アドラー心理学は苦悩の末にたどり着いた一つの到達点なのかも知れない
少し前に、僕はアドラー心理学について感じたことを書きました。
今も、その考え方が持つ力や、日常での使いやすさは、素直にいいものだと感じています。
だから今回は、前に書いたことを否定したいわけではありません。
あの考え方を、もう一度、少しだけ手のひらで転がしてみた。
そんな感覚に近い話です。
読み返したり、普段の生活を続けたりする中で、
ふと、こんな疑問が浮かびました。
アドラー本人や、その思想を語る人たちは、本当に承認欲求から自由だったのだろうか。
この問いは、アドラー心理学を疑うためのものではなく、より人間的に理解したい、という気持ちから生まれたものです。
アドラー心理学を知ったとき、僕はどこか救われた気がしました。
他者の評価から自由でいい。
嫌われる勇気を持てばいい。
その言葉は、長い間「ちゃんとしなければ」「期待に応えなければ」と考えてきた僕の心を、確かに軽くしてくれました。
ただ、読み進めるうちに、その分かりやすさゆえの違和感も、少しずつ残るようになりました。
もし本当に承認欲求から完全に自由でいられるのなら、思想は自分の中だけで完結させればいい。
わざわざ本を書き、言葉を尽くして他人に伝える必要はないのではないか。
そんな考えが、頭をよぎったのです。
僕自身、ずっと「納得したい」と思って生きてきた
この違和感は、僕自身の生き方と重なっています。
僕は何かを選ぶたびに、
「これで良かったのか」
「本当は別の道があったのではないか」
と考えてしまいます。
仕事に対して、強い情熱があるわけではありません。
今の仕事を淡々と続け、家族が安心して暮らせることを優先する。
毎年、家族で旅行に行けることを嬉しいと感じる。
それが僕なりの選択です。
家では、奥様と子どもがそれぞれのペースで日常を送っています。
その様子を見ていると、
「この生活を守ることも、一つの生き方なのだ」と思う自分がいます。
それでも心のどこかで、この生き方で、本当に納得していいのかと、ずっと問い続けてきました。
アドラーもまた、悩み続けた人だったのではないか
だから思うのです。僕なんぞと比べるのはおこがましいですがアドラーもきっと、人生について悩み、苦悩し、考え続けていた人だったのではないかと。
アドラー心理学は、迷いのない人が作った理論ではなく、迷い続けた末に、ようやく辿り着いた一つの到達点だったのかもしれません。
そう考えると、アドラー本人や、その思想を語る人たちに、承認欲求があったとしても、不思議ではありません。
大切なのは、承認欲求を消すことではなく、それに人生を支配させないこと。
アドラー心理学の魅力は、この人間臭い現実感にある気がします。
思想は、誰かの人生に触れるためにある
アドラー心理学の根底には、人は社会的存在である、という考えがあります。
人は一人では完結できない。
悩みも、迷いも、他者との関係の中で生まれ、意味を持つ。
だからこそアドラーは、自分の中で答えを完結させるのではなく、言葉として外に差し出したのではないでしょうか。
それは、評価されるためというよりも、誰かの人生に、そっと触れるためだったのかもしれません。
静かな結論
アドラー心理学を疑ったことで、僕はこの思想を、以前よりも信頼できるようになりました。
人は欲求から完全に自由にはなれない。
それでも、自分の生き方を選ぶことはできる。
朝、家族が起きてきて、いつもと同じ会話を交わし、また一日が始まる。
その繰り返しの中で、
「これでいいのだ」と言い聞かせるのではなく、
「これがいいのだ」と、静かに思える日が増えていけばいい。
アドラー心理学は、人生を劇的に変える答えではなく、迷いながら生きる日常を、そっと支えてくれる思想なのだと思います。
いいなと思ったら応援しよう!
ありがとうございます。
あなたの幸せを願っています。
私の祈りは強烈なので覚悟して下さい(笑)