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「熱帯夜のおとしもの」#シロクマ文芸部#チャレがや企画


「熱帯夜のおとしもの」#シロクマ文芸部#チャレがや企画


熱帯夜だった。窓を開けても生温い風しか入って来ない。古い団地の五階。扇風機は部屋の底に沈んだ湿気を、暑苦しい音を響かせて、ただかき回している。この時期、愁子は熱帯夜でも数時間だけ冷房を付けない。それは自分に対する罰、償いに似た儀式だった。
 午前一時を回っても愁子は寝付かれなかった。ベランダに出て、煙草に火をつけた。夫が吸っていたのと同じ場所、同じ銘柄。
 薄いプラスチックの隔て板の向こうに、灯りが漏れているのが見える。隣の部屋の老婆は毎晩、こんな時間まで起きている。昼間、顔を合わせれば、必ず同じことを言う。
「暑いわね、今年の夏は異常よ」
そして、数本歯が抜けた口で笑う。その笑顔が愁子は苦手だ。毎年毎年異常なら、それは普通になるのじゃないかと反発しているが、
「そうですね」
と相槌を打つ。

 五年前、この団地に引っ越して来た時、既に老婆は老婆だった。親切そうにゴミの出し方や自治会を教えてくれた。
 その一週間後、こんな熱帯夜に夫は死んだ。熱中症だった。深夜にエアコンが動かなくなったらしい。愁子は出掛けていて、朝帰った時には布団の中で、夫は冷たくなっていた。
 通夜の帰り、老婆は愁子の手を両手で握り締めて言った。
「寿命だったのよ」
その言葉が、喉の奥に刺さった魚の骨のように抜けない。あれから毎年、熱帯夜が来る度に、愁子は老婆の部屋の前に保冷剤や補水飲料水を置いた。
 
 朝、愁子が出勤する時、部屋の前に置いたそれらはきちんと回収されていた。
もちろん名乗らない。優しさからでもない。死なれたら困るからだ。まだ謝ってもらっていない。まだ、あの事を確認していない。死なれたら、それで終わる。この熱帯夜に喘ぎながらでも、まだ生きていてもらわなければ困る。

 一週間ほど前も、こんな熱帯夜だった。いつものように冷えたペットボトルをドアの前へ置いた。
「おとしものよ」
突然、老婆の部屋のドアがカチャリと開いた。白髪が汗で額に張り付き、痩せた肩が小刻みに震えていた。
「おとしたんじゃないわ」
「冗談よ。毎年毎年、ありがとう」
初めて見る弱々しい笑みだった。
「別にお礼なんて」
「あの日ね、私、本当は謝りたかったの」
愁子は黙った。
「あなたのご主人が亡くなる前の日、廊下で会ったのよ『エアコンの室外機、変な音しませんか』って言われたわ」
老婆は目を伏せた。
「私の息子ね、電気屋なの。でも面倒になって『家もそうだから、まだ大丈夫よ』って言っちゃったの」
何処からともなく、夜なのに蝉の声が聞こえてきた。
「翌日、亡くなったって聞いて⋯⋯私、怖くなっちゃって」
「だから『寿命だった』って言ったんですか」
「ごめんなさい。自分に言い聞かせたかったの」
長い沈黙の時が流れた。愁子の首筋を汗が伝った。
「そうですか」
それだけ言って背中を向けた。
「でも、あなた⋯⋯あの夜、何処へ出掛けたの。私、誰にもこの事言ってないから」
老婆の声が背中を刺した。それだけ聞けば充分だった。愁子は振り向かずに部屋に戻って、エアコンのスイッチを入れた。
あの人に息子なんていない。五年前、自治会名簿の家族欄は空白だった。

ベランダで煙草を吸い終えると隣室のエアコンの室外機が、今夜も回っていないことに気付いた。つんと異臭が鼻を突く。
愁子は顔に歪んだ笑みを浮かべたまま、室内に戻った。付けたエアコンの風が頬を撫でる。
ーーあなたが悪いのよ。深夜にいつも起きていたから。
愁子は五年ぶりに、ぐっすりと眠れそうだった。



(了)


小牧幸助さん、よろしくお願いします。

みくまゆたんさん、コッシーさん、またおとしてしまいました(笑)
愁子と老婆が、本当におとしたものは、何だったのでしょうね。
よろしくお願いします。



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