読む女 第二話 バーティカル・リミット
今日も、銀座へ向かう電車の中で、ページを開く。紙のざらつきは、どこか乾いている。
同じ紙のはずなのに、読む場所によって温度が違う気がする。
目より先に、指が覚えていることもある。
山岳を舞台にした恋愛小説。女は明るく、豪快で、よく笑う。危険な場所でも迷いを見せず、男を導く。
その笑顔は、読む者に安心を与え、物語を前へ進める力を持っていた。
男は野心的だが、山ではわずかに判断が遅れる。
どこかで、見覚えのある輪郭だった。
頼りないわけじゃない。ただ、決めるのがほんの少し遅い。その遅れを、誰かが埋めてしまうだけだ。
クライミングの場面に差しかかったところで、私は読む手を止めた。
ザイルが岩角に噛み込み、時間が引き延ばされる描写。
女は上にいる。
男は下で、宙吊りになっている。
まだ、叫びは書かれていない。
書かれていない行ほど、はっきり読めることがある。続きを知っているわけじゃない。ただ、外したことがないだけだ。
それなのに、私は次の行を、すでに知っている気がした。ページを閉じ、視線を落とす。
電車の窓に映った自分の顔は、夜の仕事へ向かう前の、作りかけの表情だった。
──あの頃のことを、思い出す。
机の上には、原稿用紙が散らばっていた。紙は、薄い壁みたいに頼りなく、そこにあった。
風が吹けば揺れる。けれど、その内側にいると、外の音は少しだけ遠くなった。
悠人は、何度も書き直していた。
強い筆圧で線を引き、気に入らない部分を塗り潰し、やがて丸めて、捨てる。その動きは、どこかで見たことがある気がした。いらない部分だけを残さず削るやり方。
削ったあとの方が、整って見える。そういう顔を、私は仕事で何度も見てきた。
「俺、小説家になる」
ある夜、彼はそう言った。唐突だった。でも、それしか残っていない顔をしていた。
「君しか書けない」
そう言って、彼は私を見た。私は、机の上の原稿を手に取った。そこに書かれていたのは、私たちの夜だった。
声も、呼吸も、触れ方も。
彼の文章の中にいる私は、私より静かだった。
声を荒げず、欲しがりすぎず、傷ついても顔に出さない。
そんな女にされたことに、私は腹を立てるべきだった。
けれど、腹は立たなかった。
むしろ、少し酔っていた。
私という素材が、彼の手で別の女になっていく。
それは気味が悪くて、気持ちよかった。
「……これ、私?」
「俺には、君しかいないから」
その言葉が、救いなのか、逃げなのか、そのときの私は、まだ選べなかった。
その夜から、彼は書き続けた。
私は書かれることに、酔っていた。自分が、誰かの中で形を持つことに。
私はそこにいた。
そこにいる自分のほうが、現実の私より正しい気がした。
数日後、私たちは映画を観た。
『バーティカル・リミット』
絶壁を登る人間たち。張り詰めたロープ。選ばなければならない瞬間。
途中で、悠人は言った。
「背負うものがないやつは、強いよな」
画面の中で、父親は自分でザイルを切る。誰にも頼まず、誰にも任せず、
ただ、自分で。
切った人間は、英雄にならなかった。物語から、静かに消えた。残るのは、切られなかった側の物語だけだ。
私はその場面を、少しだけ遠く感じながら見ていた。悠人は拳を握りしめていた。
「俺は、絶対に書く」
その声は、決意というより、祈りに近かった。同じ部屋の中で、私たちは別の方向を見始めていた。
私は夜を銀座に移した。
よく笑い、場を回し、男の言葉を半歩先で拾う。必要な自分を、必要な分だけ出す。それは、簡単だった。少し外したところで、取り返しはつく。そういう場所だった。
帰ると、悠人は机に向かっていた。
紙の上に、私がいた。整えられて、削られて、使いやすい形になっていた。
そのうち、私は読まなくなった。読めなくなった、の方が近い。
ある夜、彼は言った。
「ここ、変えたんだ」
原稿を差し出される。私は受け取らなかった。受け取れば、続きを読まなければならない。読めば、戻れなくなる気がした。
「あとで読む」
そう言ったまま、読まなかった。彼は何も言わなかった。その沈黙が、妙に正しかった。
いつからか、部屋の中の温度が変わっていた。
同じ空間にいるのに、触れている場所が違う。ある夜、私は少し早く店を出た。
理由はなかった。
ただ、帰ってみようと思っただけだった。
部屋の明かりはついていた。
けれど、そこには誰もいなかった。机の上には、原稿だけが残っていた。
少しだけ迷ってから、私はそれを手に取った。 そこにいたのは、私だった。でも、私そのものではなかった。
余計なところを削られ、見せたくないところを隠され、見せてもいい傷だけを残された女だった。
私は、その女をしばらく読んでいた。読めば読むほど、腹の底が冷えた。
彼は私を見ていた。
たぶん、私が思っていたよりも、ずっと。
私は原稿を置いた。そのまま、部屋を出た。引き止める声はなかった。
たぶん、必要な分だけは、もう書かれていたからだ。
──電車が減速する。
私は本を開いた。 ページの中で、男が叫んでいる。
「切れ!」
私は小さく息を吐いた。あのとき、叫んだのは、どっちだったのか。少し考えて、やめた。 読めば、当たる。読まなければ、外さない。
もう、読む必要はなかった。
