評論 新方針が注目の国際演劇祭の雄 SHIZUOKAせかい演劇祭2026
静岡県舞台芸術センター(SPAC)が主催するゴールデンウィーク恒例の国際演劇祭が、新体制をスタートさせた。これまでは芸術総監督の宮城聡が名実ともに率いてきたが、今回から石神夏希がアーティスティック・ディレクターをつとめ、プログラミングをになった。昨年掲げた新方針「SPAC2.0」を反映し、観客参加や社会課題の反映を打ちだす姿勢が鮮明だった。
SPACは財団設立三十周年を迎えた昨年から世代交代、運営方針の練り直しを進めている。ゴールデンウィークの「ふじのくに⇄せかい演劇祭」を「SHIZUOKAせかい演劇祭」に名称変更し、まず秋のシーズンで新アーティスティック・ディレクター石神夏希を起用した。その際、宮城聡は「SPAC2.0」を唱え、地元静岡県への浸透を強化する方針を示した。専属劇団でつちかわれた俳優のスキルを企業研修、観光、教育などに活用し、これまで劇場に来なかった人を積極的に招き入れたいという。
SPACといえば、世界的水準の創作活動をつづける専属劇団で知られる。私はフランスのアヴィニョン演劇祭とニューヨークの劇場で『アンティゴネ』(宮城聡演出)が熱狂的に迎えられる現場を取材し、海外における評価の高さを肌身で実感している。東京の評論家やジャーナリストの間でも、日本ではまれな地域演劇の雄として存在感は折り紙つきだ。一方で県の財政的支援が不可欠な運営組織としては、地元(とりわけ県西部)の認知度の意外な低さが悩みの種となってきた。自治体の財政事情が逼迫するなか、世界的評価と地域への浸透を両立させることはいっそう難しい課題となっている。難題解決にはなにより納税者の理解と共感が不可欠だ。劇場文化の先進地だった静岡は、それゆえに課題先進地ともなる。
「せかい」はとなりに住んでいる 観客へ呼びかけ
石神夏希は「SHIZUOKAせかい演劇祭」に取り組むにあたり、身近な視点から世界とつながる大切さを唱えた。いわく「『せかい』はあなたの隣に住んでいる」。柔らかい言葉づかいながら、そこには演劇祭の意義を地元に訴える切実な思いが反映していただろう。
私は今回の「SHIZUOKAせかい演劇祭」を初日と楽日の二度訪ねた。一度目は四月二十五日で、三演目を観た。
まず静岡芸術劇場でテアター・エカマトラの『マライの虎ーハリマオ』(国際交流基金と共催)。シンガポールでマレー演劇の確立を目指すグループが日本人俳優とともに創作した舞台だった。一九四三年に制作された日本の国策映画『マライの虎』を今日的な視点でリメイクする過程が演劇化された。歴史認識をアジアの演劇人が共同ですりあわせていく試みといえる。
舞台に白い布をはった箱形の台車が置かれ、それが組み合わせによってスクリーンともなる。カットの声で時々中断しながら、映像とリンクした演技が繰り広げられる、いわば連鎖劇のスタイルだ。映画は非道な英国人に支配されるシンガポールを日本が「解放」するプロセスを描く。英国人に指示された華僑の共産党員が暴動を扇動し、理髪店を急襲、日本人の少女を射殺。その復讐が主筋となる。親しい雰囲気の俳優たちは話し合いながら日本語、英語を交えた多言語でシーンをなぞっていく。

©︎SPAC photo by Y.Inokuma
シンガポール側は華僑の図式的な描き方に異を唱えた。殺意なく、誤って少女を撃ってしまったという風に状況をつくりかえる。女優がひょひょうとして面白く「ハリマオー」とリフレインする挿入歌や時局を感じさせる映像が強い印象を刻む。舞台は笑いを交えて進行し、最後は戦後の裁きへ。ここで日本人俳優が広島長崎の問題を持ちだした。はからずも木下順二の『審判』に通じるせりふだったことに、私は偶然以上の意味を感じた。日本人の侵略行為は国際法で裁かれる必要があった。では米軍による原爆投下や東京大空襲は裁かれなくて良いのか。アジアの演劇人が身体表現で問い返した歴史認識の試みが、日本の戦後演劇が問うた主題「取り返しのつかないことを、取り返す」(木下順二)と響あうように思われたのだ。アルフィアン・サアット台本、モハマド・ファレド・ジャイナル演出。
その後、バスに乗って静岡県舞台芸術公園へ。稽古場棟BOXシアターで、フィリピン出身のアイサ・ホクソン、スリランカ出身のヴェヌーリ・ペレラという女優ふたりの圧倒的パファーマンス『マジック・メイド』(国際交流基金と共催)を観た。フラットな稽古場を三方から客席が囲み、正面の壁に長柄の箒、中くらいの箒、柄のない箒などが並ぶ。黒いセクシーな衣裳のふたりは股の間にデッキブラシの柄をはさみ、先端を前につきだす。理不尽な何かに貫かれるイメージか。ふたりははじめ、無言で客席を見渡しながらブラシで床をこする音をさせて、歩き回る。次第にサイケデリックな音楽が流れ、字幕に過去の魔女狩りやメイドへのハラスメントが事例として示される。欧米などで使用人に雇われる女性たちが時に性的に搾取され、暴力に直面するイメージが箒を用いた姿態で強烈に伝わってくる。

©︎SPAC photo by Y.Inokuma
股にブラシをはさみつづける強靱な筋力に驚き、予想外の身ぶりに目が釘づけになる。手に二種の箒をもってバタバタやると飛べない鳥のようだし、客席に向かって土下座のポーズをとると、観る側は主人の位置となって劇に巻き込まれる。はいつくばって舌を出し、悪相をみせると獣のような魔女のイメージで、上にはられた線に長柄の箒をかけていくと、つるされた死体(私はビリー・ホリデイの「奇妙な果実」を思った)にみえる。フィリピンのメイドを雇ったことがありますか、などと言葉で客席が挑発されたあと、白い粉(ベビーパウダーのイメージ?)をブラシで床に広げていく。しまいには箒やブラシを前列の観客に渡し、暗黙のうながしによって掃除をさせる。主従の関係が最後に逆転するわけだった。それが暴力的な指示ではなく、自発的な観客参加を誘うような、柔らかく自然な演出だったことにとりわけ強い印象を受けた。演技者による共同創作。

©︎SPAC photo by Suzuki Ryuichiro
夜は公園内の野外劇場「有度」でSPACの『うなぎの回遊 Eel Migration』を観る。フランス国立演劇センター、ジュヌヴィリエ劇場との共同製作。石神夏希台本・演出、棚川寛子音楽。ブラジルにルーツをもつ地域住民とSPACの俳優によるパフォーマンスである。リサーチやインタビューをもとに実録的な台本がつくられたという。風船をつらねたピンク色のオブジェは、うなぎの卵のイメージだろうか。うなぎ養殖業者の怒り(規制がきびしくて廃業を考えているといった話)、うなぎの生態の説明などもさしはさまれる。異文化をつなぐケーキのパーティーが描きだされ、ブラジルと日本を往還した女性の実人生が語られた。ブラジルとの人的交流にうなぎの生態を結ぶ作意は奇想天外だった。地域の物語をつむぐ創作プロセスの重要性はよくわかったし、うなぎバイが提供されるのもうれしいが、舞台作品としては発展途上ととらえるべきか。三島由紀夫の近代能楽集『弱法師』で斬新な演出をみせた石神夏希には、こうしたパフォーマンスでも練度をあげていってほしい。
サーカス・パフォーマンスの衝撃
最終日の五月六日には二作を観た。二〇二四年のアヴィニョン演劇祭で初演された『Qui som?ーわたしたちは誰?』(静岡芸術劇場)は、フランスとカタルーニャのサーカス・アーティストや俳優たちによるノンジャンルのパフォーマンスだった。全編を貫いていたのは粘土のイメージ。左右に並べられた壺ではじまり、粘土のような山のオブジェが吊り上げられると一枚の黒い皮膜のようになり、無数のヒモをつけたその幕が揺れ動けば暗い海面のように見え、そこに人が浮き出ると遭難者みたいに見えてくる。素材の意外性を生かす驚きの視覚効果が続く。俳優たちは高い身体能力、歌唱力をもち、詩的な断章をもとにコミカルにイメージを連鎖させていく。サーカス学校出身者たちが中心となるこのバロ・デヴェルというグループはロマ民族のキャラバンのように移動テント興行もするらしく、銘々が楽器を演奏しながら、最後は観客をロビーに誘い、ともに歌い踊る観客参加の熱狂的なパフォーマンスへとなだれこんだ。

誰にだって居場所はある。あなたがいて、わたしがいる。優しさや命のために闘わなければならない……。
「神から拝命した保安官気取り」を批判し、次々とメッセージをくりだすパフォーマンスは現在の世界情勢を覆う独裁や不寛容を鋭く批判し、観客を巻きこみ、芸能の愉楽をうたいあげるものだった。超絶的な身体表現と芸術的主張が組み合わさると強烈なパフーマンスが生まれる。石神夏希がアヴィニョンで感銘を受け、招聘を強く願ったのも納得。リーダーのカミーユ・ドゥクルティ、ブライ・マテウ・トリアス作。
観劇回が演劇祭の千秋楽となったSPACの『王女メデイア』は、十六年ぶりの再演だった。エウリピデスのギリシャ悲劇を宮城聡が設定を明治時代の日本に置き換えて演出し、一九九九年に初演した。語り手と演じ手が分離する宮城演出の手法が確立された作だろう。昨年六月のロンドン公演(コロネット劇場)で賛辞を集め、その凱旋公演でもあった。上演は駿府城公園の紅葉山庭園前広場の特設会場で、当初は屋根つきの舞台だったというが、強風の影響で最終日はそれが取り払われていた。背後に明治の都会を描いた錦絵のパネル、遠くから大声で話しながら男たちがやってくると、そこは明治時代の宴席になる。写真を抱き、顔を隠した女たちを男たちは遊女を選ぶように指名、配役していく。彼らはやおら横一列になって、女にお酌をさせながら、物語を文楽太夫のように朗唱する。するとメデイアの美加理らがマイムとも人形振りともみえる座敷芸をその場で演じる。メディアを語った阿部一徳の声量が圧巻。棚川寛子の音楽も効果的だ。

©︎SPAC photo by Y.Inokuma
この舞台は最後に強烈な見せ場がある。女たちが座敷に乱入し、男たちをなぎたおすのだ。劇のなかに劇があり、子殺しを強いられる物語のなかから反乱する女が出現する。ミュージカル『コーラスライン』の翻案という側面が感じられ、宮城聡が先行作や鈴木忠志の身体表現に影響を受けつつ、懸命に世界性をめざした鋭い原点がここにあるだろう。
演劇祭のディレクターを石神夏希にバトンタッチした宮城聡はこの自作の記念碑をふりかえったあと、どこへ向かうのか。年齢も技量も上がったSPACは今井朋彦、上田久美子、多田淳之介、瀬戸山美咲、下島礼紗ら劇団外の演出家、振付家と多彩な創作活動をみせはじめたが、それらがどう発展してしていくのか。期待をこめて注目したい。
SPACは初代芸術総監督、鈴木忠志の強力なリーダーシップで舞台芸術の祭典シアター・オリンピックスを実現させ、その遺産をばねに発展してきた。二代目の宮城聡もその精神を継承し、国際演劇祭では東京でも観られない話題作を招聘してきた。クロード・レジ、ワジディ・ムアワッド、オリビエ・ピイ、オスターマイアー、オン・ケンセンとアーティストの名を挙げるだけで、その威光がわかる。近年は人件費、輸送費などの経費がかさみ、コロナ後の円安もあって、大型の招聘公演が難しくなっていると聞く。
潤沢な予算規模で出発した財団も、いまや財政事情から運営の見直しを当局から求められているだろう。欧州の公共劇場のように専属劇団や強力な芸術総監督をそなえ、国際演劇祭まで催してきた先進事例、その理想をなんとか保ってほしいと切に願う。「SPAC2.0」はこの時代への抵抗の徴とみたい。静岡の挑戦はこれからもつづく。
【SHIZUOKAせかい演劇祭2026のデータ】
4月25日~5月6日、静岡芸術劇場、静岡県舞台芸術公演、駿府城公園。参加演目は以下の通り。テアター・エカマトラ『マライの虎ーハリマオ』/アイサ・ホクソン、ヴェヌーリ・ペレラ『マジック・メイド』/SPAC『うなぎの回遊 Eel Migration』/バロ・デヴェル『Qui? som? わたしたちは誰?』/SPAC『王女メデイア』/SPACワークイン・プログレス『さあ環境に抵抗しよう、死に抵抗しよう。そうさ生に抵抗するのさ、』
このほか「ストレンジシード静岡2026」と銘打ち、ストリートシアターのフェスティバルが5月3~5日、駿府城公園、市街の青葉シンボルロードなどで開かれた。
冒頭の写真はSPAC『王女メデイア』©︎SPAC photo by Makita Natsumi
