【短編小説】ヒトリ珈琲⑤
■ネルドリップコーヒー~野中彩子【42】
「はあーっ、もうやってらんないったら!」
ヒトリ珈琲では、木曜日の夜の常連客がテーブルに突っ伏して拳をつくっている。
どん、とやるたびにコーヒーカップがカタカタと揺れる。盛大にため息ばかりつく女性がひとり。
やれやれ。
全く共感できない愚痴に付き合うのが、最近少しだけ楽しくなってきた店主である。
ヒトリ珈琲とは、姉の雑貨屋を夜だけ間借りして開店する、席がひとつだけの喫茶店だ。開店して一年弱だが、売上げは波もある。
経営は、なんとか平均すると成り立っている、という程度。
彩子は、木曜の夜は毎週のようにやってくる客だ。近くの学習塾に息子を送り届け、ここでひと通りおしゃべりして帰る。
ワーママ、と世間では呼ぶのだろう。シンプルなパンツスーツでタブレットPCを抱えている様は、きらきらとした雰囲気がある。声にも張りがあり、周りからの信頼を感じさせる。
正義感があって、仕事が好きな人なんだろうな、と店主は思う。
愚痴は言うが、表情が豊かで根底には明るさがあるので、聞いていて嫌な気持ちにはならないのが不思議だ。
いつもは同僚や上司の話題が大半だが、今夜は少し様子が違う。「陽南第二小学校」と書かれた茶封筒を恨めしそうに眺め、中身を入れたり出したりしながら眉間に皺を寄せているのだ。
「マスター、独身だからわかんないでしょ!PTAなんて今どき要らないのよ。生産性低すぎるでしょ。しかもベルマーク集めなんて。なんでそんな非効率なことやらなきゃいけないのよ、今は令和よ令和!」
そうですねえ、とカップを並べながら店主は頷く。おっしゃる通り、独身の店主にはまったくわからないし、正直どう反応していいかもわからない。
「僕の子供の頃にも母がやってたような気がします。僕らが寝たあとに、なんか戸棚かからおもむろに袋を出してきて。えーと、夜にテレビ見ながらとか」
母親って大変だなと思いました、と素直に感想を述べると、彩子はかっと目を見開いた。
「出た、『大変だな』!!結局他人事なのよね。うちのダンナとおんなじ。あんたが定期購入してるプロテインにも付いてるから、ベルマーク取っといてよ、って言ったら『えー、めんどくさいよ、おまえも大変だな、そんなタダ働き』だって。私じゃなくて、あんたがやったっていいのよ、って私叫んじゃったわ」
完全にやぶへびだった。
「しかもよ、ベルマーク係は集めるだけじゃないの。月に一回、体育館に役員全員で集まって、模造紙に張り合わせないといけないのよ!なんの意味があるの?事務員雇いなさいよ。働く母の平日の夜の2時間は貴重なのよ!しかもノーギャラよノーギャラ!!」
確かに、現代の親たちは仕事も家事も忙しい。通勤にも時間がかかる。ヘトヘトになって帰宅して、家族の世話をやっと終わらせてからの2時間は、月一回とはいえ負担が大きいだろう。
「もっとやりがいのあることならまだしも、今時こんな係、親をバカにしてるわ。学校備品を買う費用を賄うなら、全世帯から月千円ずつでも集めたほうがよっぽど効率いいじゃない。ジミ~におばさん同士で集まって無駄話しながら作業とか、なにが楽しいんだか。アタマ悪すぎる!」
力説はどんどんヒートアップしている。
まるで自分の演説に酔いしれるヒトラーのような熱を帯びてきて、危うい。
今日は気分転換させたほうがよさそうだ。
「彩子さん、もうすこし時間あります?」
握り拳の横で、申し訳なさそうに佇んでいるコーヒーカップが、空になりつつある。
そこを見計らって、店主は声をかける。
「あるわよ。今日は、塾のお迎えはダンナだから」
「よかった」
店主は丸眼鏡をかけなおす。
「僕、今ネルドリップを研究していて。彩子さんよかったら味見してくだい」
「ネルドリップ?」
彩子が聞き返した。
「そう、ネルフィルターっていう、布で濾すやり方です。僕、店で出すのはいつもペーパードリップなんですけどね。ここは商店街の外れにあって、基本買物帰りのお客様なんです。手早く出してあげたくて。それに、豆も最近のはあんまり手間かけなくても十分美味しいから」
「そうよね、それは私もそう思う」
「でもね、そういう人ばかりじゃないんです」
「そういう、って?」
店主は目をくるん、と大きくした。
「ここに座って、コーヒーが出てくるまでの時間を楽しみにしてくれる人もいる。少ないですけどね。でも確実にいるんです」
「ふうん、暇なのね」
彩子は不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「もちろん、暇なのかもしれない。でも、さっきまでめちゃくちゃ忙しくて、ここではコーヒーを待つ時間をわざわざ作ってくれているのかもしれない」
店主は静かに手元のカップを見つめている。
「そういうお客さまに、ネルドリップで出してみたいと思ってるんです。正直手間は2倍かかります。器具の取るスペースや、下準備も時間がかかるし。味は……まあ、僕の修行不足が原因なんですが…単純に2倍美味しいとは、まだ言いきれません」
彩子はまた眉間に皺を寄せる。
「それはまあ、マスターのこだわりなんだろうから私の知ったことじゃないけど、経営の視点から言うとやっぱり効率は悪いと思うわ。ただでさえ席がひとつしかないんだもの。回らないわよ。皆が皆、舌が肥えてるわけでもないし、それなりのものをそれなりの価格で飲ませてもらえればいい、と思っちゃう」
彩子が顔をあげたときには、すでに店主は店の冷蔵庫から丁寧にネルを取り出していた。
「ネルは保管に気を使うんですよ。起毛面を表にするか裏にするかで風味も違う。豆も研究しているんですが…僕の好きな味には、まだまだです」
「へえ」
彩子は放たれる芳しい香りに目を閉じる。
店主はドリップポットを持つ手に意識を集中しているのか、無言のままだ。
彩子がふと店主の表情を盗み見ると、丸眼鏡の奥の目がきらきらと光り、口元には緊張気味の微笑みが広がっている。
この人、ほんとこの仕事が好きなのね。
息をひそめて、一回目。
愛おしそうに、二回目。
何度も何度も、細くゆっくりとお湯を注ぎながら、店主はふと口を開いた。
「彩子さんのお陰で、思い出しました」
「え、何を?」
香りに意識を引っ張られていた彩子が、あわてて反応する。
「母のことです。さっきの、ベルマークの。……当時僕の父親は事業が大変で、あまり家に帰りませんでした。母は慣れないパートに出て、僕と姉の世話をするのも大変だったと思います。そういえば、息抜きしてる母も見たことなかったな。いつも張りつめていて、苛々してたしよく怒られてました。でも」
店主の視線が、ふと遠くなる。
「僕が言った、…ああ、さっきは彩子さんを怒らせてしまいましたが…ベルマークをハサミで切っていた時、母は珍しく、深夜番組見ながら笑ってました」
「そう…だったの」
彩子はなんだかばつが悪くなる。
「あの当時、母くらいの年齢から仕事を始めるのは今よりも大変だったかもしれない。僕は子供だったから、何も知らなかったけど、孤独だったのかもしれません」
「まあ、昔はね」
彩子は頷く。
昭和の時代はそうだ。
男は働き、女は家庭を守る。
それだけ、男が稼いできてたからよ。今は女も旦那と変わらないくらい稼ぐわけだし、そんな古き良き時代の話をされても困るわ。
「なんとなく、ふっと一息つける時間だったんでしょう。仕事と家事から解放されて、ほっとしていたのかな」
「それはみんなあるわよね。私はここでコーヒーを飲むことがすごく大切なの。この時間があるから、明日も頑張れる」
彩子はそう言って、あははと明るい笑う。
こういうところが、この人の憎めないところだ。
「ありがとうございます。…それが、ひとつの意味かもしれません」
店主は丁寧に淹れたコーヒーを、彩子の前に置いた。
かちゃん、と音が小気味良く店内に響く。
「ありがとう…なんの意味?」
彩子は訳がわからない、というように尋ねる。
「彩子さんにはこの店がある。収入もご主人と同じくらいあるし、気兼ねなく自由に外出もできて、この時間に喫茶店に来ることもできる。でも、もしかしたら」
店主は静かに続ける。
「夜にはなかなか、家から出られない。そんな環境の母親もいるかもしれない。彩子さんがここで話していく愚痴を、PTAの集会でしか話せない人もいるのかもしれない。そういう人の、救済の場になっている可能性もありますよね」
「まあ…ね…」
彩子は息子と同じクラスの母親たちの顔を思い出す。
確かに作業している間、生き生きしているなと感じることもあった。話題は姑や夫の愚痴だったけれど。確かに、他に話せる場所がない人もいるかもしれない。
くだらない。
私はあなたたちとは違う、私は稼いでいるの。
そんな風にただ、私は思いたかっただけかもしれない。
「だからといって、彩子さんが我慢しなければいけない、というわけではありません。みんなそれぞれ家庭の色がある。意味がないと言いたくなる気持ち、わかります」
店主はにっこりと笑った。
「ただ、意味のあるなしは人によって違う、ということじゃないかな。PTAも何かしら、意味があるから今まで続いているんでしょうし。彩子さんの価値観と同じように、他の誰かの気持ちも大事にできたらいいな、と思います」
独身の僕が言うのも何ですけど、と店主は頭をかいた。
丁寧に時間をかけて出された、ネルドリップコーヒーの味は、結局彩子にはよくわからなかった。
バカ舌だからな、彩子には違いがよくわからないんだよ。
旦那の冗談を、ふと思い出す。
ひどいわね、でも、確かにそうかも。
私は手間ひまかけてなくても、早く出来てそれなりのものならそれでいい。でも、そうでない人もいる。
みんな同じじゃなくていいものね。
私がムダだと感じるものも、他の誰かには意味がある。
でも、私の意見だって、ちゃんと言っていい。
理解はしても、我慢はしない。
彩子はまっすぐ店主を見て言った。
「確かにそうね。でも…マスター、せっかく時間かけて淹れてくれたけど…私、いつもの方が好き。ごめんね」
彩子の容赦ない感想に、
「精進します」
と店主は頭を下げた。
いいなと思ったら応援しよう!
ピリカグランプリの賞金に充てさせていただきます。
お気持ち、ありがとうございます!