育てにくい子が生きるために必要な力ーー知育の現場で気づいたこと
知育教室にやってくる親には、
大きく分けて二つのパターンがある。
一方は、純粋に
「子どもをより良く育てたい」
という願いをもった親。
そしてもう一方は、
子どもが育てにくく、
それを解決したくてやってくる親だ。
生徒さんの中に、何度レッスンに来ても、
こちらの思惑通りに
動いてくれない女の子がいた。
お母さん曰く、
常に動き回っていて目が離せないし、
主張が強く、
なかなか言うことを聞いてくれない、
ということだった。
女の子は、レッスンが始まっても、
その日のレッスンで使う玩具には目もくれずに、
自分の好きな玩具を勝手に使おうとしたり、
寝転がったまま終わるのを待っていた。
けれど、私は気づいていた。
その子は、レッスンで求められることを、
ちゃんとわかっているのだ。
こちらの指示も聞こえているし、
発達に遅れがあるわけはなかった。
当時の私は、
お母さんになんと声がけしていいのかわからずに、
戸惑っていた。
女の子をレッスンに惹きつけてあげられない、
自分の技量のなさを、
情けなく感じていた。
今から思い返すと、あの子は間違いなく、
「育てにくい子」だった。
育てにくい子には、芯がある
育てにくい子というのは、
必ずしも発達が遅れているわけではない。
その子なりの感覚や感性がしっかりとあって、
まだ自身でも言語化できていない価値観を、
生まれながらに持ち合わせている、
ということもあるのだ。
だからこそ、
周囲とは違った反応や行動を示し、
大人の想定どおりには動いてくれない。
問題になるのは、
それらが「ある」ことではなく、
言葉になっていないことだ。
自分の中にある違和感や嫌悪感、
「これは嫌だ」「これは無理だ」という感覚が、
言葉という形にならないと、
本人にも、周囲にも伝わらない。
結果として、
理由のわからない癇癪や、
説明できない拒否として、
行動だけが目立つようになる。
私が「絶対に必要だと思っている力」
自分で何かを判断できるようになるには、
思考力が必要だ。
では、思考力って、一体なんなのだろう。
思考力は「言葉」がなければ、育つことはない。
私は、思考力の土台にあるのは、
自分の感覚や違和感を、
言葉として扱う力だと思っている。
「なんとなく嫌」
「うまく言えないけど不安」
そうした曖昧な感覚を、
少しずつ言葉にしていくことで、
人は初めて考えることができる。
育てにくい子を育てる上で、
私が絶対に必要だと思っているのは、
言語能力だ。
勉強ができることと言語能力は、重なってはいるが同じではない
ここで、
勉強の話を少しだけ。
知育の現場で子どもたちを見ていて、
「この子は、絶対に勉強ができるようになるだろう」
と思う子たちには、
ある共通点があることに気づいた。
それは、言語能力が高い子の中でも、
興味関心に大きな偏りがない
与えられたことをこなすことに、
抵抗が少ない周囲からの評価に敏感で、
期待に応えようとする力がある
といった傾向を持っていることが多い、
という点だ。
現実的に考えれば、
勉強ができることは、
生きていく上でメリットが大きい。
進路の選択肢も広がるし、
評価されやすい場面も増える。
ただ、
勉強ができることと、生きる力の高さは、
まったく別のもの
だと、私は感じている。
それは、私自身が勉強は得意だったけれど、
生きていく方法がわからずに、
苦しんできた典型例だからだ。
言語能力が育たないと、何が起きるか
言語能力が十分に育っていないと、
子どもが困っている場面になればなるほど、
状況は複雑になる。
子ども自身が、
何がつらくて、
どうしたいのかが、わからない。
結果として、
癇癪や強い拒否という行動が強まったり、
意思表示できずに、
傷ついたままになってしまう。
一方で親も、
言葉でやり取りができないため、
子どもを理解する手がかりを失っていく。
どう声をかければいいのか。
どこまで待てばいいのか。
どこで判断すればいいのか。
わからないまま時間だけが過ぎていく。
身体が大きくなると、
感情の整理ができずに暴れられることは、
親にとっても、物理的に恐怖になる。
子育ては、
どんどんハードモードになっていく。
もちろん、言語の発達には個人差がある。
それでも、
言語能力を育てるために
親が関わってあげることは、
その子が少しでもこの世界で生きやすくなることに、
貢献するのではないかと思う。
私が考える「生きる力が強い人」
生きる力が強い人は、
必ずしも学業が優秀な人ではないはずだ。
それよりも、
・自分がどんな人間かを、よくわかっていて
・他者を尊重しながらも
・自分を偽らずに、関わることができる
そうした言語能力をもっている人だと感じている。
ここで言う言語能力は、
幼い子が、
一人で図鑑を読み込むことで身につく、
語彙の豊富さのようなものではない。
親とのやり取りの中で、
「そう感じたんだね」
「それは嫌だったんだね」
と受け取ってもらいながら、
少しずつ形になっていくものだ。
知育教室に来ていたあの女の子は、
どう育っているだろうか。
あの時の立場では、
絶対に口にすることができなかったけれど、
今の私なら、
あの子にこう言ってあげたい。
「教室で決められた遊びをするのは、
嫌だったんだよね。」
「今日は何して遊びたい?」
それはただ、
その子の内側にあるものを、
そのまま認める言葉だ。
