ここから始まる物語
(夜間中学に通う三人の人生讃歌)
🌙まえがき
夜間中学という場所には、静かに燃える灯のような人たちがいます。
若い頃に叶わなかった“学び”を、今、もう一度手にしようとする人たち。
この物語は、そんな場所に通う三人の人生と、
新たな“始まり”の物語です。
学ぶことは、生きること。
そして、愛することもまた、学び直すことなのかもしれません。
本文
「学生総隠居」──最近の学生たちの流行り言葉だと聞いた。
夜間中学に通う徳三は、そう言って、笑った。
「学校には通っているけれど、やる気のない学生が多いらしい。実に悲しい話だよ」
彼はそうつぶやきながら、静かに黒板を見つめた。
徳三、キヌ、善次郎。
この三人は、それぞれに悩みや想いを抱え、夜間中学に通っている。
若い頃、学びたくても学べなかった。
だから今、学ぶということは、自分の人生を取り戻すことでもあるのだ。
徳三は、昔八百屋を営んでいた。
若い頃のように体は動かないが、長年の商いで身についた「人との関わり」が、
今も彼を支えている。
その八百屋は、今は娘が継いでくれている。
キヌは、若くして夫を亡くし、女手ひとつで息子を育てあげた。
やがて、その息子が海外へ転勤となり、
キヌは小さな孫を引き取り、長いあいだ面倒を見た。
その孫も今は社会人となり、通訳として海外で働いている。
善次郎は、貧しさの中でも勉強を続け、
小さなクリーニング店を開いた。
「まじめで、誠実で、仕上がりが丁寧」
と評判になったその店は、地域で長く愛された。
だがある日、商店街の火事により、すべてを失う。
それでも善次郎は、再び店を再建し、やがて人に任せて、静かに隠居した。
そんな善次郎には、長年密かに思いを寄せていた人がいる。
キヌだった。
お互い独り身。
これからの人生、どれだけの時間が残されているのかわからない。
善次郎は、決心してプロポーズをした。
そして今夜、夜間中学校の教室で──
ささやかな結婚式が開かれた。
教室の蛍光灯の下、黒板にはチョークで書かれた文字。
「ここから始まる物語」
拍手も花束もない、
けれど誰よりも祝福に満ちた結婚式だった。

✒あとがき
学びには終わりがありません。
人生にもまた、何度だって“はじまり”があります。
夜間中学に集った三人は、
過去を悔やむためではなく、
これからの時間を愛するために、学んでいたのかもしれません。
「学生総隠居」という言葉の裏で、
今日も誰かが、静かに人生を始めています。
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