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15歳の私が、フィリピンで「かわいそう」という言葉を失った話

 「どうして、そこまで貧困に関心があるの?」——今年の夏にケニアへ行くと話すたびに聞かれるその問いに答えるため、四か月前、フィリピンで「かわいそう」という言葉が崩された日のことを書こうと思う。

真面目ぶっているとか、格好つけているとか思われるのは少し怖いけれど、それでも、このnoteを通して、私がフィリピンで抱えた問いに少しでも触れてもらえたら嬉しい。


ショッピングモールの中のスターバックスだけは、外の街から切り離されたみたいに涼しかった。外に出れば、湿気を含んだ空気が肌にまとわりつく。

排気ガスの匂い、ゴミの匂い、雨でぬれた道路の匂い。全部が混ざって、鼻の奥に残る。

でも、店内には冷房が効いていた。手元のフラペチーノは冷たくて、甘くて、日本で飲むものとほとんど同じ味。その変わらなさに、私は少し安心していた。

そのとき、小さな手がテーブルに伸びてきた。

「give me money.」

顔を上げると、男の子が立っていた。まだ小学生くらいに見える。私のカップと、隣のショーケースに並んだケーキを交互に見ていた。「それでもいいから、食べさせてほしい」。たぶん、彼はそういう意味のことを言っていたのだと思う。

私はストローをくわえたまま固まった。財布に手を伸ばすべきなのか。店員さんを見るべきなのか。隣にいる友達に何か言うべきなのか。頭の中でいくつも選択肢が浮かんでは、すぐに消えていく。

ここで何かを渡すことは、この子の未来につながるのか。それとも、一瞬の安心で終わってしまうのか。渡すことで、別の問題を生んでしまうのではないか。

そんな立派なことを考えていた。

と言えたらよかった。本当は、ただ怖かった。間違えるのが怖い。自分が悪者になるのも怖い。でも、何もしない自分を見るのはもっと怖かった。

それなのに、私は何もできなかった。私たちは、何も渡さず、何も言わず。ただ、見えていないふりをした。男の子は、しばらくそこに立っていた。

やがて、私たちが何も言わないことが分かると、ゆっくり手を下ろし、次のテーブルへ歩いていった。その背中が人混みに紛れて見えなくなるまで、私はカップを握ったまま動けなかった。

フィリピンに来て数日。似たような光景を何度も見てきたはずだ。なのに、どこかで慣れてしまっている自分がいた。慣れていたはずなのに、目の前で手を伸ばされた瞬間、私は何もできなかった。

その夜、ホテルの部屋で天井を見ながら思った。

——私は、何をしに来たんだろう。

私はその最低な自分を隠すために、彼らを「かわいそう」という言葉の中に押し込めようとしていたのかもしれない。

「かわいそう」と思った瞬間、私はその人の背景を知ろうとする足を止めていた。その人が何を大切にしているのか、何に笑い、何に傷つき、どんな明日を望んでいるのか。そういうことを知る前に、勝手に物語を終わらせていた。

「かわいそう」は、相手を理解するための言葉ではなかった。自分と相手の間に線を引き、自分の安全な場所を守るための言葉だった。


「かわいそう」の正体を確かめに、海を渡った

フィリピンに行く前の私は、国際協力に関心があると言いながら、その言葉の中身をほとんど持っていなかった。

画面に映る貧困を見て「かわいそう」と思う。募金を呼びかける投稿を見て、心を痛める。それだけで、自分は社会問題について考えているのだと思っていた。

けれど私は、そこに暮らす人の声も、町の匂いも、日々の生活も知らなかった。知っていたのは、誰かに切り取られた「貧困」という場面だけだった。そんな断片だけを見て、国際協力を語る人にはなりたくなかった。

「女の子一人で危ないからやめなさい」
「中学生なのにまだ早いんじゃない?」
「お金は出さない」

言い返したかった。 でも、うまく言い返せなかった。

ただ、心の中ではずっと叫んでいた。どうして、早く行ってはいけないんだろう。 先入観に染まる前に、自分の目で見た方がいいんじゃないか。どうして、そんなに受け身でいないといけないんだろう。

「止められたから行けなかった」と言いながら、本当はやりたいことから逃げただけの自分にはなりたくなかった。

私は、貯めていたお年玉を使い、ストリートチルドレンについて考えるスタディツアーに申し込んだ。今から四ヶ月前のことだ。

正しい決断だったと言い切れるほど、迷いがなかったわけではない。

ただ、遠くから想像するだけではなく、自分が抱いていた「かわいそう」という見方が本当に正しいのか、確かめたかった。

世界の痛みを見に来て、最初に突きつけられたのは私の弱さだった

フィリピンに到着した直後。期待と不安を抱えながら、ホテルへと向かう


行く前の私は、たぶん少し勘違いしていた。現地に行けば、貧困とか、格差とか、国際協力とか、そういう大きな問題にぶつかるのだと思っていた。

でも実際に最初にぶつかったのは、もっと小さくて、もっと逃げられないものだった。

空港を出た瞬間、湿気が体にまとわりついた。トイレにはハエが集まっていた。 部屋にはエアコンがなかった。シャワーは少ししか出ず、お湯も出なかった。 水道水は飲めなかった。昼食のスープには、小さな虫が浮いていた。

覚悟して来たつもりだった。でも、全然平気じゃなかった。ちゃんと驚いたし、ちゃんと嫌だった。

帰りたい、と思ってしまった。

夜、ショッピングモールからの帰り道で足を滑らせて、何が混ざっているのか分からない泥に足首まで落ちた。周りに合わせて笑ったけれど、心の中では全然笑えていなかった。

「国際協力に関心があります」なんて言って来たのに、私は目の前の生活環境に、あっけなく心が折れそうになっていた。

ゴミ山のフリースクールで、“幸せ”の物差しを失った

ゴミを分別し、売ることで暮らしをつないでいる人たちの生活の場。

スモーキーマウンテンの近くにあるフリースクールに着いた日、車を降りた瞬間に空気の重さが変わった。生ごみと煙と湿った土が混ざった匂いが、鼻ではなく喉にきた。

思わず息を止めた。

でも、その匂いは息を止めても体の中に入ってくるようだった。最初に浮かんだのは、あまりにも正直な気持ちだった。

ここに長くいたくない。

そんなことを思った自分が、すぐに恥ずかしくなった。

でも、そこには生活があった。ゴミを分別して売る人がいた。 路地に小さな店を広げる人がいた。 子どもを呼ぶ、優しい声が聞こえた。裸足で走る子どもたちが、こちらを見て笑っていた。

ツアーの一環でインタビューをさせていただいた際、ある女性が言った。
「商売ができることが幸せ」
「食べ物を食べられることが幸せ」
私はその言葉を、美談にしたくなかった。

この状況でも幸せを見つけていてすごい。そんなふうに簡単にまとめたくなかった。でも、否定もできなかった。

その人は、自分を「かわいそうな人」として話していたわけではなかった。自分の生活の中にある幸せを、自分の言葉で話していた。

私は何を見て、「かわいそう」だと思っていたんだろう。何を基準に、「幸せじゃなさそう」だと決めていたんだろう。貧困が美しいわけではない。苦しい生活を肯定したいわけでもない。

でも、そこにいる人の幸せまで、私が勝手に決めていいわけではなかった。

彼女の言葉を聞きながら、私は自分の日常を思い浮かべた。

私たちは、持っていないものや、うまくいかないことに目を向け、すでに手の中にあるものを見失ってしまう。けれど彼女は、商売ができること、食べ物を食べられることを、自分の幸せとして語っていた。

それは、苦しい現状を受け入れているということではない。足りないものがある中でも、今ここにあるものの価値を、自分自身で見つけていたのだと思う。

豊かさは、新しく作るものだけではなく、すでにあるものに気づくことから生まれる豊かさもあるのかもしれない。

痛みを希望に変えた少女

ボランティアをさせていただいた施設。ここで、14歳の少女が将来の夢を話してくれた。

路上で暮らす女の子にも出会った。
安心して眠れる場所があるわけではない。 明日も同じ場所にいられる保証があるわけでもない。夜になれば、何かを盗られるかもしれない。突然、今いる場所を追い出されるかもしれない。

けれど、将来の夢を尋ねると、彼女は少しはにかむように笑った。ほんの少し視線を落としてから、顔を上げて言った。

「将来は警察官になって、みんなが安心して暮らせる町にしたい」

自分の夢を語るには、あまりにも控えめな笑顔だった。けれど、「みんなが安心して暮らせる町」という言葉だけは、迷いなく口にした。

ーーそれまで、余裕がある人だけが誰かのために動けるのだと思っていた。自分が満たされている人だけが、人を助けられるのだと思っていた。でも彼女は、自分自身が不安の中にいるのに、その痛みを誰かの安心に変えようとしていた。

余裕があるから、人に手を伸ばせるんじゃない。
痛みを知っているから、誰かの痛みに気づけることがある。

その強さに、私は言葉が出なかった。

学費だけでは越えられない壁

フリースクールの様子。日本人の方が開校したらしい。

けれど、関わり始めたからこそ、見えてしまったこともあった。お金を送れば終わりではなかった。学校に行けるようになれば、それで安心というわけでもなかった。

政府の「クリーニングオペレーション」と呼ばれる強制撤去によって、自立しようとして始めた露店が、一瞬で壊されることがある。

生活のために、危険な環境へ戻らざるを得ない子どももいる。支援によって学校へ通い始めても、卒業まで学び続けられる子は多くないという。

いじめ。再開発。家族の事情。 明日の暮らしさえ見通せない不安定さ。学費を払えば取り除ける壁より、その外側にある壁の方が、ずっと多かった。

私はそれまで、教育支援とは、学校へ行くための道を開くことだと思っていた。

けれど、道を開いただけでは、その先を歩き続けられない人がいる。学校へ行くことと、学び続けることは違う。

「学び続けられる環境を一緒につくる」と言うのは簡単だ。けれど、その環境を壊しているのは、貧困だけではない。政治や制度、地域の変化、家族の事情が絡み合っていた。

支援とは、私が正しいと思う未来へ誰かを連れていくことではないのかもしれない。その人が何を望み、何を選びたいのかを知り、その選択が奪われないために、自分にできることを探し続けることなのだと思う。

フィリピンで崩れた、三つの思い込み

この旅で、私の中にあった三つの思い込みが崩れた。

一つ目は、「かわいそう」と心を痛めることが、相手に寄り添うことだと思っていたこと。実際には、私は「かわいそう」と相手をひとつの言葉に閉じ込めた瞬間、その人を理解しようとすることをやめていた。相手との間に線を引き、自分だけを安全な場所に置いていた。

二つ目は、支援とは、足りないものを外から渡すことだと思っていたこと。本当に必要なのは、こちらが用意した答えを与えることではなく、その人自身が望む未来を選べるように、奪われている選択肢をともに取り戻すことだった。

三つ目は、現場へ行けば、世界を理解できると思っていたこと。しかし、現場は答えを与えてはくれなかった。むしろ、自分がどれほど簡単な言葉で、世界を分かったつもりになっていたのかを突きつけた。

誰かの苦しみを、遠い出来事にしないために

日本に戻って、スマホを開けば、いつものタイムラインが流れてくる。

誰かの正しさ。誰かの怒り。誰かの成功。画面の中の世界は、いつも分かりやすく編集されている。気づかないうちに、自分の見たいものだけを見て、世界を一つの見方で分かった気になってしまう。

でも、フィリピンで見た現実は、そんなに分かりやすくなかった。

トイレは汚かった。シャワーは弱かった。泥に足を取られた。虫が浮いたスープを前に、固まった日もあった。

それでも、80円のマンゴーは信じられないくらい甘かった。ハエを気にせず笑う子がいた。椅子を譲ってくれる男の子がいた。警察官になりたいと夢を語る女の子がいた。

私は、世界を簡単に語る人にはなりたくない。「かわいそう」だけで終わらせたくない。 「強い人たちだった」という美談にもしたくない。

あの旅で感じた違和感や痛みを、分かりやすい答えに整理して、安心したくない。
世界中の苦しみを背負うことはできない。知ったからといって、すぐに何かを変えられるわけでもない。

それでも、知らなかった頃の自分には戻りたくない。自分の安全や豊かさを当然のものとして受け取るのではなく、その向こう側にいる誰かを想像し続けたい。

そして、「何もできない」という言葉を、何もしないための言い訳にはしたくない。
救える人になりたいのではない。誰かの苦しみを、自分とは無関係なものにしない人でいたい。

戦争も、紛争も、貧困も、本当は知らないままでいられたら楽なのだと思う。画面を閉じれば、目の前にはいつもと変わらない生活がある。温かいご飯を食べ、安心して眠り、次の日の予定を考えることもできる。

遠い国で起きている苦しみは、見ようとしなければ、私の日常には何の音も立てずに通り過ぎていく。

だからこそ、怖いと思う。

人の苦しみに慣れ、いつの間にか「自分には関係がない」と思えるようになってしまうことが。フィリピンで崩れたのは、「かわいそう」という言葉だけではなかった。

現場を見ずに語ろうとしていた私。助けたいと言いながら、目の前の一人に何もできなかった私。 世界を知りたいと言いながら、自分が傷つくことを怖がっていた私。

その全部が、崩れた。

それでも、行ってよかった。逃げなくてよかった。

世界を定義する前に、まず見ること。分かったふりをする前に、分からないまま立ち止まること。 答えが出なくても、関わり続けること。

それが、私が、私たちが社会と向き合うための、本当に小さな第一歩なのだと思う。

その一歩を踏み出せたことを、私は今も大切にしている。



あとがき
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
私は今年の夏、ケニアを訪れます。
もし応援したいと思ってくださった方がいれば、現地の知り合いや活動している方を紹介していただいたり、このnoteを広めていただけると大きな力になります。

また、今回書いた経験は、「ストリートチルドレンについて考える会」が実施しているツアーに参加したことで得ることができました。実際に現地を訪れ、そこで暮らす人たちやNGOの人たちと出会い、自分の目で見て、話を聞く。私にとって、それまで持っていた「貧困」や「支援」に対する考え方が大きく変わるきっかけになったツアーです。

文章だけでは伝わらないことを、現地に行ったからこそたくさん感じることができました。私は本当に参加してよかったと思っているので、少しでも興味を持った方は、今年の春、ぜひ一度参加してみてほしいです!


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