「知の膨張」が突きつけるトリレンマとその解決法
教育を巡る議論において度々繰り返されるのが、「詰め込み」か「探究」かという二項対立に基づく論争だ。その変転を象徴するのが教育行政で、80年代に始まった「ゆとり教育」以降、日本の教育は両項の間を振り子のように揺れ動き、その都度学校や家庭を翻弄してきた。
もちろん、学習の問題がそうした単純な二項対立で割り切れるものではないことなど、ほとんどの人は理解している。知識を学ぶだけでは役に立たず、知識の伴わない思考は戯言に過ぎない。ゆえに問題の本質はどちらを重視すべきかという点にあるのではない。まず第一に考えられるべきは、社会の構成員に求められる知識・技能、あるいは思考力・探究力の不足が露呈している現実にどう対処するのかということだ。そして、その要求を満足させるには有限な資源と時間とをどのように配分するのが望ましいのか、その結果として誰がどの過程に責任を負うのかに関しても社会の中で合意される必要がある。
現行の議論は主に後者の問題を巡る争いと言えるだろう。中には単純な懐古趣味や自身の成功体験への拘泥から「詰め込み」を賛美したり、学校の知識など実社会では役に立たないとする皮相的な実用主義に基づいて「詰め込み」を否定し、実践的な「探究」活動を重視すべきであると唱えたりする浅薄な主張も見られないではない。ただ、多くの人は知識・技能と思考力・探究力とが学力の両輪であることを正しく認識している。そして、その時々の教育行政においてどちらかの形成が不十分であることに物申し、あくまでも不均衡の是正を求めているに過ぎない。実際にどちらがどの程度不十分なのかについては各々の持つ学習観や信条によって見解の不一致があろう。しかし、両者の間に偏りがあってはいけないという問題意識は概ね共有されているし、絶えず進歩を志向してやまない学問という営みの性質上、結局は「どちらも不十分であり改善の余地がある」という結論に落ち着くのは目に見えている。ゆえに事実上問題になるのは、両者の追求において「誰が、どのくらい、何をすべきなのか」という点なのである。
さて、知識・技能と思考力・探究力の両面を伸ばしたいと考えるにしても、教育や学習に費やせる時間と資源が有限である以上、そこには峻厳なトリレンマが不可避的に立ちはだかる。知識・技能を過度に重視すれば思考力・探究力を伸ばすことができず、明確な正解が存在する問題にしか対処できない人間ばかりを生むことになる。逆に、思考力・探究力の育成に力を入れようと思えば計算力や識字能力、あるいは基礎知識といった学習の土台の形成が疎かになる。そして、限られた時間の中で両者を共に追求しようとすれば教育の現場や生徒を限界以上に疲弊させてしまう。これら3つの要求を同時に満足させることは難しい。
トリレンマの存在そのものを取り払うことはできないが、仮に所与の時間と資源の制約内で知識・技能と思考力・探究力の引き上げを同時に十分な水準まで実現し得るのであれば、問題はまだしも軽微であると言えよう。それは教育や学習の技術的側面を調整あるいは工夫することによって解決可能な問題であるからだ。たとえば、学校教育において一定時間を探究学習に充てたり、ドリル式の演習だけでなく思考力を重視するような学習課題に取り組ませたりといった方法が考えられはする。
ただ、そうした楽観に基づいて教育を語っている人は最早ごく少数であろう。教師のなり手不足が問題として盛んに喧伝される昨今において、社会が真に直面しているのは時間と資源の欠乏であるというのは明らかだ。
残念なことに、トリレンマの存在は不可避的な現実である。そこで、俺達は時間や資源の限界を拡張する方向でこの問題への対処を試みようとしてきた。それが教師の残業時間の増加であり、学校外における教育サービス利用の過熱である。
これらはいずれも好ましからざる現象として認知されているが、こうした事態が生じてしまう背景には、時間と資源の限界の拡張における責任の所在の押し付け合いが存在すると言える。たとえば、学校で探究学習の時間が増加することで基礎学力の形成が危うくなっていると感じる家庭は、それを補おうとして子供に独自の演習課題を与えたり、通塾を強いたりするだろう。この場合、時間的・経済的な限界を拡張するための負担は家庭に押し付けられていることになる。もちろん、全ての家庭が拡張可能な時間や資源を持つわけではない。両親が共働きで子供の勉強の面倒が見られなかったり、通塾にかかる教育費の捻出が難しかったりする家庭も存在する。その場合は十分な学力が形成されず、実社会に出た際周囲に遅れを取ってしまうといった形で子供に責任が課せられることになる。
そして、家庭や子供が責任を負わされるような事態は教育行政の失敗にほかならないという批判が学校に向けられれば、今度は現場の教師がその解消のための負担を押し付けられることになる。教師は思考力・探究力の形成を重視しつつも知識・技能も確実に定着させられるようなカリキュラムや学習課題を準備しなければならない。さらに、教育というものの性質上、課題を与えるだけでは学習面での効果は乏しい。与えた課題の量に比例して、それらへのフィードバックという作業も付随して増大してしまう。よほど優秀かつ強靭な精神の持ち主でもない限り、こうした業務を続けられはしないだろう。もちろん、仕事一徹で教育に人生の全てを捧げているような教師であれば、こうした難業を苦も無くこなせてしまうのかもしれない。しかし、それが教師の働き方としてロールモデル化され当然視されるというのはどう考えても不健全だろうし、そうした苛酷な要求は教師を志そうという有為の人材の数を一層減らしてしまうだけである。
言うまでもなく、負担や責任は誰かが一手に引き受けるのではなく、教育の提供者と受益者との間で適切に分担されることが望ましい。また、時間や資源の利用効率を引き上げることで学習に伴う負担の総量を軽減したり、同じ制約条件下で得られる学習の効果を引き上げることも可能であろう。
その意味で改善されるべき点はある。たとえば、知識・技能の形成と思考力・探究力の形成は必ずしも二律背反の関係にあるのではなく、学習者の心がけ次第でその両立は十分に可能である。子供が学習への課題意識を明確に持ち、習得のための方略を考える機会として演習を自覚的に活用できるならば、知識・技能と同時に思考力・探究力も育まれよう。そもそも、こうした意識は学習効率を上げるために不可欠であるとすら言える。また、批判の多い探究学習やアクティブ・ラーニングだが、こうした学習は基礎学力の形成へ向けた努力を生徒自身に求めることが前提となっている。知識・技能の定着を目的とした反復練習などは、本来授業中ではなく個々が家庭学習において取り組むのが合理的である。それができない生徒がいるために保護者はその訓練と管理を学校や塾に委託したがっているという面がある。逆に言うと、この過程を生徒自身に引き受けさせることができるならば、知識・技能と思考力・探究力を共に育むための歯車は今よりも円滑に回せるはずである。
あるいは、教師の側にしても課題の与え方や学習観の誘導を工夫したりすることにより、生徒が知識・技能と思考力・探究力を同時に伸ばすための手助けができるかもしれない。たとえば、漢字を10回ずつ書いて来いといった宿題はほとんどの子供に「作業」としか認識されず、有意義な学習に繋がっていない。酷い場合には最初に偏だけを10個書き連ね、次いで旁を10個書き足していくといった方略を試みる者もいる。これは確かに「作業効率」の向上を目的とした思考を生徒に促していると言えなくもないが、肝腎の漢字の習得に繋がらないのは明らかだ。ゆえに、課題を与える側が取り組み方を丁寧に導入したり、列ごとに漢字を書く順番を変えさせるなどの工夫を施したりするなどして、認知能力の形成に効果的な学習課題を設計していくことが望ましい。特に、早い段階で適切な学習観を形成しておくことは以後の指導を円滑かつ効果的に進める上で有益であり、教師にとっては費用対効果の高い労力の投資であると言える。
もちろん、生徒に単純で粗雑な課題が与えられるのは現場に工夫を施す余裕が無いからでもある。その場合はAIを用いた学習アプリの活用も一案であろう。AIは生徒の解答傾向からその弱点を把握し、効果的な反復演習課題を与えることができる。いわば、生徒や教師が学習方略を思考する過程をアルゴリズムに丸投げしてしまうわけで、特に子供の思考力や学習観の形成という観点から見れば決して望ましいとは言えない。だが、基礎学力の形成過程を生徒に委ねるという目的を果たす上では有用であろう。
ただ、上記のような対応は所詮弥縫策に過ぎない。実際のところ、現代の教育はその根底に構造的な問題を抱えており、その遂行はいずれ限界に直面せざるを得ないと考えられる。その問題とは、現代社会において習得しなければならない知識・技能の量、そして要求される思考力・探究力の水準が飛躍的な上昇を続けていることに由来するものだ。
昭和の教育からの変化としてまず挙げられるのが小学校での英語教育導入、そして高校における「情報」の必修化であろう。英語も情報リテラシーも現代社会で付加価値の高い仕事に携わろうと思えば必須の能力であるとされることから、その教育責任が公教育に期待されるようになってしまった。また、VUCA(Volatility, Uncertainty, Complexity and Ambiguity)という語で形容される現代においては、自ら問いを立てて未知の答えを模索する力を持った人材が必要とされる。そうした時代の要請に鑑み、入試においても単純な知識量や処理能力のみならず、思考力や推論能力までもが問われるようになっている。教科知識に関しては昔の子供の方が些末なものも含めて多くの習得を求められたかもしれない。しかし、身につけることが望まれる素養や技能の幅広さという観点からは、現代の教育者あるいは生徒への要求水準は明らかに高くなっていると言えよう。
いや、知識の面にしても特定の科目では習得の負担が激増していく可能性がある。その代表が社会科と理科、特に生物学だ。
言うまでもなく、歴史は次から次へと刻まれていく。20年前の時事問題は今や誰もが学ぶべき現代史である。さらに言えば、グローバル化や社会構造の複雑化が進展する中で、現代の出来事を理解するのに必要な認知能力や教養水準は確実に高まっている。たとえば、小学生や中学生がサブプライム・ローンやリーマン・ショックについて理解するのは難しいだろうし、情報革命やAIが社会にもたらした変革や生活の変化について語るのは、その技術的な複雑さや影響の広範さにおいて、産業革命について語るのとは規模がまるで異なってくる。そして、現代における変化のスピードは18世紀や19世紀と比べても圧倒的である。10年と言わず、1年単位でも画期的な出来事が起こり得る。50年後の学生が知るべき事柄は現在よりもさらに大幅な増加を見せているだろう。
また、生命科学はDNAの構造が20世紀になって初めて明らかになったことからもわかるように、基礎的な事柄に限っても新発見や新技術の開発が今後も相次ぐであろう分野である。少なくとも俺自身が現役であった頃と比べても入試で扱われる内容は大きく様変わりしている。現在においてさえ既に理科の中で受験には不利な科目と言われているが、10年ほど経つとさらに習得の難度が上昇している可能性が高い。
つまり、学習方法や資源配分の工夫によって習得効率を多少実現させたところで、質量両面における学習上の負担の急増は、そうした改善の効果を早晩打ち消してしまうのではないかと懸念される。今でさえ学習に困難を抱える子供達が少なからず存在する状況で、さらにこうした上積みが生じれば教える側・教わる側双方にとって最早手の施しようが無い事態に陥ってしまうのではないか。
こうした行き詰まりを解消し得る方法はいくつか考えられよう。それは大別すれば人間の認知能力を飛躍的に向上させる方向、および「知のダウンサイジング」を図る方向に分けられる。
前者に関して言えば、最も穏健かつ残酷な手法は優生学的な社会進化論に基づき、知の膨張が引き起こす淘汰圧に人類を晒すことである。飛躍的に向上する学習の負荷にも対応できる認知的特性を備えた人は一定数存在するであろう。そうした人々に特権的な地位や富の独占を認めてしまう。残された人々は生活のゆとりを失い、婚姻と子孫の繁栄は成功者のコミュニティのみに許される贅沢となろう。このような格差社会を積極的に放置することで知の激流にも耐え得る認知能力を有した人間を選抜し、生存に値しない遺伝子の淘汰を通じて人類を来たるべき社会に進化適応させる。そうしたある種の優生思想が生まれ得る。
この発想は明らかに非人道的である。けれども、最も起こる可能性が高いシナリオではないかと思う。なぜならば、そこに学力や社会的成功に対する旧来の価値観の更新は伴われないからだ。学業における成功は人の努力や能力の高さを示すものであり、能力において他に勝る人間は当然社会的にも優越的な地位や報酬を得るにふさわしいとする近代以降の実力主義を無条件に肯定し続ければ、意図の有無にかかわらず上述のような状況が生ずるのは一種の必然であると言える。
実力主義や競争原理を是とする価値観を保ったまま社会のディストピア化を避けようと思うなら、凡庸な認知能力の持ち主を急速に膨張する知の獲得に適合させていかなくてはならない。当然、一般的な生徒の多くは今日求められる水準の学習について行くのも精一杯なわけだから、古典的な学習の延長上に解決の手法を求めることは難しいだろう。たとえば、電極による脳への刺激や合法的薬物といった手段を用いて人工的に認知力を拡張させた「強化人間」を生み出していくとか、AIを搭載したデバイスを眼鏡や補聴器と同じような感覚で常時装着し、社会生活上の思考や判断において突き付けられる認知能力の欠如を補うといった方法が必要になるかもしれない。
これも十分に非人間的であると批判されるならば、選び得る道は最早知の膨張を減速させることにしか求められないのではないか。つまり、意図的に人類の進歩を止めてしまうということである。
大衆への公教育の普及が始まったのは産業革命以後であり、その目的は工場における定型的作業を効率的にこなしたり、古典的な自然科学の知識を理解したりできる「近代人」の創出にあった。そうした教育において重視されたのは知識と技能の習得であり、思考や探究といった高次の認知的活動は社会のごく一部の層にのみ期待されるものに過ぎなかった。いわば「テイラー主義」に適合する均質的な労働者を大量に育成するための教育システムは長く引き継がれ、その限界や否定的側面が問題として広く社会に共有されるようになったのは20世紀後半になってからだ。そして現在においてもそのシステムは抜本的に変革されていない。
こうしたシステムは要求される学力の質や知識の量が一定水準に固定されている限りは有効に機能する。しかし、学ぶべき事柄が幾何級数的に増大し、定まった正解の有無さえも明らかではない時代には明らかに適合しない。不確実性に対処するためには多様なアウトプットを産出し、その中から有効な解を探っていくしかないからだ。その過程では当然ながら適合の失敗例が大量に生み出されることになる。そうした状況において一握りの成功者だけを優先的に選別していくのが優生思想に基づく社会であり、不適合者を人工的に適合者へと改造しようというのが認知能力の拡大戦略である。一方、従来の公教育が担ってきた社会的意義を墨守し、社会の構成員全てに可能な限り同質の認知能力を身につけさせることを考えるならば、少なくとも知の拡大を産業革命からICT革命以前までのペースにまで落とす必要があろう。
ただ、それは必ずしも知的な進歩を諦めるということではない。むしろ進歩のベクトルを知識や技術の軸から他の方向へ振り向けるということだ。
そもそも、人間は知的に「進歩」してきたと言えるのだろうか。確かに、古代や中世と比べれば人類は多くの知識や技術を獲得し、物質的な豊かさの実現を通じて快適な暮らしを手に入れ、死や病苦を限りなく遠ざけることに成功した。宗教的な盲信や土俗の迷信を離れ、感情よりも理性をもって科学的に思考する術を学んできた。しかし、その一方で自然への感受性や人間の内面への洞察、そして自分の力では如何ともし難い災厄や不条理を受け入れる精神性を失ってきたとも言える。それを「進歩」と呼ぶのは科学技術や理性を無批判に信仰や感情の上に置くことを意味する。それは正しいのだろうか。
「知のダウンサイジング」の問題に関しては別稿にて改めて論じようと思うが、まずは知の膨張に対する一つの有意義な処方箋であり得ることを指摘しておきたい。
ここまで述べてきたように、学力形成におけるトリレンマの問題は好むと好まざるとにかかわらず全ての教育者、ひいては人間社会が向き合わなければならない問題になってくるはずだ。その解決法として最初に社会的合意が得られるのは、おそらく人間の認知能力を拡大する試みだろう。
ただ、それは不可能ではないかもしれないがおそらく間に合わない。たとえ技術的に実装を成し得たとしても、そこにはコストの問題が発生する。そうした技術の導入当初には、より良い教育を求めて子供を私立校に通わせたり家庭教師を利用したりするのとは到底比較にならない規模の経済的負担を人々に強いることになるだろう。その費用が万人に普及し得る水準まで低廉になるには相当の時間を要し、その間にも知の幾何級数的増大は一層進行する。結果的には、天賦の資質であれ人工的な認知力強化技術の利用であれ、何らかの手段で知の膨張への適応に成功した一握りの人々のみが学力面での飛躍的な発展を遂げ、その他大勢の者は「落ちこぼれ」の立場に甘んじるという時代が訪れるのではないだろうか。
そうしたディストピアの到来を避け得る方略の一つが「知のダウンサイジング」である。次回はその可能性について検討してみたい。
