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【海外生活】外国での生活と日本での生活の長所と短所|旅の魅力

昨今、海外で暮らす在外邦人の数は年々上昇する傾向にあります。
筆者が大学生活を過ごしたイタリア中部の芸術都市フィレンツェには600〜700人近くの日本人が居住しており、イタリアの在留邦人数ではミラノ、ローマに次いで三番目です。

私はあまりSNSに詳しくないですが、instagramやXではフィレンツェ在住日本人が美化された海外生活の様子を盛んに発信している、ということをよく耳にします。

しかしSNS上の理想的で美化されたフィレンツェ生活のイメージは現在のフィレンツェの現状を鑑みるとあまりに楽観的すぎる気がします。

フィレンツェの素晴らしい部分や、自身の生活での喜びを他者と共有すること自体に問題はありません。
しかし、フィレンツェで暮らすことの苦労やフィレンツェが抱える諸問題を語らずに、単に自身の海外生活を理想化し、それを日本国内の人々に自慢して羨ましがれたいという承認欲求があるならば、それは看過できません。

なんの脈絡もありませんがナポリ湾とヴェスビオ火山の眺めです。
今回はナポリの写真を載せていきたいと思います。

これはフィレンツェ・イタリアに限らず、すべての海外移住に言えることですが、「海外生活(特に欧米圏)=必ずしも日本国内の生活より上質な環境」、という考えは誤りです。

国内と海外の生活、この両者にはそれぞれ長所と短所があります。

一人の人間にとって最も繋がりの深い土地は、その人が生まれ育った故郷です。仕事や家庭の事情で故郷を離れることがあった場合も、故郷とのつながりは途切れることはありません。

詩人ホメロスもオデュッセイアの中でこう謳っています。

まことに甘美なるもの、それは大地としての祖国、そして故郷の町である。
たとえ誰かが、よその国にあって、
大きく富んだ邸宅を持っていようとも、
それは祖国を離れた場所にすぎない。

オデュッセイア 第九章 34–36

国内で生活するということは、より故郷と近く絆を保っていられるということです。

これは筆者が長い外国での滞在から日本に帰ってくる時に毎回感じることですが、日本にいるときは何とも感じないありきたりな風景や日本社会全体が妙にとても懐かしく、まるで日本全体が自分の実家のように感じられるのです。

何しろ日本のインフラや生活水準の高さは世界でもトップレベルです。高度に発展した中国や、発展途上国などは別にして、日本の生活水準は欧米よりはるかに優れたものなのです。
日本での贅沢な暮らしに慣れてしまうと、欧米での暮らしは非常に不便で融通が利きません。

海外に住むメリットというのはまず、日常的に異文化をに触れるということであり、国内で味わえない刺激や多様性を日々味わうことができるという点です。
生活環境や経済的なメリットがある場合もあるでしょう。そして国内に住んでいる人たちよりも恵まれた環境にいる、という漠然とした優越感も感じることでしょう。

しかし、日本から見る外国と、いざ住んでみて見える外国の実情は異なります。同じように、内から見る日本生活と外から見る日本生活も違って見えるのです。

外国人として海外に滞在するということは常によそ者として扱われるということであり、いくら日常で現地に溶け込んでいたとしても行政的・経済的な場面では常にビハインドな状況に置かれます。

国家と法律がある以上、どんなに文化的・日常的に外部の土地に馴染んでも、国籍を獲得しない限りは二級市民です。
日本人は日本にいる間は気づかないでしょうが、日本に暮らす移民の方々は日常的にこの事実に直面しています。

日本人も外国に行けば、国内生活での特権は剥奪され、二級市民になります。それが異国における外国人の立場です。

運悪く滞在国で災害や政治的・経済的混乱が起きた場合、支援が優先されるのはその国の国籍保持者であり、もし米国のトランプ大統領のようなリーダーが国政を握れば、外国人として排斥される可能性はゼロではありません。また外国人である以上参政権がないのでそれを止めることもできません。

また長期の海外滞在や現地生まれの配偶者・子供を通じて、完全に帰化することで永住権や国籍を保持することも可能ですが、その場合は故郷と故国との絆が大いに弱まります。日本は二重国籍を認めていないので、何かの拍子に日本国籍を失う可能性さえあります。

ナポリ国立考古学博物館の古代ローマモザイク画
古代のモザイク画の中で最高傑作級の逸材だと私は評価しています。

つまり外国での暮らしはどんなに理想的な国に住んだとしても常にリスクを伴うことを承知で暮らしていく覚悟が必要だということです。

そして国内での生活はより安定的で海外生活に決して劣らない美徳があるということを忘れてはいけません。その上でなお、海外への移住に踏み込んでいく覚悟があるのかどうか、自分の気持ちとよく相談した上で決断することが肝要です。

どちらが優れているということではなく、どちらもそれぞれの魅力と代償がある、ということを冷静に認識しておくことが大切だと思います。

ナポリ国立カポディモンテ絵画美術館
多くの傑作を持つ美術館です

そして最後に、旅の美徳についても触れておきたいと思います。

海外生活を選ぶことは、確かに一つの国や文化を深く知る素晴らしい機会です。しかし、同時に「より多くの世界に触れる自由」を手放すことでもあります。

ナポリは街路樹がオレンジの木です

海外在住といっても、一度に生活の拠点にできる国は一つだけです。
ヨーロッパに住めば、近隣諸国への週末旅行や鉄道での小旅行は格段にしやすくなります。しかし、その分、アメリカ大陸、アジア、アフリカ、中東、オセアニアといった遠い地域を訪れる機会は大幅に減ってしまいます。

ナポリ考古学博物館所蔵の巨大な大理石彫刻の傑作:ファルネーゼの雄牛

アメリカに住めば北南米大陸が身近になる一方で、ヨーロッパやアフリカは遠のき、アフリカに住めば他の大陸はほとんど訪れにくくなります。なぜなら、海外在住者は貴重な長期休暇を得ても、まず「日本に帰国する」ことを最優先にする人が多いからです。
その結果、休みの大半は「日本と滞在国の往復」に費やされ、他の国々を巡る余裕がほとんどなくなってしまうのです。

古代でこのレベルとは、いやはやローマ文明には恐れ入ります

一方、日本に住んでいれば、予算と体力さえ許せば、年に2~3回、時にはそれ以上、異なる国や地域を選んで旅をすることができます。
旅の本質的な美徳は、まさにそこにあります。

旅人が多くの国を巡り、数々の文化に触れることができるのは、一国に限定して根を下ろさないおかげであり、常に帰る場所として故郷があるからです。

私は海外で暮らしたことがあり、これからも外国で暮らすことがあるかも知れません。しかし私の理想は常に旅と故郷での暮らしにあります。

【あとがき&以下に掲載する記事の前書きと読者の方へのメッセージ】

※以下の記事は以前筆者が投稿した記事の再掲示となります。
筆者がNoteで投稿する記事には幾つかの主題があります。大きく分ければ、世界の歴史と文化比較、侘びの美学と世界の美学の比較、歴史の小噺、自身の旅の記録、海外生活・イタリアでの生活、詩作になります。

筆者が最も力を入れ、最も情熱を込めて読者の皆様にお届けしているのは世界の歴史と文化比較および侘びの美学に関する記事であり、海外生活・イタリアでの生活に関する記事はあくまで二次的な役割です。

しかし皮肉なことながら、筆者の投稿記事で圧倒的な人気を誇るのは毎回、海外生活・イタリアでの生活に関する記事です。これらの記事は毎回40〜90スキを獲得しており、フォロワー登録も増えます。

それに比べ歴史や文化関係の記事はよくて30スキであり、平均は13スキほど。10スキに満たなかった記事もたくさんあります。しかもほとんどの場合、新規の方ではなく以前から応援してくださっている常連の方が読者様の中心です。
私としてはこの歴史・文化系の記事を読んでくださる読者様こそ、文学用語でいう、リズール(深い理解を誇る最高の読者)に当たると思っています。

なので今回は上記の海外生活の記事を読んでくださった読者の方に、筆者の歴史・文化系の記事も読んでいただく機会を作ろうと、一つの投稿に二つの主題の記事を合算させてみることにしてみました。

【歴史文化比較】 ー琉球王国と中世イタリアの海の共和国ー


南海の蓬莱島、琉球王国。
読者の皆様も学校の日本史授業でおそらく一度は耳にしたことがあると思います。
一般的な教科書ではごくごくあっさりと簡単にしか触れられない国です。
日本本州における沖縄のイメージといえば、海と浜辺とリゾート観光であり、ほとんどの人は琉球の歴史や文化を日常的に意識しません。

主に教科書で触れられる基本情報
”現在の沖縄に存在した国で、長らく北山・中山・南山に分裂していたが、中山王、尚巴志によって三国が統一され建国された。首都は首里で港那覇は国際港として発展し、王国は中継ぎ貿易によって繁栄した。”

なので多くの人は琉球王国と聞いてあまり具体的なことは思い浮かばないでしょう。
しかし琉球王国は東アジア史を理解する上で非常に重要な要素であり、諸国間貿易と国際交流の中心にいた沖縄の華々しい歴史を物語っています。
当時の国際社会では日本さえも上回る影響力を保持していた王国です。

東アジア一の海洋貿易国家、琉球王国


琉球王国の王府、首里城

琉球王国(1429~1879年)は、現在の沖縄県にあたる琉球諸島を領域とした独立王国である。約450年にわたり、東アジアの海上交易の要衝として繁栄し、中国と日本の双方に巧みな外交を展開しながら、実質的な独立を保ち続けた稀有な存在であった。
1429年、尚巴志王が北山・中山・南山の三山を統一して王国が成立。首都は首里城(那覇市)に置かれ、第二尚氏王統のもとで最盛期を迎えた。王国は中国(明・清)に対して朝貢を行い、冊封を受けた。
中国、東南アジア(シャム、パレンバン、マラッカなど)、日本、朝鮮を結ぶ広範な海洋ネットワークを構築。硫黄、陶磁器、香料、薬草などを扱い、琉球は「東アジアの交易ハブ」として栄えた。文化は極めて独自性が高く、組踊(くみおどり)、三線音楽、紅型染め、琉球漆器などが花開いた。
また、琉球独自の宗教を持ち、ノロ・ユタと呼ばれる女性神人たちを統括する女性司祭キコエオオキミが宗教・政治に大きな影響力を持ち、琉球社会の特徴の一つとなっている。
1609年の薩摩藩侵攻を受け、占領。清の冊封国だが江戸幕府日本にも貢納する「二重隷属」の状態に置かれた。しかし表向きの独立を維持し、独自の政治・文化を保持し続けた。
1872年、明治政府により琉球藩が設置され、1879年の琉球処分によって王国は正式に廃され、沖縄県となった。
しかし首里城をはじめとする遺産や、沖縄の言葉・芸能・食文化は今なお琉球王国時代に直接遡るものが多く、沖縄の人々のアイデンティティの根幹を成している。

東アジア史における琉球王国の重要度 万国を繋ぐ架け橋外交

琉球の海洋貿易範囲
琉球の商人は頻繁に中国南方を訪れ、福州には琉球墓地まであります。さらに琉球人は最も遠いところではマラッカまで定期的に行っていました。

琉球は明朝の冊封体制に忠実に参加し、約五世紀にわたって朝貢・冊封関係を安定して維持した数少ない国家であり、東アジアの国際制度が実際にどのように運用されていたのかを示す典型例です。各地で政変や紛争が続いていた当時、琉球の継続的で安定した外交姿勢は明朝からも高く評価され、礼儀・制度の整った信頼できる国家として扱われていました。

さらに琉球王国は、東アジアと東南アジア、日本列島をつなぐ海上ネットワークの中心に位置し、中継貿易国家として大きな繁栄を遂げました。
明、朝鮮、日本、マラッカ、シャム、ジャワなど、多様な諸国との交易を展開したことで、各地域の産物・情報・文化が琉球を経由して流通します。
こうした広域的な海域交流は、当時の日本ではほとんど見られず、国際社会において琉球が担っていた役割はむしろ日本を凌駕するほど大きかったと言えます。
実際、明や東南アジア諸国の記録では、琉球は礼節に富み信頼できる国家として賞賛され、日本よりも安定した「国際的パートナー」として東アジアの諸王国に認知されていました。

尚氏琉球初代国王、尚巴志と宰相の懐機。
懐機は漢人であり、那覇には中国人専用の久米村という居住地区がありました。明朝から正式に派遣された漢人政治家や技術者は琉球の発展に大きく貢献します。ちなみに尚巴志は初代の琉球国王とされていますが、琉球の歴史においては彼より前に何人もの王と幾つもの王朝があり、王国は長い固有の歴史と伝統を持ちます。

また琉球は、相手国によって外交儀礼や関係性を巧みに使い分ける多重外交を展開します。
明朝に対しては冊封国としての格式を尊重しつつ、東南アジア諸国とは対等な交易国家として接し、日本に対しては室町幕府や薩摩などとの独自の外交関係を築きました。
こうした柔軟な外交戦略は、国が生き残るための高度な知恵であり、同時に国際秩序の複雑さを理解するうえで貴重な実例となっています。

琉球王国の王冠 
琉球は中国の大明帝国と非常に強い絆がありました。琉球は明の名目上の臣下であり、中国を親の国と公言していました。中国皇帝からは格別の待遇を受けていました。この王冠は明から送られたもので、明と主従の契約を結ぶ国々の中では最高位の王冠です。

このように琉球王国は、中国中心の冊封体制の模範例であると同時に、アジア海域の交易・文化の結節点として機能した国家でした。
当時の日本が内向的で地域的な権力争いに揺れていたのに対し、琉球は広範な外交ネットワークを構築し、国際的な信頼と尊敬を勝ち得ていたのです。

琉球王国が東アジアで海洋貿易国として名を馳せていた頃、遠く離れたイタリアでも同じように海洋貿易で巨万の富を築いた勢力が次々に生まれました。
海の共和国と呼ばれる四つの都市国家;アマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィア、です。

【イタリア海の共和国】


イタリア海軍旗四つの海の共和国の都市紋章を組み合わせたものになっています。現在でも海軍が強みのイタリア軍にとって海の共和国は歴史的な誇りです。

「海の共和国」と呼ばれる四つの都市国家――アマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィア――は、中世の地中海世界において海上貿易と国際金融を担った独立都市であり、ヨーロッパの歴史に大きな影響を与えた存在です。

筆者は今まで投稿した記事でたびたびイタリアの歴史について言及していますが、中世においてイタリアには統一国家は存在せず多くの都市国家がひしめき合う状況でした。
その中でいくつかの都市国家は領土は小さいながらも経済的に繁栄し、地中海とヨーロッパ世界において非常に大きな政治的影響力を持つに至りました。
海の共和国はその中で最も早く頭角を表した都市国家です。

これら四都市はいずれも、商人を中心とする市民の自治、巧みな外交、そして強力な海軍力を背景に国際的な商業網を形成した国家でした。
彼らは地中海世界の物流・金融・文化交流を主導し、中世ヨーロッパの経済と政治の動態を大きく左右しました。
こうした理由からアマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアは総じて「海の共和国」と呼ばれ、その歴史的意義は現代に至るまで高く評価されています。

アマルフィ


アマルフィは四都市のなかで最も早く台頭し、9~11世紀には南イタリアを代表する海洋都市として東方貿易を展開し、海の向こうのアフリカやシリア・パレスチナでイスラム商人と交易して巨万の富を築きます。
やがて中世海事法の基礎となる「アマルフィ海法」を定めるなど、海上交通のルールづくりにまで貢献しました。
航海図や羅針盤を発明したのもアマルフィの商人たちです。

現在ではリゾート観光地として名を馳せるアマルフィすぐ背後は山地であり、街は非常に小規模です。このような都市がヨーロッパで最も裕福な都市の一つとして名を馳せたとは奇跡です。領土が小さいながらも海洋国家として繁栄する点で、琉球と大きな類似点があります。

ピサ

アマルフィの後を追うようにピサが力を伸ばし、11~12世紀には強大な艦隊を背景にイスラーム勢力と戦いながらサルデーニャやコルシカへの影響力を拡大しました。
しかしピサはジェノヴァとの激しい競争に敗れて衰退してしまいます。
しかもこの頃は他のイタリア都市も交易で力をつけ、海の共和国以外にも強い力を持つ都市国家が生まれました。ピサの隣国であるフィレンツェ共和国はイタリア五大都市国家としてピサを征服します。

ピサに関しては、以前に投稿した”フィレンツェの塩なしパン”という記事でも言及しています

ジェノヴァ

一方、ジェノヴァは12世紀以降急速に勢力を伸ばし、黒海や東地中海、西地中海を結ぶ広範な貿易圏を支配しました。
ジェノヴァはイタリア外に多くの植民地を築き、その勢力は遥か遠くの黒海・クリミア半島にまで広がっていました。
ジェノヴァ商人は中世ヨーロッパの金融の担い手とも知られ、大海洋帝国として地中海を思うがままに支配します。
ヴェネツィアの台頭とオスマン帝国の攻撃によって勢力を弱めますが、のちに大航海時代の扉を開く航海者コロンブスを輩出したことでも名高いです。

ジェノヴァは現在でもイタリアを代表する国際的な港です

そして四つの海洋都市の中で最も長期にわたり繁栄したのがヴェネツィア共和国です。
潟の上に築かれた都市は、十字軍への関与や東方貿易によって莫大な富を蓄え、「アドリア海の女王」と称されるほどの海洋帝国を築き上げました。
地中海の名だたる島々(エーゲ諸島、クレタ島、キプロス島)を領有し、地中海に確固たる支配を築きます。
独自の共和政や外交制度をもち、18世紀末にナポレオンによって滅ぼされるまで実質的な独立を保った点でも際立っています。

筆者はこのヴェネツィア共和国を、地中海の琉球王国として、琉球を東アジアのヴェネツィア共和国として比較していこうと思っています。

【地中海の琉球王国 ヴェネツィア】

ヴェネツィア共和国(697~1797年)は、ヨーロッパ史上最も長寿かつ最も特異な国家の一つです。
王を戴かず、貴族による徹底した共和制を1,100年以上にわたって維持し続けた「海の帝国」でした。
アドリア海の潟(ラグーナ)に浮かぶ117の小島に築かれたこの都市国家は、最初は東ローマ帝国の保護下にあった小漁村に過ぎませんでした。
9世紀以降、塩と奴隷貿易で富を蓄え、ビザンツ帝国との密接な関係を武器に急速に成長します。

ヴェネツィア共和国の国旗 ヴ
ェネツィアの守護聖人である聖マルコのシンボル、ライオン。琉球が中国と密接な関係を築き、中華皇帝の特別な恩寵を得て海洋貿易を展開したように、ヴェネツィアはビザンツの皇帝と条約を結び、交易における特権を保持していました。

1204年の第四回十字軍では、ヴェネツィアが実質的に軍事・資金を主導し、コンスタンティノープルを攻略した結果、東地中海に無数の植民地と交易拠点を獲得し、香辛料貿易のほぼ全ルートを掌握しました。

ヴェネツィア共和国が支配した海外領土と勢力圏

政治体制は極めて独特で、終身制の元首「ドージェ」は存在しましたが、実権は「大評議会」(30歳以上の貴族男子全員、約2,000人)にあり、さらにその中から選ばれる「十人評議会」が秘密警察・最高裁判所・情報機関の三権を握っていました。
ドージェの選挙は、抽選と投票を何度も繰り返す世界史に類を見ない複雑な仕組みで、賄賂や一族支配を徹底的に排除します。
この制度のおかげで、ヴェネツィアは内乱も王朝交代もなく、1,100年間二度しかクーデターが起きませんでした。

ヴェネツィアの国会 
大評議会と共和国元老院ヴェネツィアは非常に複雑で洗練された政府を持つ共和国でした。元老院を構成するのは海洋貿易と外交に長けた熟練の貴族たちです。権力の集中を排除しつつ、政治と経済のベテランを常時政府内に持つヴェネツィア政治は古代ローマ帝国の政治システムを最もよく継承した模範として讃えられます

ヴェネツィアは地中海最強の海軍を持っていました。
国営造船所アルセナーレは、流水ライン方式によるガレー船の大量生産を世界で初めて実現し、戦時でも1日1隻のペースで軍艦を建造できました。

地中海最強のヴェネツィア海軍
ヴェネツィア海軍に敵対できたのはオスマン海軍くらいなもので、海賊でさえヴェネツィアの艦隊を見ると戦わずして逃げ出しました。海軍はヴェネツィアの誇りです。

ヴェネツィア商人はヨーロッパとイスラム世界・アジア・インドを仲介し、エジプトやトルコでスパイスや絹などをヨーロッパの物品と交換し、それをまたヨーロッパ諸国に売ることで巨万の富を築きます。
その富の大きさはまさに桁違いです。
15世紀には国家収入がフランス王国の約2倍に達し、ドゥカート金貨は地中海全域で最も信頼される国際通貨となります。

領土は「海の州」(アドリア海・エーゲ海・クレタ島・キプロス島)と「陸の州」(イタリア本土のヴェローナ・パドヴァなど)に分かれ、海軍力で結ばれた広大な商業帝国を形成しました。
強大なイスラム大帝国オスマン帝国とも激しく争いますが、同時に巧みな外交で交易を維持し続けます。

しかし16世紀以降、大西洋航路の発見とオスマン帝国の台頭により香辛料貿易の主役の座を失い、徐々に衰退。
1797年、ナポレオンの革命軍が北イタリアに侵攻すると、最後のドージェ・ルドヴィーコ・マニンは大評議会で共和国の終焉を宣言します。戦闘は一切行われず、議決だけで1,100年の歴史に自ら幕を下ろしました。

ヴェネツィア共和国は、王がいない共和国として千年以上繁栄し、海洋貿易で巨万の富を築き、制度と金と船だけで地中海を支配した、歴史上他に例を見ない「商人たちのユートピア」でした。その遺産は今も、世界遺産となったヴェネツィア旧市街の美しい街並みと建築群に見ることができます。

【琉球とヴェネツィア】


両国とも共通する点は、琉球は東アジアにおいて、そしてヴェネツィアは欧州・地中海において地域世界を代表する海洋貿易国家だったということです。
しかも琉球もヴェネツィアも領土型の国家ではなく、非常に限られた土地に位置する国であり、人口や資源に限りがあったことも特徴です。

近隣には強大な大国;琉球においては中国・日本。ヴェネツィアにおいてはビザンツ帝国、フランス、神聖ローマ帝国、ハンガリー王国、オスマン帝国、マムルーク朝、などが控えていたのにも関わらず、経済的繁栄と巧みな外交力で大きな国際的影響を保持しました。

琉球人もヴェネツィア人も名を捨て実を取る、ということができたことが長き繁栄の秘訣です。
自国のプライドに固執し、他国に甘く見られないよう意地を張ったり、敵対国を見下す国は今も昔もたくさんあります。特に大国はそのような自己中心的な行為に走る傾向が強い。
しかし琉球の商人やヴェネツィアの政治家は、たとえ卑屈に見えようが弱腰に見えようが、大国の機嫌をとり、親密な関係を築き、信用を積み上げることで長期的な利益を引き出しました。
そうして国際的な尊敬を勝ち取り、さらに万国の架け橋となり、安定的な国際秩序の大きな要石になったのです。

領土は小さく、人口も多くなく、資源も限定的な、現在では”小国”ともいえる二つの国が、富・文化・政治において大国たちと同等かそれ以上の影響を誇ったことは、まさに中世史の奇跡であり、美しい歴史です。

次回以降は両国の政治・外交についてさらに深く述べていきたいと思います。

続く

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