読む女 第四話 整えられた味
その夜、VIP席には石橋先生が一人で座っていた。
次期総理候補。
温厚な人柄で知られ、政界きってのジェントルマン。薫さんの「元カレ」という噂さえ、彼のまとっている柔らかな空気の中では、どこか品の良い逸話のように聞こえた。
ただそこにいるだけで、場の温度が一定に保たれる。
グラスの水位も、姿勢も、視線の運びも、すべてが過不足なく収まっている。
余計なものを削ぎ落とした人間は、ここまで静かになるのかと思った。
そこへ、薫さんに導かれるようにして、彼女が入ってきた。
その新人の源氏名は里佳子と後から聞いた。
銀座の美容室で整えられた髪。レンタルのドレス。
パッと見は、どこにでもいる「正解」の中に収まった新人だった。
石橋先生の目が、ふっと細められた。慈しむような、それでいて少し困ったような眼差し。
私はそれを、いつものように読んだ。
先生は、薫さんがどこからか猫でも拾ってきたのかと思っている。
そういう目だった。
犬じゃない。
猫だ。
呼ばれたから来る女ではない。来たいときだけ現れて、飽きたら背中を向ける。
借り物のドレスをまとい、教えられた通りに頭を下げながらも、里佳子の奥には、誰にも飼われていない沈黙があった。
「先生、お待たせいたしました。改めて……里佳子ちゃんです」
薫さんの声が、凪いだ水面のように響く。
石橋先生は、ゆっくりと顔を上げた。
「改めて、ようこそ。ゆっくりしてね」
その言葉が落ちた瞬間、里佳子の中で何かがふっと動いた。
彼女は何もしていない。ただ、少し息を吸っただけだ。それなのに、場の空気がほんのわずかに乱れた。
整えられた部屋の中に、外の匂いが一瞬だけ入ってきたようだった。
「……里佳子です。よろしくお願いします」
彼女が頭を下げると、先生の口元がわずかに緩んだ。触れたいのに、触れれば逃げてしまうことを知っている者の、静かな降伏。
その距離の取り方が、妙に生々しかった。
あの子は読めない。
……いや、私がまだ読めていないだけかもしれない。
何が起こるか分からない。だから、そそられる。
その予感を手放さないうちに、別の場所で触れてみることにした。
危ないものは、まず安全な場所で試す。念のため、相手は選んだ。私に惚れていることを、あえて隠せる男。そういう相手は、大きく崩れない。
数日後、同伴で入った店で、私はそのことを思い出していた。
ガラス越しの光がやわらかく、外のネオンだけが少し安っぽく見える。
扉を押すと、温度がひとつ変わる。冷たくもなく、暖かくもない。整えられた空気。こういう店は、長くなる。
席に通されると、白いクロスの上に並ぶカトラリーが、最初から正しい位置に収まっていた。
最初から正しいものは、途中であまり揺れない。
社長は椅子に深く座り、メニューを閉じる。部下はその半歩後ろで、同じものを頼む準備をしている。
この距離は、命令がいらない距離だ。
確認も、ためらいも、必要ない位置。
里佳子は、その二人を見て、姿勢を少し正した。
どこに合わせるべきかを探している。
私は、少しだけ意地悪をしたくなった。
危ないものは、安全な場所で試す。でも、試されていると気づかせてしまえば、試す意味がない。
「里佳子ちゃん、こういうお店、好き?」
私が訊くと、里佳子は一瞬こちらを見た。それから、店内を見回した。
白いクロス。磨かれたグラス。音のしない床。低く整えられた照明。
社長も、部下も、彼女の答えを待っている。
普通なら、ここは「素敵です」と言えばいい。
それが正解だ。少なくとも、間違いではない。
「……きれいです」
里佳子は言った。それから、少しだけ首を傾げる。
「でも、ちょっと緊張します」
部下の眉が、ほんのわずかに動いた。
社長は笑わない。
私はグラスの縁に指を添えたまま、続きを待った。
「なんか、間違えたら音がしそうで」
里佳子はそう言って、自分のナイフとフォークを見た。その言葉は、場に馴染んでいなかった。けれど、嘘ではなかった。媚びてもいない。崩れてもいない。
私は、少し感心した。
正解ではない。でも、使える。
「いい表現だね」
社長が言った。
里佳子は驚いたように顔を上げる。
「そうですか?」
「うん。間違えたら音がしそうな店って、分かる気がする」
社長の声が、さっきより少し柔らかくなった。
部下は、まだ判断を保留している顔をしている。
私はそこで、もう一度だけ里佳子を押した。
「じゃあ、里佳子は、音がしない店と、音がする店、どっちが好き?」
「え」
彼女は困った顔をした。
普通は、こんな質問を新人には振らない。答え方を間違えれば、場が荒れる。でも、荒れるかどうかを見たかった。
里佳子は少し考えた。
「音がするほう、ですかね」
「どうして?」
私が訊くと、里佳子は自分の膝の上に置いた手を見た。
「そのほうが、誰かがいる感じがするから」
社長が、今度ははっきり笑った。私はその笑い方を見て、胸の中で小さく頷いた。
この子は、場を読めないのではない。
場に呑まれる前に、自分の匂いを少しだけ残してしまうのだ。
それは銀座では危うい。けれど、危ういものほど、男の記憶に残る。
「ここの野菜、いいんですよ」
社長が言う。軽い調子で、でも選んだ理由はちゃんとある顔。
「有機とか、なんですか?」
里佳子が前のめりになる。声の高さが、少しだけ場に馴染みはじめていた。
「そう。有機栽培。農薬も化学肥料も使ってない」
「へえ、体に良さそうですね」
正しい相槌。正しい分だけ、まだ浅い。
私は水のグラスを持ち上げる。氷は入っていない。温度が、そのまま舌に触れる。
余計なものを入れないことが、価値になる場所。
それ自体が、もう一つの演出だ。
前菜が運ばれてくる。白い皿の中央に、葉物と根菜が小さな庭のように置かれていた。
赤いビーツ。薄く削られた蕪。名前の分からない葉。
すべてが、最初からそこに置かれるべきだったような顔をしている。
自然なのに、よく躾けられていた。
私はフォークで葉をひとつ持ち上げる。
軽い。水分が少ないわけじゃない。ただ、余計な重さがない。
「でも、味は普通ですね」
私が言うと、少しだけ間が空いた。
里佳子の視線がこちらに向く。部下の手が止まる。社長だけが、ほんのわずか遅れて笑った。
「普通?」
社長が訊く。
「ええ」
私は葉を口に運ぶ。苦味も、青臭さも、ちゃんと丸くされている。
「綺麗すぎる感じがします」
里佳子が、前菜をじっと見ていた。
「どう?」
私が彼女に振ると、里佳子は小さく口を動かした。
「おいしいです」
「うん」
「でも」
彼女は迷った。また、正解を探している。
私は助けなかった。
「畑っていうより、美術館みたいです」
社長が目を細める。私は笑いそうになった。理屈ではない。でも、そこに触っている。
この子は、自分の言葉で危ないところへ歩いていく。
「整ってる、ということかな」
社長が言い直す。
「整ってるのは、悪いことじゃないですよ」
「悪いとは言ってないです」
私は肩をすくめる。
「ただ、全部同じ顔になるなって思うだけで」
部下が、ちらりと社長を見る。どう返しますか、という視線。
「同じ顔?」
社長が訊く。
「はい。どこで食べても同じ、みたいな」
次に、スープが来た。淡い黄色のポタージュ。器の縁に、一滴も跳ねていない。表面は鏡みたいに滑らかで、そこに細いハーブが一本だけ置かれていた。
里佳子が小さく息を漏らす。
「きれい」
「こういうの、好き?」
私が訊くと、里佳子は少し迷ってから頷いた。
「好きです。なんか、ちゃんとしてる感じがして」
その言い方が、可愛かった。そして少し危うかった。ちゃんとしているものは、人を安心させる。安心させながら、少しずつ従わせる。
私はスプーンを口に運んだ。
甘い。けれど、甘すぎない。野菜の癖は残っていない。土の匂いもない。冷蔵庫の匂いも、畑の匂いも、誰かの手の荒れもない。ただ、滑らかだった。
「これも、すごく整ってますね」
私が言うと、社長はスープの表面に視線を落とした。
「料理としては褒め言葉でしょう」
「たぶん」
「たぶん?」
「ええ。料理としては」
社長は笑った。
「君は、すぐ逃げ道を作る」
「仕事柄です」
部下が笑っていいのか迷っている顔をした。
魚料理が運ばれてきた。白身魚の皮目だけが香ばしく焼かれ、身はナイフを入れる前からほぐれそうだった。
皿の端には、同じ大きさに切られた野菜が並んでいる。
里佳子は、さっきより慎重にナイフを持った。
社長はそれを見て、少しだけ目を細める。私は魚を口に入れた。
おいしい。それは間違いない。けれど、おいしさの中に、ひっかかるものがなかった。
骨も、臭みも、焦げすぎたところもない。失敗しないように作られた味だった。
「同じ顔、っていうのは」
社長が、ワインを一口飲んでから言った。
「安定してるってことですよ。供給も品質も」
「ビジネス的には、ですよね」
私が返すと、社長は首を横に振った。
「ビジネスだけじゃない。安全性の話でもある」
声は変わらない。変わらないまま、少し深くなる。
「化学肥料だって、そんなに悪いものじゃないんですよ」
私はナイフを置いた。小さな音が、やけに響く。
「悪いっていうより」
少し間を置く。
「都合がいいもの、ですよね」
里佳子が息を止める。
社長が、こちらを見る。
「都合がいい?」
「効率よく育てて、安定させて、同じ形に揃える」
私はグラスに指をかける。
「それができる世界なら、すごく便利です」
「できる世界なら?」
社長の目が、少しだけこちらに寄る。
「ええ」
私は笑う。
「便利って、だいたい前提が見えないじゃないですか」
肉料理が来た。仔羊だった。赤身はきれいな桃色で、血の匂いはほとんどしなかった。添えられたソースは濃く、でも皿の上では行儀よく止まっている。
里佳子は、少し困った顔で皿を見ている。
たぶん、どこから切れば正解なのかを探している。私はその顔を横目で見ながら、肉を一切れ切った。
柔らかい。柔らかすぎるくらいだった。
「何でも整えられると思ってると」
私は言った。
「整わないものが出てきたときに、困るんじゃないかなって」
社長はナイフを置いた。
「エネルギーの問題は、技術で解決する」
「たぶん、そうですね」
私が答えると、社長はすぐに聞き返した。
「たぶん?」
「ええ」
私は肩をすくめる。
「でも、それも整える方向の話ですよね」
「効率よく、均一に、安定させる」
少しだけ間を置く。
「全部、同じ味にする方向」
社長はわずかに笑った。
「同じ味で困る人は少ない」
「面白くない人はいます」
「面白さで人は食べていけない」
「でも、面白さがないと、食べる意味が薄くなりますよ」
里佳子が、明らかに困った顔をする。
「お二人とも……」
私はその声を聞き流す。
「私は、少しぐらい揃ってないもののほうが好きなんです」
「好き、ね」
社長が繰り返す。
「ビジネスは“好き”では回らない」
「でも“好きじゃないもの”も、長くは続かないですよ」
沈黙が落ちる。
皿はほとんど空になっていた。
デザートの前に出された小さなグラニテが、舌の上で冷たく溶けた。
さっぱりしている。さっぱりしすぎて、少し腹が立った。
社長は私を見て、少しだけ目を細めた。
「君は、危ないことをさらっと言う」
「そうですか?」
私が返すと、社長はうなずいた。
「うん。でも」
わずかに笑う。
「面白い」
私は笑い返す。
「納得してない顔してますけど」
「納得してないのは、お互い様でしょう」
それは、たしかにそうだった。
デザートが運ばれてきた。小さな焼き菓子と、季節の果物。最後まで、きれいだった。何も崩れていない。何もはみ出していない。
社長はフォークを置いた。
「面白いね」
怒っているわけでも、困っているわけでもない。
少しだけ楽しんでいる顔。
私は肩をすくめる。
「だって、納得いかないんですよ」
「いいよ。そういうの」
軽い。軽いけれど、拒絶ではない。
「じゃあ」
社長はグラスに手を伸ばす。
「続きは店でやろうか」
ほんの一瞬、間が空く。
私は笑った。
「いいですね。第二ラウンド」
里佳子が、小さく息を止める。
「……え、やるんですか」
「途中でやめるほうが、気持ち悪いでしょ」
「いや、でも……」
言葉が見つからない顔。
社長は立ち上がる。
部下も同時に動く。
止める役割の人間が、ここにはいない。
私はグラスを飲み干す。
有機でも、化学でも、どうでもいい。ただ、もう少しだけ話したかった。
店を出ると、夜の空気が冷たかった。
里佳子が、後ろで小さくつぶやく。
「……変な人たち」
私はそれを聞いて、少しだけ笑った。続けられる相手は、そう多くない。あの子は、崩れなかった。でも、どこにも収まっていなかった。
あれで何もしていないのだから、厄介だった。
