試す女(ためすおんな)第六話︰夜に飼われる【創作大賞恋愛小説部門】
玄関の蝶番が、まるで何かを惜しむように、低く柔らかく啼いた。湿り気を含んだ朝焼けが敷居に斜めの影を落とし、空間全体がほんの一瞬、茜色のフィルターをかけたように染まる。
ソファの賢斗は、背中を向けたまま深く静かな寝息を立てていた。その寝息には、まだ昨夜の体温と湿度が残っているようで、重たく胸に沈殿した夜を、彼はまだひとりで夢の中に抱えているようだった。
キャリーケースのキャスターがフローリングを控えめに転がる音が、朝の沈黙を切り裂く。ガーメントバッグの布が壁紙に擦れる微かな音に、自分の足音すら掻き消されそうな気がして、私は息を殺して玄関まで進む。
手の中の鍵束が小さく鳴る。ポストの上に置いた三行のメモ──〈ありがとう/ごめん/元気で〉──は、まるで遺書のように整然としていて、それがかえって感情を削ぐ。
扉を閉める瞬間、背中でシーツが軋んだ。だが、振り返らない。あの夜の温度が、まだ指先にこびりついていた。玄関のドアを閉める音が、最後の決意のように響いた。
夜明け前の中目黒。街路樹の葉は濡れて微かに香りを放ち、アスファルトには排気と雨上がりの匂いが溶け合っていた。タクシーの窓越しに見上げた空は、群青と錆色がまだらに混じった曖昧な世界。光にも闇にも属さない、その継ぎ目に私は身を投げ込んだ。
午前八時、銀座八丁目の路地裏。不動産屋の窓口には、誰にも触れられていない新札の束が重ねられていた。数えられるたびに、札は朱肉の香りを吸い込んで微かに膨らんでいく。まるで、この街の空気が金に形を与えているかのようだった。
〈家賃は給与より控除/佳代子ママ印〉──赤い角判が滲んだ契約書に印鑑を押すとき、掌に小さな震えが走った。その震えは、単なる冷えではなかった。
外に出た瞬間、スマホが震えた。画面には〈佳代子ママ〉。
「新しい部屋、気に入った?」
「今、鍵を受け取ったところです」
「なら今夜、開店前にカウンターへいらっしゃい。“本採用”の追補にサインさせるわ」
追補?と問いかける間もなく、ママの声が湿り気を含んだ艶やかさで続いた。
「折半よ。あなたはもうヘルプ無しで席を持つ。固定給はないけれど、現金客でもカードでも、入金が確認できればすぐに支払う。もちろん、ヘルプが必要なときは相談に乗る。──ただし、売掛が二か月を超えたら、それはあなたの責任」
その口調は、まるでナイフのように冷たく、しかし曇り一つない真実だけを指し示すものだった。
「リスクは全部、私ですか」
「そう。愛を“試す”なら、まず自分の懐で試しなさい。それから、残った荷物はスタッフに取りに行かせるから」
通話が切れた後、指先には鍵よりも重い震えが残っていた。
それからの三日間、私は昼のない夜を泳いだ。昼間の派遣の仕事は、取ってつけたような理由で退職した。
福山から届くヴァンクリの小箱、カルティエの赤い紙袋、ロジェ・デュブイのカフリンクス──夜が深まるほど贈り物は高価になり、朝が近づくほど私の眠りは浅くなった。ソファでの短い仮眠から目を覚ましたとき、窓の縁にはいつも茜色が滲んでいた。皮膚の下の傷はまだ疼いていたが、涙はもう乾いていた。
四日目の夕方。待機席に腰掛けていた私の隣に、真璃さんが座った。三十歳、背筋を伸ばした長身、鋭利なラインのショートボブ。銀座歴は五年を超え、薫さんが去った今、この店の“暫定女王”は彼女だ。
「よっ、夜の新人王!」
彼女はハイヒールをカツンと鳴らし、私の膝の上に置いたエルメスの名刺入れを軽く弾く。
「二十代は男に貢がせてナンボでしょ?三十路の私は肝臓一本釣りよ。ただ、お店じゃ“おみや”はちゃんと用意しなさい。礼儀だからね」
そこに別のホステスが茶々を入れる。「真璃さんの“おみや”ってTENGAじゃないですか」
「そうよ!団体でガブ飲みさせて、帰りにTENGAをおみやげ! 家で発散すりゃ、また財布も肝臓も新しくして来てくれるってわけ!」
爆笑が広がる。けれど真璃さんは、紙袋のリボンを指で正し、折り目をきっちり整えていた。豪放なのに細やか。だからこそ、彼女はこの店で“愛される女王”なのだ。
真璃さんの売上は群を抜き、私は二位。
「薫姐がいなくなったら、舞台は私!夜の主演女優は笑いで取るのよ、覚えときな!」
笑い声がこだまする中、私の鼓動だけが異物のように重たく硬かった。
やがて、フロアに灯りがともる。氷の鳴る音、香水の芳香、光の粒──夜がまた新しい顔を見せ始める。
八時半。福山が黒いカードケースを手に入店。テーブルにはシャトー・ムートン・ロートシルト二〇一四年──百万円。隣のソファでは、真璃さんが十人の団体を抱えてドンペリを天井へ飛ばしていた。
「男は肝臓が財布だって言ったろ! 今夜も抜いちゃうわよー! ケツの毛もね!」
「姐さん、最高!」客たちが腹を抱え、ボーイが笑いながらタオルを取りに走る。私の席ではスタッフが静かに赤ワインを注ぐ。
福山の手元にハリー・ウィンストンの箱があるのを見た。
「部屋で開けて」
「ありがとうございます。でも──光らせるのは、このテーブルで十分です」
グラスの液面がわずかに揺れ、ムートンの深い赤が照明を帯びて煌めいた。視界の端がかすみ、胃の奥がきしんだ。まだ心は熱を帯びているのに、体のどこかが冷えていた。立ちくらみのような感覚が一瞬だけ、世界を遠ざける。
「……僕は、本気で君に向き合ってるつもりだよ」
福山の声が、今夜は少しだけ低く響いた。グラスの縁をなぞっていた指が止まり、彼は私を見た。
「妻とは話を進めてる。すぐじゃないけど、終わらせる方向で。──ただ正直、この店で君が他の男と笑ってるのを見るのは、辛い」
私は、ほんの数秒だけ黙った。言葉にすれば、何かが崩れそうだった。
「私も、福山さんのこと……ちゃんと本気です。夢みたいで、まだ信じられないくらい」
「だったら、もうこの店を離れて──って言いたいけど、それが無理なのもわかってる。君が背負ってるものも、ここでの立場も」
彼は一度、視線を落とし、続けた。
「……それでも、ここで毎回百万使うより、君に直接時間もお金も使いたいって思う。そういう形で、君を支えたい」
「それは……嬉しいです。でも……」
私は言葉を切った。視線を逸らすふりをして、少しだけ呼吸を整える。そのとき、どこかのテーブルでグラスが倒れたらしく、小さな破片の音が聞こえた。
「愛人になるのは、怖いです。名前のない関係って、終わりがいつ来てもおかしくないから」
「君のことは、そんなふうに思ってない。ただ、社会の手続きって、どうしても時間がかかる」
「だから、今はまだ“夜”に立つ私を、試してほしいんです。──私の気持ちも、まだ夜の中にありますから」
「……なるほど。君にそう言われたら、試されてるのはこっちだな」
福山は苦笑し、グラスの赤をゆっくり口に運んだ。頷きながら、私を見つめる目が少しだけ寂しそうに揺れた。
「来月は会社の資金繰りがあって、少し店には控えめになるかもしれない。それでも──気持ちが変わったわけじゃない」
「だったら、売掛でもいいから来てください。……私、数字じゃなくて顔が見たい」
「わかった。僕も、君に会いに来る。……試されるのも、悪くない」
真璃さんの笑い声が遠くへ引いていく。
売上が増えるほど、福山の“愛”は私の懐に直結する。報酬は四割──リスクと引き換えに、即日で現金が動く。それが、銀座のリアルだった。
──愛を試す。だが、その重さは私の体内で跳ね返る。
午前三時。新居のワンルーム。床に散らばるブランド袋、ヴァンクリのリボン、カルティエの赤、ロジェ・デュブイの箱、黒と金のハイヒール。
テーブルに札を積み、電卓を叩きながら、心の中の借方と貸方を埋める。冷蔵庫を開けた瞬間、食材の匂いに胃が反転した。水だけをコップに注ぎ、吐き気を飲み込むように飲み下す。
スマホが震える。賢斗の留守電──〈遠くからでも君が飛んでるのが見える気がする。元気で〉。再生せず、通知を指先で消す。その手が震えていた。胸元のダイヤが、静かにカチリと鳴った。
バルコニーへ出る。夜明け前、空は灰色。生ぬるい風が頬を撫でる。
「飼われるって、こういうことか」
つぶやきが空へと溶けていく。下腹が鈍く重い。けれど理由は、まだ考えない。
遠く、真璃さんの笑い声が幻聴のように残響し、泡のように弾けて消えた。
──夜はまだ、私を離さない。
