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【緑の物語り】第一章:森が呼ぶ朝

【緑の物語り】
第一章:森が呼ぶ朝
――呼ばれる


森には、決まった音がある。

朝、小鳥が鳴く。
昼、風が葉を通り抜ける。
夜、虫が低く、長く、鳴き続ける。

それらが途切れずに重なっているとき、
森は、正常だった。

私は、それを確かめるように、
毎朝、同じ場所に立つ。

湖へ続く細い道の途中。
苔が厚く、根が地面の上をうねる場所。

足元の苔は、踏むとわずかに沈み、
音を残さない。

湿った土の匂いが、
ゆっくりと立ち上ってくる。

土、と呼ぶには、少し薄い。
その下には、黒く固いものが眠っている。

昔、火だったもの。
今は、苔と根と落ち葉に包まれて、
静かに森を支えているもの。

私は、その上に立っていた。

空気は冷たく、澄んでいる。
吸い込むと、胸の奥で止まり、
しばらくしてから、静かに抜けていく。

遠くで、小川が鳴っていた。

ちいさく、細く、
急がない音。

湖は、まだ見えない。
でも、風が止まる朝には、
あの深い青が、森の奥で目を覚ましている気がする。

いつもと同じ朝だった。

少なくとも、そう見えた。

肩に、重さを感じた。

振り向くと、
小さな鳥が止まっていた。

羽には朝露が残っている。
濡れた羽毛が、私の服に触れる。

鳥は、しばらく黙っていた。

森の音を、確かめるように。

それから、
短く言った。

「北の森が……
大変らしい」

私は、息を吸ったまま、止めた。

「……え?」

鳥は、すぐには答えなかった。

ただ一度、
羽を震わせた。

その瞬間、
風が止まった。

葉の擦れる音が消える。
遠くの小川の音も、少しだけ遠くなる。

森は、音を失ったのではなかった。

音を、
しまったようだった。

鳥は、低い声で続ける。

「仲間が、住処を失ってる」

一拍。

「森が、砂になっている」

言葉の合間に、
時間が落ちていく。

私は、鳥を見たまま、動けなかった。

「……砂に」

口に出したあと、
その言葉が、この森に馴染まないことに気づいた。

ここには、水がある。

深い青の湖があり、
小川があり、
苔があり、
木々の根が、薄い土の上で互いに支え合っている。

倒れた木の上にも、
小さな命は宿る。

火の記憶の上にも、
森は戻ってきた。

それなのに。

森が、砂になる。

その言葉だけが、
胸の奥で、形を持たずに沈んでいく。

光が変わる。

雲が動いたわけではない。

木々の影が、
わずかに、位置を変えただけだった。

私は、手を握っていた。

いつからそうしていたのかは、分からない。

怖さは、まだなかった。
判断も、まだなかった。

ただ、
胸の奥に、引かれる感覚があった。

痛みではない。
声でもない。

方向だけが、あった。

北。

見たことのない土地。
知らない空。
知らない匂い。

それなのに、
その場所で起きていることが、
もう自分と無関係ではないと分かってしまった。

「北の森は、どこ」

鳥は、すぐには答えなかった。

森の沈黙が、
その小さな身体のまわりに集まる。

やがて、鳥は言った。

「遠い」

一拍。

「海を越えて、
風が、疲れる場所だ」

また、風が止まる。

今度は、
時間まで止まったように感じた。

私は、胸の前で手を重ねた。

無意識だった。

この森から、出たことがない。

湖の青も、
小川の音も、
苔の匂いも、
木々の沈黙も。

それが、私の世界だった。

私の足元には、いつも森があった。

でも、北の森には、
もう足元がないのかもしれない。

根が支える場所も。
小川が流れる場所も。
鳥が戻る枝も。

なくなっているのかもしれない。

「……私は」

声が、少し遅れて出た。

「この森から、出たことがない」

鳥は、否定しなかった。

沈黙が落ちる。

森の中では、
沈黙は異常ではない。

それは、
次に起こることを、待つ状態だった。

苔は、足元で静かに沈んでいる。
小川は、遠くで細く流れている。
木々は、何も言わずに立っている。

誰も、急がせない。

でも、
誰も、止めない。

だから、
言葉は、選ばれずに出た。

「……行く」

声は小さかった。

けれど、
森には届いた気がした。

そのとき、
胸の奥に、変化があった。

熱ではない。
光でもない。

ただ、
戻らないと分かる、変化。

鳥は、何かを察したように、
そっと羽を広げた。

枝を離れ、
音を立てずに、空へ上がる。

羽音は、すぐに森へ吸われた。

森は、止めなかった。

許したわけでもなかった。

ただ、
何も言わなかった。

私は、しばらくその場に立っていた。

足元の苔。
黒い溶岩の記憶。
湿った土の匂い。
遠くの小川。
まだ目覚めきらない湖の気配。

全部が、
いつもより少しだけ、深く感じられた。

私は、知っていた。

この朝が、
最後の反復であることを。

そして、
私の時間が、
森の外へ向かって、
静かに動き始めたことを。

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