休みのない6月と無限の休みへの妄想
6月は祝日がない月だ。5月に大型連休があり、天候も梅雨入りするから、じめじめした休みのない6月を憂鬱に感じる人は多いだろう。
こういう時に「仕事辞めたいなぁ」と思ってしまい、無限の休みを妄想してしまう。FIREした人や無職になった人のブログをついつい読んでしまい、休みのない日々から現実逃避を続けるような体験がある人も多いのではないか。
僕もご多分に漏れることなく、無限の休みを夢想するタイプだ。むしろ大抵の会社員はそうなのではないかと思う。
ただ、僕は過去に病気によって無職になった期間を経験しているので、こういった妄想が妄想のまま広がり続けることはなく、どこかで現実味を帯びて来るようになり、現実逃避は終わりを迎えることが多い。
というのも、無職で過ごしていた日々は、いわゆる「自己肯定感」というやつが極めて低かったことを良く覚えているからだ。自分は社会に価値を提供せず、市場経済にも参加せず、過ぎて行く日々を口を空けたまま眺めているだけなのだ。当時の僕には「闘病」という、やることがあったからまだよかったかもしれないが、それでも自己肯定感は下がっていく一方だった。
そして「仕事に行かなくて良い」という高揚感も、毎日が休みである場合は感じることができないこともわかった。「週末」や「土日」に高揚感を覚えるのは、平日の労働による抑圧があるからこそ得られるものだった。「無限の休み」に身を置いていると、そもそも「休み」という概念そのものが消え去ってしまうのだ。
作家の安部公房も「砂の女」の冒頭でこんなことを書いている。
罰がなければ、逃げるたのしみもない
「罰」と「逃げる」を「仕事」と「休む」に置き換えて考えてみると「仕事がなければ休む楽しみもない」と解釈することができ、これはひとつの真理の様にも思えてくる。
しかし、ここ数年でFIREという言葉が生まれ、若くして早期退職する人が少しずつ増えてきた。結局のところ、退屈に耐えられなかったり資産の取り崩しに不安を覚えたりして仕事復帰する人も多いらしいが、仕事の義務から解放された生活を存分に楽しんでいる人の話も多く見られる。
僕が無限の休みに耐えられなかったのは、若さが原因であることは間違いない。社会に価値を提供できた経験は乏しく、社会の知識も金の知識もなかった。何よりも親元を離れて自立した生活がしたかった。
しかし、大人になって無限の休みで生まれた時間を有意義に使う教養さえ手にしていれば、自己肯定感を下げることなく生活することが可能なのかもしれない。
人類は社会を発展させ続け、テクノロジーの活用と自由市場によって、封建的で閉鎖的な生き方しか知らなかった人々も新しい生き方を見つけてきている。
平日と週末の循環がもたらす高揚感から、ここまで長らく働き続けることができてきているけれど、これからもずっとこのままで良いのだろうか。高齢化社会による社会保険料の増加や年金制度の崩壊と個人の資本力を照らし合わせて予測してみると、これから会社員という生き方が長続きしないことが容易に想像できてしまう。
ダラダラと平日と週末を繰り返すだけの生き方をして「仕事辞めたい」と考えネットサーフィンばかりしてしまうようならば、その生活を変えるべく早く行動した方がいいだろう。
こういった時にFIREするか我慢し続けて働くか、といった二者択一で物事を考えがちだが、現実には複数の選択肢がある。その行動は副業かもしれないし、引っ越しかもしれない。雇用形態の変更が良いかもしれない。
だから自分にあった生き方を少しずつ模索していくしかない。そしてもちろん、ある程度の金を持っていることが前提条件になる。
