魚偏に春
せりふ三題噺の企画参加作品
🌸まえがき
正しいことを、正しく伝える。
それはきっと大切なこと。
けれど、
言わないことで守られるものも、あるのかもしれません。
春の海辺で交わされた、
小さなやりとりのお話です。
🌊本文
魚偏に春
「見なかったことにして」
君は、僕をにらむように言った。
僕はただ、漢字が間違っていたから教えただけなのに。
今日は、なんだか機嫌が悪そうだ。
気分を変えようと思って、僕は君を堤防へ誘った。
君は少しだけ間を置いてから、自転車の後ろに座り、
「出して」
とだけ言った。
僕はそのまま、二十分の道を走った。
堤防に着くと、釣り人が何人もいた。
海は穏やかで、風はやさしかった。
君は、釣れた魚を見つけて近づいていく。
「おじさん、この魚はなんて名前?」
「ああ、これはサワラだよ」
君は少し考えてから、得意げに言った。
「知ってる。この魚の漢字。魚へんに……冬だったんじゃない?」
僕は思わず「違うよ」と言いかけたけれど、
「君は漢字に詳しいんだね」
おじさんが、にこやかにそう言った。
その言葉に、君は嬉しそうに笑った。
僕は、少しだけ顔が引きつった。
……また言ったら、怒るだろうな。
そう思って、僕は何も言わずに君を見ていた。
「ねぇ、杉の花粉って、ここまで飛んでこないわよね」
君がぽつりと言った。
「どうして?」
そう聞くと、君は少しだけ僕の方を見て、
「だって、あなた、くしゃみしてないじゃん」
と、さらっと答えた。
一瞬、風の音だけが耳に残った。
ああ、見てくれてたんだ。
そう思うと、僕はまた、君を好きになっていた。
「漢字は間違ってても、人生は楽しいもんだ。仲良くやんな」
おじさんが笑いながら言った。
海の向こうで、夕日が少しずつ沈みはじめていた。
帰り道。
自転車の後ろで、君がふいに言った。
「ねぇ、魚へんに春って、なんて読むの?」
僕は、一瞬だけ答えに迷った。
「……」
言おうと思えば、すぐ言える。
けれど――
「あら、知らないのね」
君はそう言って、くすっと笑いながら鼻歌を歌いはじめた。
その声を聞きながら、僕は思った。
……聞かなかったことにしておこう。

🌷あとがき
正しさは、時に人を傷つけてしまうことがあります。
でも、
少しだけ目をつぶることで、守れるものもある。
間違いを直すことよりも、
大切にしたい気持ちがあるとき――
それはきっと、やさしさなのだと思います。
春の風のように、やわらかな関係が
これからも続いていきますように。
※この物語はフィクションです。
せりふ三題噺のお題に書かせて頂きました。
お題をありがとうございます。
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