情。

「財布、見てみる」

 彼女はバッグを開いた。僕は、黙って待った。
 彼女は小さな革の財布を取り出した。角が少し擦れている。ブランド物ではあるが、新しくはない。彼女はそれを両手で持ち、ファスナーを開けた。

 僕は見ていた。

 財布の中には、千円札が二枚。
 五千円札が一枚。
 そして、奥に一万円札が一枚あった。

 彼女の指は、まず千円札に触れた。
 二枚を抜く。
 次に五千円札に触れた。そこで止まった。

 合計七千円。足りない。

 別に足りなくてもよかった。
 僕にとっては、金額などどうでもいい。
 けれど彼女は、そうは思わない。
 半分と言われた。

 食事代は、二人で三万円を少し超えていた。七千円では足りない。

 彼女の指が、奥の一万円札に触れた。そして、止まった。

 出したくない。

 僕には分かった。その一万円札には、予定があった。

 何のための金かは知らない。家賃かもしれない。美容院かもしれない。病院かもしれない。親に送る金かもしれない。ただ、彼女の指は、その札を財布の奥に残しておきたがっていた。

 出したくなかった札。

 喉の奥が乾いた。

「七千円でいい」

    僕は言った。
    彼女は唇を少しだけ結んだ。

「これしかないんだけど」
    そう言って、一万円札を抜いた。
    抜いたあと、一度、財布に戻しかけた。

    それから、僕に差し出した。
    その動きが、ひどく美しかった。

 指先が、札の端を離す。紙が、彼女の手から僕の手へ移る。それだけだった。

 たったそれだけのことだった。

 だが、僕には聞こえた。まだ燃えていない一万円札が、かすかに鳴っていた。

「お釣り、あとで」

 彼女が言った。

「うん」

 僕は頷いた。たぶん、返すつもりはなかった。彼女はその夜、あまり話さなくなった。

 駅まで並んで歩いた。

 いつもなら、どうでもいい話をした。次に行きたい店。最近見た映画。共通の知人の悪口。そういう軽いものが、二人の間を流れていた。

 その夜は違った。会話が、妙に薄かった。駅の改札前で、彼女は小さく手を振った。

「じゃあ」
「また連絡する」

 僕が言うと、彼女は少しだけ笑った。笑うには笑った。だが、目の奥が笑っていなかった。

 彼女が改札の向こうへ消えていくのを見送ったあと、僕はポケットの中の一万円札に触れた。

 紙は、まだ温かいような気がした。

 彼女の手の熱ではない。差し出すまでに迷った時間の熱だった。革の財布にこもっていた匂いの奥に、さっきまで隣にあった香水が薄く残っている。駅の明かりの下で少し冷えていた指。その指が一度戻りかけたことを、紙はまだ覚えているようだった。

 僕は、帰りのタクシーの中でずっと、その札を握っていた。

 握っているうちに、それが彼女の体温なのか、僕の手の熱なのか、分からなくなった。


 帰宅すると、すぐにカーテンを閉めた。
 部屋の灯りはつけなかった。陶器の皿をテーブルに置いて換気扇を回す。

 財布からではなく、コートのポケットから一万円札を取り出す。

 それは、僕の札ではなかった。形式上は、彼女が僕に渡した金だ。
 割り勘。合意。清算。言葉にすれば、どれも正しい。
 だが、正しさはいつも、いちばん大事なものを隠す。

 彼女は出したくなかった。

 それで十分だった。

 ライターを手に取る。

 火をつける。

 炎を近づける前から、紙幣はかすかに震えていた。

 強奪した札のような激しさはない。

 雨の駅前で奪った一万円札は、切れる寸前の弦のように鳴った。

 だが、この札は違った。

 細い。静か。それでいて、長い。
 古いオルゴールのぜんまいが、ゆっくりほどけていくような音だった。

 火が触れる。紙の端が黒くなる。音が深くなった。

 レストランの白い皿。ワインの薄い渋み。彼女の笑い声。その笑いが止まった瞬間。ファスナーを開ける音。財布の奥にあった一万円札。一度戻りかけた指。

 七千円でいいよ、という僕の声が、遅れて聞こえた。
 親切の形をしていた。
 だが、火の中では、ひどく卑しい声だった。
 それらが、細い旋律になって重なった。

 少し遅れて、香りが来た。

 香水と革の匂い。冬の夜のコートが吸った冷たい空気。白い皿に残ったバター。口紅。少し冷えた手。そして、ほんのわずかに、紙袋の中の薬のような匂い。
 僕は息を止めた。

 味は、遅れて来た。

 苦かった。

 最初に来たのは、苦味だった。

 焦げた砂糖のような苦さ。飲み込む前に舌の上で残る、薬のような苦さ。

 その奥に、少しだけ甘さがあった。

 先生の札の甘さとも、雨の夜の札の甘さとも違う。

 もっと薄く、もっと冷たい。
 好意が冷えていく味。
 期待が、恥ずかしさに変わる味。

 言えばよかった言葉を、言わずに飲み込んだ味。

 僕は目を閉じた。

 すると、音はさらに細くなった。

 彼女の声が聞こえた気がした。

 もちろん、本当に声がしたわけではない。
 ただ、燃える紙幣の音の中に、言葉になる前のものが混じっていた。

 どうして。

 そう聞こえた気がした。
 僕は答えなかった。答えられるはずもなかった。

 紙幣は燃え続けた。諭吉の顔が歪み、端が丸まり、黒い花のように縮む。

 音は最後まで細かった。だが、消えなかった。

 強奪した札は、爆ぜるように鳴った。

 この札は、絡みつくように鳴った。

 燃え尽きたあとも、耳の奥に残った。灰になっても、まだ鳴っている気がした。

 僕はしばらく動けなかった。口の中には、苦味が残っていた。

 水を飲む。消えない。

 歯を磨く。苦味だけが、少し甘くなる。

 鏡を見る。普通の顔をした男がいた。

 高い店でカードを切り、彼女の罪悪感とプライドを使って現金を出させ、その札を燃やして味わった男には見えない。

 僕は、その普通さに少し安心した。

 それから、少しだけ失望した。

 部屋に戻ると、スマートフォンが光っていた。

 彼女からのメッセージだった。

 今日はありがとう。
 でも、ちょっとびっくりした。
 お釣りは大丈夫です。

 短い文章だった。

 怒っていない。責めてもいない。
 だからこそ、そこに含まれているものが分かった。

 彼女は、もう次に会うつもりがない。

 僕はメッセージをしばらく見ていた。
 返信はしなかった。

 代わりに、ノートを開いた。かつて投資の記録をつけていたノートだった。

 銘柄名。購入価格。想定シナリオ。損切りライン。
   そんな古い文字の下に、新しいページを開く。

 僕はペンを取った。

 六本木。
 食事後。
 カード決済後に現金要求。
 一万円。
 関係性あり。
 自尊心利用。
 抵抗は弱いが、余韻が長い。

 苦味。
 冷えた甘さ。
 直接強奪より静か。
 再現性あり。

 そこまで書いて、ペンを止めた。

 再現性あり。

 その言葉を見て、少し笑った。久しぶりに、投資をしていた頃の感覚が戻っていた。

 仮説。検証。記録。修正。

 違うのは、対象が数字ではなく、人間になったことだけだ。

 窓の外では、夜の街が静かに光っていた。

 どこかで誰かが財布を開いている。どこかで誰かが、出したくない札を見つめている。どこかで誰かが、言いたいことを飲み込んでいる。

 画面の中の資産は、今夜も動いているのだろう。債券は少し上がったかもしれない。為替は少し円安に振れたかもしれない。株価指数は、どこかで誰かを喜ばせ、どこかで誰かを傷つけているのかもしれない。

 だが、もうどうでもよかった。

 数字は鳴らない。人は鳴る。

 僕はノートを閉じ、舌の奥に残る苦味を確かめた。

 強くはない。だが、長い。

 悪くない。

 そう思った。



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