【雨宿りの百物語】第十三話・その暦は
第十三話・その暦は
私は、どうしてここにいるんでしょう……
気づくと、灰色の世界の真ん中に立っていたのです。
背広を着た人たちが足早に歩き、自動車がずらっと並んで走っている……いつの間に街まで来ていたのでしょう。
空は太陽が出ているのに、靄がかかったように地上まで光が届きません。
「早く帰らなければ……叱られる」
私ははっと気がついて、帰り道を探しましたが、完全に迷ってしまったようです。
入り込んだ路地に、しゃれたお店があったので、のどの渇きから誘われるように入店しました。
無口な男性が店主さんなんでしょう。
お冷を出してくれて、私は一気に飲み干しました。それに気がついて店主さんがまたお水を入れに来てくれました。
顔が赤くなるのを感じました。
「あの……」
私は店主さん声をかけようとしましたが、店主さんは黙って奥を指さしました。
店の奥に、誰かいるようです。
のどの渇きも癒えたし、帰り道を聞いてみようと、私は店の奥に向かいました。
薄暗い奥の席に、黒い服を着た人がいました。
長い髪で顔が隠れています。華奢な肩。
ゆっくりとこちらを見上げると、眼鏡が光りました。
「あの……」
私は声をかけました。
「道に迷ってしまって……帰り道を教えていただけませんか?」
その若い男性は、隣の席を示しました。
「どちらにお帰りですか?」
静かな声でした。
私は、席に座りました。
膝の上に、真っ白な猫がいました。青い目が、じっと私を見ています。
「あの……私……」
言葉が、出ませんでした。
どこに帰るんでしたっけ?
「覚えていらっしゃいませんか?」
青年が、静かに尋ねました。
私は、首を横に振りました。
「いいえ……覚えているんです。でも、言葉にできなくて……」
男性……時雨というのでしょうか。なぜかそう呼びたくなります……が、小さく頷きました。
「では、ゆっくりと思い出してください」
白猫が、小さく鳴きました。
「私は……」
私は、記憶をたどりました。
「朝、起きて……母に叱られました」
なぜ叱られたんでしたっけ?
「寝坊を……したからです」
そう、寝坊をしたんです。
「急いで支度をして……学校に……」
学校?
「いいえ、違います。職場に……」
職場。
頭が混乱します。
「落ち着いてください」
時雨の声が、優しく響きました。
「今日は、何月何日ですか?」
何月何日?
「……五月、だったと思います」
でも、何日かは思い出せません。
時雨が、ゆっくりと立ち上がりました。
店の奥の壁に、暦が掛かっています。
時雨が、その暦を取ってきました。
「これを、見てください」
差し出された暦を見ると……
日付が、ありません。
いいえ、あるんです。でも、読めません。
数字が、ぼやけています。
そして、上の方に書いてある文字も……
「読めないんです……」
私は、震える声で言いました。
時雨が、静かに暦をめくりました。
一枚、また一枚。
めくるたびに、何か大切なものが失われていく気がしました。
「あなたは……」
時雨が、私を見ました。
眼鏡の奥の目が、深く私を見つめています。
「いつから、ここにいるのですか?」
いつから?
「今日……今朝から……」
でも、本当にそうでしょうか?
「母に叱られて……」
母。
母の顔が、ぼんやりとしか思い出せません。
「私は……」
声が、震えました。
「私は、どうしてここにいるんでしょう……」
時雨が、暦を私の前に置きました。
「この暦を、見てください」
私は、暦を見ました。
上の方に、文字が書いてあります。
でも、知らない文字です。
「れい……わ?」
時雨が、静かに頷きました。
「もう、帰らなければ」
私は立ち上がりました。
「母が、待っています」
時雨が、静かに暦の一枚を指さしました。
そこには、赤い印がついていました。
「この日を、覚えていますか?」
覚えている?
「……いいえ」
でも、何か大切な日だった気がします。
時雨の眼鏡が、白く光りました。
「そうですか」
時雨の声が、とても遠くから聞こえました。
「では、お気をつけて」
猫が、私の足元に来ました。
青い目が、じっと私を見上げています。
何か、言いたそうな目でした。
気づくと、私は店の外に立っていました。
雨は、上がっていました。
いつ雨が降っていたんでしょう?
空は、相変わらず灰色です。
靄がかかったように、光が届きません。
背広を着た人たちが、足早に歩いています。
自動車が、ずらっと並んで走っています。
振り返ると、喫茶店は……
ありませんでした。
あったはずの場所に、古びた倉庫があるだけでした。
おかしいですね。
確かに、さっきまであったのに。
「すみません、道を教えていただけますか?」
通りかかった人に声をかけますが、素通りしていきます。
まるで、私が見えていないように。
手には、いつの間にか暦がありました。
あの青年が見せてくれた暦。
赤い印のついた日付。
そして、上の方に書いてある文字。
「れいわ……」
令和?
そんな元号、聞いたことがありません。
今は昭和四十七年のはず……
でも、この暦には。
私は、暦をじっと見つめました。
令和六年、と書いてあります。
令和?
いつから元号が変わったんでしょう。
昭和の次は……
頭が混乱します。
でも、とにかく帰らなければ。
母が待っています。
街を歩きます。
でも、何かがおかしいのです。
建物が、見慣れないものばかり。
看板に書いてある言葉も、知らないものばかり。
「コンビニ?」「スマホ?」
何のことでしょう。
人々の服装も、変わっている気がします。
みんな、不思議な小さい箱を手に持って歩いています。
あれは、何でしょう。
「すみません……」
声をかけても、誰も振り向いてくれません。
みんな、急いでいるんでしょうか。
それとも……
私の声が、聞こえていないんでしょうか。
手の中の暦を見ます。
令和六年。
赤い印のついた日付。
昭和四十七年、五月。
そこで、私の時間は……
いいえ、違います。
今日は昭和四十七年のはずです。
今朝、母に叱られたばかりなのに。
灰色の空を見上げます。
太陽は出ているはずなのに、光が届きません。
ずっと、この灰色の世界にいる気がします。
でも、それはおかしいですね。
今朝、母に叱られたばかりなのに。
街を歩き続けます。
帰り道を探して。
母のいる家に。
でも、知っているはずの道が、見つかりません。
手の中の暦が、少し重くなった気がします。
令和六年。
昭和四十七年。
「母が待っているのに……」
「今日は昭和四十七年のはずなのに……」
「令和って、何かしら……」
誰も答えてくれません。
誰も、私を見てくれません。
ただ、歩き続けるだけ。
ずっと、ずっと。
【了】

