掌編小説「どうか縛らないでください」#アマノ文筆クラブ

「どうか縛らないでください」
「やめて!!私に触らないで!!」
両手を耳元に当てて何度も頭を振りながら、青褪めた顔で叫ぶ女性に僕は困惑して、その場に立ち尽くすしかなかった。
「あ、いや、僕はただ…」
平日の通勤時間帯の混んでいるホームで、行き交う人々が視線だけで僕を責めているように感じる。
さっき満員電車の中で
「ち、痴漢」
少女漫画のような黒い瞳で上目遣いに救いを求めてきた彼女の腕を引っ張って、僕はこの駅で一緒に降りただけだった。
「じゃあ、僕はこれで」
これ以上、彼女に関わっていたら就業時刻に大幅に遅れてしまう。それに、助けたつもりなのに、この状態を見たら誰もが僕を何らかの加害者だと思うだろう。
ツン
それなのに、立ち去ろうとする僕のスーツの袖を彼女が掴んだ。
「行かないでください」
「はぁ?」
「あ、あの、ごめんなさい。少しだけ…お茶くらいご馳走させてください」
「でも仕事が」
「どうしてもダメですか?」
あぁ、まただ。
潤んだ黒い瞳で、切なげに懇願するように真っ直ぐに見つめてくる。触れられるのも嫌だったくせに。
「じゃあ、少しだけなら」
まるで、そうなることが分かっていたかのように、彼女は
「良かった」
と細い顎で頷いた。
駅ビルの中のスタバに入ると
「さっきは取り乱してしまって、本当にごめんなさい」
冷静さを取り戻した彼女が、僅かに微笑んで頭を垂れた。
「いや、僕の方こそ強引に連れ出してごめん」
僕は男にしたら華奢でひ弱なタイプだ。あの時、彼女の後ろに立っていたのはゴリラのような胸板の屈強な身体つきの男だった。逃げるしかない、電車のドアが開いた瞬間にそう判断した自分は間違ってはいなかったと思う。
「ありがとう」
そう言うと彼女はストローでカラカラとアイスコーヒーの氷を弄んだ。
「私、栗原 千華と言います」
千華と付き合うようになったのは、そんな経緯からだった。男性に対して潔癖症だと思っていた僕の予想通りに千華は臆病な仔猫のような女性だった。手を繫げるようになるまでに三回も同じようなデートを繰り返した。キスに至るには、なんと六回かかった。怯えて震える白い頬に僕は「自分のものだ」と言うように烙印を押しつけ続けた。
初めての夜、千華は僕の愛を受け止めるように、その花弁を濡らして温かく僕を包み込んだ。そして
「貴方で良かった」
と呟いた。
「ああ、僕も痴漢にあったのが千華で良かった」
と答えていた。千華は一瞬『なんのこと?』と言う疑問の表情を顔に浮かべたが、僕の首に両腕を絡めて安らかな寝息を立て始めた。
その寝息が深く規則的になったのを見計らうと、僕はその腕をそっと振りほどいて電子煙草に手を伸ばした。
もう、この女に用はないな。
明日もまた、通勤列車の中で痴漢に襲われた女を助けようか。
「うっ!」
背後から僕の背中に真一文字に爪を立てた彼女が
「もう離さないわよ」
耳元で囁いた。
「貴方が満員電車で今までしてきた事、全部知ってるんだから」
了
アマノ文筆クラブに初めて参加させて頂きます。
甘野充さん、こんなのでもいいですか?(苦笑)
よろしくお願いします。

冬眠しないの?
