【妖怪心理学】塗り壁…必死の生き残るための行動に忍び寄る罠
ここに書き込んでいくことは、必ずしも民俗学や妖怪学の専門的な知見に基づいたものではありません。個人的な専門領域である精神科心理臨床の知見を活用しながら、個人の趣味の範囲で感じたこと・考えたことを思うままに語っていくものとして読んでいただければと思います。ランダムに書き込むので、書いた記事はマガジンに整理していきます。
■塗り壁という妖怪
比較的よく知られている妖怪の中に「塗り壁」という妖怪がいます。行く手を遮り頑として動かない、トップ画像のような妖怪です。折り紙で折ってみました。
山口真(2017)「クリエイティブ折り紙 妖怪と干支と可愛い動物たち」ソシム
とても有名な妖怪ではあるが…
この妖怪は、とても有名な妖怪ですが、実は、水木しげる氏の「ゲゲゲの鬼太郎」の中で活躍したことで、よく知られるようになったものです。でも、水木しげる氏がアニメの中で描いた「塗壁」は、本来の塗り壁とは性質が異なりますし、実際の塗り壁は、この画像のような姿もしていません。
また、九州の北部など限定された地域で言い伝えられている妖怪であると解説している資料もありますが、徳島県美馬郡脇町(現:美馬市)の「衝立狸」、徳島県美馬郡三島村舞中島(現:美馬市)の「蚊帳吊り狸」、高知県幡多郡の「野襖」など、呼び方は異なりますが、酷似したものが他の地方でも言い伝えられています。その意味では、色濃い地域性を持った特殊なものではなさそうです。
塗り壁は何をする妖怪なのか
塗り壁は、何をする妖怪であるのかといえば、それは、柳田國男(1956)が以下のように解説しています。
筑前遠賀郡の海岸でいう。夜路をあるいていると急に行く先が壁になり、どこへも行けぬことがある。それを塗り壁といって怖れられている。棒をもって下を払うと消えるが、上の方を敲いてもどうもならぬという。
小松和彦監修(2025)「日本怪異妖怪大事典 普及版」(東京堂出版)では、もう少しいくつかの話が紹介されていますが、基本的には「行く先が壁になって進めない」という内容です。また、「壁」として見えているような記述もありますが、夜道で現れるものであり、基本的には見えていないものと考えるのが妥当のようです。
先に進むには、力まかせにそのまま進もうとしても駄目で、下の方を払ったり、前に進もうとせずにのんびりしていると消えるという記述があります。
水木しげる氏の体験
水木しげる氏も本来の「塗り壁」を体験しているということです。その様子は、太平洋戦争で従軍し、南方の前線での体験として著書にも書かれています。そこに書かれている文章は、さらりとした記述なのですが、実際は夜間に襲撃され死者も出た状況で、一人で逃げながらジャングルを彷徨った中での出来事のようで、必死のサバイバルのモードの中でのことだったと思われます。
ある場所で前に進めなくなり、そこに壁のようなものを感じたようです。かなりの時間がむしゃらに前に進もうとしたにもかかわらず、進めない状態だったようで、疲れ切って休まざるを得ない状態になり、一服してから動き出したら、進むことができたということです。もちろん、そこは戦地であり日本ではないのですが、そこにも塗り壁がいたということになります。
■塗り壁が意味するもの
外ではなく内にあるもの
塗り壁が、頻繁に出てくるものではないながらも地域を選ばず出てくること、夜一人で心細い状況の中で出てくること、姿が見えないことなどを考えると、形あるものや音のように、実際に外に存在しているものではなく、捉えることが難しい見えないものが関与していると考えるのが妥当なんだろうと思います。
そうなると、人間の心の中にあるのか?と思ったりもしますが、心の動きとしても認識されていない感じがします。自分では意識できない脳の動きとして出現する妖怪のように思います。
極度のサバイバル・モードが生み出すもの
心細い状況なのに孤立していて、誰かに頼ることもできない状況にあるとき、動物的なサバイバルのモードが動き始めます。「動物的」といっても、爬虫類レベルのサバイバルかもしれません。そこで動くのは、過剰なまでの活動モード、そして、それがサバイバルに効果がない場合の極端な休眠モードです。
サバイバルに極度に必死の状態では、戦うのも逃げるのも全力です。目の前の必要最低限の情報だけしか受け付けなくなり、視野が狭まります。自分自身の状態を感じ取る余裕すら無くなっていきます。疲れも感じず、怪我をしていても気づかず、膨大なエネルギーを使いながら必死の行動が続きます。
でも、この必死さが通用しなかったり、疲れ切ってしまうなら、無防備なまでの休眠モードに入ってしまいます。爬虫類なら死んだように動かなくなってしまったりすることもよく起こるのではないかと思います。哺乳類でもやはりそのようなことはあると思います。サバイバルのための最後の手段…「擬死」ですね。こうなると、意識があって動こうとしても動けない状態ができあがるはずで、これが塗り壁の正体ではないかと思われます。
■塗り壁退散のおまじない
塗り壁はなぜ消えるのか?
過剰な休眠モードが動き出して動けなくなった状態が、「塗り壁出現」だとすると、その塗り壁がなぜ消えるのかが問題ですが、そのときの行動に秘密がありそうです。
塗り壁やその類の妖怪を退散させるために有効な人間の行動として語られているのは、「棒をもって下を払う」「丹田(臍の下のあたり)に力を入れる」「一服する(ひとやすみする)」などです。
「棒をもって下を払う」のは、猪突猛進のサバイバルのモードではなく、視野を広げ、コントロールされたサバイバルのモードになっていることを意味します。「丹田に力を入れる」のは、休眠モードを適度に動かすのに効果的です。「一服する」は、過剰に突っ走っている活動モードを緩和する行動です。
どれもが、過剰に突っ走ったままエネルギーを失って休眠モードに陥るのを回避するための行動のように思います。
昔からの知恵にも注目
こういった「塗り壁退散」のための具体的な行動は、最近の精神生理学の理論から見ても、理にかなったもののように思います。
極端なサバイバルのための活動モードや極端な休眠モードを適度なレベルにコントロールしつつ、他者とつながっていく心の働きを生み出す部分をしっかりと安定させて動かし維持するということですね。
これは個人的な考えですが、日本人は、この部分を「道」の中で、しっかりと鍛えてきたように思います。柔道、剣道、空手道、合気道、棋道、茶道、花道、書道…どれもが、塗り壁を退散させる脳の働きを極限まで引き出すもののように思います。
日常の生活でも、ゆっくりと珈琲の豆を挽いてから、温度を調整したお湯を静かに注いでいく抽出のプロセスも、膨らむ粉の様子を見たり、むらしが進むときの音を聴いたり、粉の面に置いていくように静かにお湯を注いだり…そして、それを飲むときも、少しずつ冷ましながら味わいの変化を楽しんだり…。
落ち着かないまま疲れたときに「お茶でも飲むか」と休憩の時間を作ったり、うまくいかないことがあってイライラしてきたときに、別のことをやってリセットしてみたりするのもそうだと思います。
「急がば回れ」「押しても駄目なら引いてみよ」「慌てる乞食は貰いが少ない」などの諺も、過剰なサバイバルのモードをリセットするための視点を言っているように思います。
先人の知恵として蓄積されているものを掘り起こし、実践しやすいノウハウとして集めてみると役立つと思うし、面白いのではないかと思います。
【参照資料】
柳田國男小松和彦校注 新訂「妖怪談義」(角川ソフィア文庫)KADOKAWA(底本1956年「妖怪談義」修道社)
小松和彦監修(2025)「日本怪異妖怪大事典 普及版」東京堂出版
フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)「塗壁」(2026.6.15閲覧)
フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)「衝立狸」(2026.6.28閲覧)
フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)「蚊帳吊り狸」(2026.6.28閲覧)
水木しげる、村上健司(2006)「水木しげるの日本妖怪紀行」(新潮文庫)新潮社
S.W.ポージェスほか編著(2023)「ポリヴェーガル理論臨床応用大全:ポリヴェーガル・インフォームドセラピーのはじまり」春秋社
山口真(2017)「クリエイティブ折り紙 妖怪と干支と可愛い動物たち」ソシム
