【ベーカー街探偵団の事件簿④】純潔のルビー前編~雪に沈む影~
1
トパーズの魔眼事件から一か月が過ぎた頃、エドマンド・アーサー・ウィンダムは兄のウィリアム・ウィンダムに呼び出されていた。
クリスマスの飾りつけがまだ街に残る12月末のロンドンは、新年を迎える準備に浮き足立っていた。
だが、エドマンドの心は重かった。
兄からの呼び出しは、いつも厄介事を意味する。
馬車がベルグレイヴィア地区に差し掛かると、窓の外の景色が変わった。
石造りの屋敷が立ち並び、街灯には新年を祝う飾りが下がっている。
富裕層の街だ。
エドマンドが育った、あの街だ。
ウィンダム家の本邸が見えてきた。
エドマンドは、深いため息をついた。
大理石の柱が立ち並ぶ玄関ホール。壁一面を覆うタペストリー。磨き上げられたマホガニーの階段。
すべてが、ウィンダム家の繁栄を物語っていた。
産業革命の恩恵を受けた新興貴族の富と権力の象徴。
エドマンドは、この屋敷で育った。
母が亡くなる前は、この屋敷は温かかった。母の笑い声が、廊下に響いていた。
だが、母が亡くなってから、この屋敷は冷たくなった。
父は事業に没頭し、兄は家督を継ぎ、エドマンドは……
エドマンドは、逃げ出した。
ベーカー街の安下宿に。
執事に案内され、エドマンドは兄の書斎へと向かった。
暖炉の火が、部屋を温かく照らしている。だが、その温もりは表面的なものだと、エドマンドは知っていた。
「エドマンド、また下宿屋で怠惰な生活を続けているそうだな」
重厚な革張りの椅子に座るウィリアムは、17歳年上で、エドマンドとは対照的に紳士的な身なりをしていた。
仕立ての良いスーツ、金の懐中時計、整えられた口髭。
すべてが、成功した実業家の風格を漂わせている。
既に42歳になる兄は、ウィンダム家の当主として、炭鉱事業と鉄道投資で莫大な富を築いた。
母を早くに亡くしたエドマンドにとって、兄は父親代わりでもあった。
厳しく、正しく、そして……愛情深い。
それが、エドマンドを苦しめていた。
「兄上、僕は別に迷惑をかけているわけでは……」
「いいや、迷惑だ」
ウィリアムの声は厳しかった。
「お前が安下宿でグレイ医師と暮らし、得体の知れない事件に首を突っ込んでいることは、もはや社交界でも噂になっている。虹色の貴婦人、青い瞳の連続殺人、そして先月のトパーズの一件。ウィンダム家の次男が、まるで貧民街の探偵まがいのことをしているとな」
エドマンドは黙って立っていた。
反論する気力もなかった。
兄の言うことは、正しい。
エドマンドは、家族の期待に応えていない。貴族としての務めを果たしていない。
だが……
心の中では、別の声が囁いていた。
僕は、あの暗闇から逃げられない。
あの事件の後、僕は。
エドマンドは、その思考を振り払った。
「兄上、今日僕を呼んだのは、説教のためですか?」
エドマンドは静かに尋ねた。
ウィリアムは、しばらくエドマンドを見つめていた。
それから、深いため息をついた。
「……いや、違う」
ウィリアムは立ち上がり、窓の外を見た。
雪がちらつき始めている。白い結晶が、暗い空から舞い降りてくる。純潔の象徴。だが、その白は、やがて泥に汚れる。
もうすぐ新年だ。
「実は、お前に警告しておかなければならないことがある」
「警告、ですか?」
ウィリアムは振り返った。その表情は、珍しく不安げだった。
「シャーロットのことだ」
その名を聞いた瞬間、エドマンドの心臓が跳ねた。
「シャーロッティに、何かあったのですか?」
エドマンドの声に、初めて感情が宿った。
ウィリアムは、その変化を見逃さなかった。
「……お前、やはりあの子を特別に思っているのだな」
エドマンドは答えなかった。
だが、その沈黙が、答えだった。
シャーロット。
いや、シャーロッティ。
金髪碧眼の、聡明な少女。
エドマンドにとって、彼女は……
まるで、若い頃の自分を見ているようだ。
好奇心に満ち、世界のすべてを理解しようとする、あの眼差し。
だが、エドマンドは知っている。
その好奇心が、どれほど危険なものか。
「お前の下宿に、入り浸っているそうだな」
ウィリアムが言った。
エドマンドは頷いた。
「はい。シャーロッティは、観察力に優れています。失せ物を探したり、迷い犬を見つけたり……」
「それが問題なのだ」
ウィリアムは鋭い声で遮った。
「シャーロットは、もう13歳だ。貴族の令嬢として、社交界にデビューする準備をすべき年齢だ。それなのに、お前の下宿で街を徘徊している」
エドマンドは、何も言えなかった。
ウィリアムは、暖炉の火を見つめた。
「お前は、シャーロットの才能を認めているのだろう。だが、エドマンド、今は危険な時期なのだ」
「危険?」
ウィリアムは、書斎の扉が閉まっていることを確認してから、声を落とした。
「ロンドンで、幼い少女が次々と誘拐されている事件を知っているか?」
「ええ、新聞で読みました。五人の少女が」
「6人だ」
ウィリアムは訂正した。
「昨夜、また一人が姿を消した。警察は情報を抑えているが、私は内務省の人間から聞いた」
エドマンドは、兄の表情を見た。
ウィリアムは、何かを恐れている。
「兄上、その事件が、シャーロッティと何の関係が?」
「誘拐された少女たちには、共通点がある」
ウィリアムは、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
「全員、1月1日生まれだ」
エドマンドは息を呑んだ。
「そして」
ウィリアムは、さらに声を落とした。
「忘れたか、シャーロットも、1月1日生まれだ」
沈黙が部屋を支配した。
暖炉の火が、パチパチと音を立てている。その音が、やけに大きく聞こえた。
エドマンドは、情報を整理しようとした。
6人の少女。
全員、1月1日生まれ。
シャーロッティも、1月1日生まれ。
「兄上、それは」
「偶然ではない」
ウィリアムは断言した。
「誰かが、特定の条件を満たす少女を集めている。そして、エドマンド」
ウィリアムは、窓の外の雪を見た。
「この事件には、王家が関わっている」
「王家?」
エドマンドは驚いた。
ウィリアムは頷いた。
「内務省の人間から聞いた話だが、ある王族の血を引く神職が、最近、奇妙な行動を取っているらしい」
ウィリアムは、机の上の資料を手に取った。
「レジナルド・フィッツロイ。王家の傍系で、現在は聖堂の神職を務めている。47歳。独身」
エドマンドは、その名を頭に刻んだ。
「そのフィッツロイが、誘拐事件に関わっていると?」
「確証はない。だが、彼は最近、『蛇の叡智団』の残党と接触しているという情報がある」
エドマンドの顔から、血の気が引いた。
「蛇の叡智団……」
あの秘密結社。
サミュエル・モーディカイの狂気。青い瞳の少年たちの死。トパーズに込められた、人の心を操る力。
エドマンドは、蛇の叡智団の恐ろしさを知っていた。
「ああ。お前が関わった、あの秘密結社だ」
ウィリアムは、エドマンドを見た。
「だから、お前に警告しておく。シャーロットを、この事件に近づけるな。そして」
ウィリアムは、もう一枚の資料を取り出した。
「もう一つ、重要な情報がある。王家の宝物庫から、ある宝石が持ち出されたらしい。『純潔のルビー』と呼ばれる、伝説の宝石だ」
「純潔のルビー?」
「ああ。伝説では、その宝石を使った儀式で、若さと美を取り戻すことができるとされている。もちろん、迷信だが」
「だが、蛇の叡智団は、そういった儀式を信じている」
エドマンドは呟いた。
「そして、1月1日生まれの少女が、その儀式に必要だと」
「おそらく、そうだ」
ウィリアムは頷いた。
「大晦日が、もうすぐだ。もし、彼らが儀式を行うつもりなら」
「時間がない」
エドマンドは立ち上がった。
「兄上、詳しい情報をください。フィッツロイの居場所、誘拐された少女たちの情報、すべて」
「エドマンド、お前、まさか……」
「僕が、解決します」
エドマンドは、兄を見た。
「シャーロッティを守るために」
ウィリアムは、しばらくエドマンドを見つめていた。
それから、小さく頷いた。
「……分かった。だが、一つ条件がある」
「何ですか?」
「シャーロットには、何も話すな。彼女を、この事件から遠ざけろ」
エドマンドは頷いた。
「約束します」
だが、心の中では、別の誓いを立てていた。
シャーロッティ、君を守る。
たとえ、僕の命と引き換えになっても。
2
その日の午後、シャーロット・ウィンダムは、ベーカー街に向かっていた。
金髪を三つ編みにし、深い青のコートを着ている。碧眼は好奇心に輝いている。
昨日、近所の老婦人から「飼い犬が逃げ出した」という依頼を受けていた。
シャーロットは、朝から犬を探し、ようやく見つけた。
老婦人は涙を流して喜んだ。
「まあ、こんなに早く見つけてくださるなんて。あなたは本当に賢いお嬢さんね」
老婦人が差し出した小さな袋を、シャーロットは丁寧に断った。
「いいえ、お礼は結構です。お役に立てて嬉しいです」
シャーロットは、こういった小さな依頼を、ただ純粋に楽しんでいた。
謎を解く。失われたものを見つける。誰かを助ける。
それが、シャーロットにとって、何よりも楽しいことだった。
エドマンド叔父様は、シャーロットの才能を認めてくれた。トーマス医師も、いつも優しく教えてくれた。
だから、シャーロットは、下宿に入り浸っていた。
兄のヘンリーは、時々呆れたように言う。
「お前、本当に変わってるな」と。
でも、シャーロットは気にしなかった。
ベーカー街に差し掛かったとき、シャーロットは路地の角で立ち止まった。
何か、違和感がある。
視線を感じる。
シャーロットは、そっと周囲を観察した。
路地の向こう、建物の影に、誰かが立っている。
男だ。痩せていて、粗末な服を着ている。
シャーロットの視線に気づいたのか、男は慌てて隠れた。
シャーロットは歩みを速めた。もうすぐ日が暮れる。早く下宿に着かなければ。
雪が、本格的に降り始めた。靴音が、雪を砕く音を立てる。冷たい空気が、肺を刺す。
細い路地を抜けようとしたとき、背後から腕を掴まれた。
「……っ!」
シャーロットは声を上げようとしたが、荒い手が口を塞ぐ。
必死にもがいた。相手は男だ。
痩せていて、酒臭い。服は粗末で、靴は泥だらけ。
左手の人差し指に、古い傷がある。おそらく、ナイフで切ったものだ。
「静かにしろ、嬢ちゃん。悪いようにはしねえ」
男の声は震えている。怯えているのだ。この男は、誰かに雇われている。
シャーロットは冷静に観察しようとした。だが、恐怖が思考を鈍らせる。
そのとき、足音が近づいてきた。
革靴が、雪を踏みしめる音。ゆっくりと、規則的に。
「おい、何をしている」
低く、落ち着いた声。
痩せた男が顔を上げる。
シャーロットも、口を塞がれたまま視線を向けた。
そこには、黒いコートを着た紳士然とした男が立っていた。
顔は影になって見えない。
でも、その立ち姿には威厳があった。手袋をはめた手が、ステッキを握っている。
「あ、あんた、誰だ」
痩せた男が怯えた声を出す。
紳士風の男は、ゆっくりと近づいてきた。そして、シャーロットの顔をじっと見た。
数秒の沈黙。
雪だけが、音もなく降り続ける。
「……違う」
「え?」
「この娘じゃない」
紳士風の男は、明確にそう言った。
「年齢が違う。依頼では、15歳の少女だと言ったはずだ。この子は、どう見ても13か14だ」
痩せた男は狼狽した。
「だ、だって、金髪で、この道を通る娘って……」
「馬鹿者」
紳士風の男は吐き捨てるように言った。
「お前、確認もせずに捕まえたのか?これでは、依頼主に報告できん」
シャーロットは、その会話を聞いて、状況を理解し始めた。
この二人は、特定の誰かを狙っていた。
そして、シャーロットは人違いで攫われそうになったのだ。
痩せた男は、シャーロットを解放した。シャーロットはよろめきながら後ずさる。
「すまねえな、嬢ちゃん。人違いだった」
痩せた男は、まるで謝罪するように手を上げた。紳士風の男は、シャーロットをもう一度見て、それから背を向けた。
「行くぞ。もう一度、依頼主に確認する」
二人は闇に消えた。
シャーロットは、その場に立ち尽くした。
心臓が激しく鳴っている。手が震えている。
でも、頭の中では、冷静に情報を整理していた。
15歳の金髪の娘。
この道を通る。
誰かが、特定の少女を狙っている。
痩せた男の左手の傷。
古いものだが、まだ赤い。
最近、何かの作業で再び傷つけたのだろう。
紳士風の男のステッキ。銀の装飾がついている。高価なものだ。
シャーロットは、走り出した。
エドマンド叔父様に、報告しなければ。
【後編に続く】
