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夢十一夜

こんな夢を見た。

山奥の開けた場所に立つと、泉が湧いていた。泉を取り囲むように、木々が空へと伸びている。空の色は曖昧で、鈍く光った。夜が、雲で覆われているのである。泉はまるで、山奥に落ちた隕石が開けた穴から湧いているようであった。美しい円が、不思議と恐ろしい。

泉は静かで、物音ひとつしなかった。森のざわめきも、風の歌も、星の鳴き声も、石の笑い声も、何もない。

泉の淵に、木でできた小舟があった。私は小舟に近づく。泉に顔を映すと、私の顔が見えた。知らない顔に見えたが、波紋が落ち着くと、いつもの見なれた顔が映った。自分が自分であることに、胸を撫で下ろす。ことりと音がして、音のする方を向いた。小舟の影から、ひょっこりとこちらを覗く目があった。どきりと胸が跳ねて、心臓が大きくうねる。

「誰だ」
厳しい声を、腹の底から絞り出した。

「誰だ」
私の声を真似るように、小舟の脇にいた小さな人が言った。誰だと聞かれ、私は一体誰なのだろうかと逡巡する。よくわからない。私は私だから、私以外ではない。それだけだ。

小さな人は、白くバサバサと乾いた髪をぼさぼさと揺らしながら、私に近づいた。小さな人は私の三分の二ほどの背丈で、私は小さな人を見下ろすことになった。小さな人は、皺の寄った瞳で上目遣いに私をじっと見た後、無言のまま小舟に乗った。泉がとぷんと揺れて、波紋が私に近づいてくる。私はまた、知らない顔になった。

小さな人が小舟の中からじいっと私を見るので、仕方なしに小舟に乗る。小さな泉で、わざわざ小舟に乗って何をするというのだろうか。意味をなさない行為に、心がざわついた。小舟が揺れ、体が揺れるのを感じる。小さな人は小舟を泉の真ん中まで動かした。ちょうど中心にくると、ぴたりと小舟が止まる。

小舟の周りを取り囲んでいた波紋は、次第に大きくなった。泉の端まで波紋が広がると、波紋は中心へと帰ってくる。広がる波紋と、戻る波紋。二つの波紋が合わさった時、波紋は大きな渦となった。渦は駒のようにぐるぐると回転し、小舟も渦に従い回転する。

このままでは渦に飲まれる。私は息を呑んだ。小さな人に視線を移す。特に動揺する様子もなく、小さな人は船頭で真っ直ぐに立っていた。もう、戻れないのだなということがわかる。諦めるしかないのだなと、私は波打つ水面に一瞥をくれる。ぐにゃりぐにゃりと私の顔が歪んだと思ったら、小舟は泉に飲まれてしまった。

私は唇をぎゅっと結んだ。死を覚悟する。息ができない。こぽこぽと鼻から小さな空気の球が漏れて、水面へと昇っていく。ゆらりと揺れる水面の向こうでは、雲がぽっかりと口を開けていた。黄色い月がこちらを見下ろしている。細い三日月が、私をせせら笑った。

息が口からゴボッと漏れた。大きな空気の球と、小さな空気の球が一塊になって私の顔の周りから遠のいた。体の力を抜き、身を泉に委ねる。小舟から離れ、泉の底へ沈んでいく。このまま、どこまでも堕ちていくのだろうか。天国が泉の底にあるという話は聞いたことがない。逝く先は地獄だろうか。終わった。さらば月よ。もうお目にかかることはないだろう。

とすんと背中に何かが当たる。ここが地獄だろうかと体を起こした。地獄と呼ぶには殺風景な、泉の底に安堵する。ゴミ置き場だろうか。あたりには、ガラクタが埋まっている。写真の貼られたアルバムに、古びたレコード。壊れたおもちゃに、ちびた洋服。私はアルバムを手に取った。そこに写っていたのは、見たことのある顔である。私だとすぐにわかった。

ここにあるのは私のものだ。ここは私の記憶の中かもしれない。ゆらゆらと揺れる水底で、記憶はただ静かに沈んでいるのだ。思い出されることもなく、そこにある。音のない世界は心地よい。揺蕩いながら水面を見上げると、一筋の光が差した。戻る方法はあるのだろうか。水の波が、私の背中を押した。

「こんにちは」
声をかけられて、私は振り返る。気づけば小さな人はいない。今度は大きな人が現れた。ぴっちりと髪を七と三に分けた痩せ細った紳士は、私にお辞儀した。
「こんにちは」
私も会釈する。

「あなたの思い出を売ってください。私には思い出がなくて、寂しいのです」
紳士は、悲しげに眉根を寄せた。水の中でも声が聞こえることに驚く。
「私には思い出でも、あなたにはガラクタでしょう」
「ないよりは、マシですよ」
そう言われて、少しムッと口を尖らせた。人の思い出をないよりマシとは、失礼千万。
「ここでお金をもらっても、使い道がありません」
私が怪訝な顔をすると、紳士はからからと楽しげに笑う。
「そうですね。では、こうしましょう」
紳士はポケットから鍵を取り出した。月明かりを浴びて、鍵は眩く光る。私は首を傾げた。
「まずは、鍵を。次に道を。その次は扉を。そして、階段を。あなたが私に思い出を売ってくだされば、帰る方法を教えましょう」
私はそれならと、思い出を売ることにした。

「どれでもお好きなものを」
私が両手を広げると、紳士は「では」とアルバムを手に取る。
「代金として、こちらを」と鍵を渡され、鏡のように輝く鍵を受け取った。
「次はどれにしますか?」
紳士はぐるりとあたりを見回して、埋もれていた日記を掘り出した。
満足げに微笑むと、「どうぞ」と私に地図を手渡す。

「これではまだ帰れません。まだ欲しいものはありますか?」
紳士は「大丈夫ですか?」と私に尋ねる。
「何がですか?」と聞き返すと、紳士は「あなたは誰ですか?」と聞いた。

私は一体誰なのだろうかと逡巡する。よくわからない。私は私だから、私以外ではない。私は鏡のように光った鍵で顔を覗き込んだ。

「誰だ」
厳しい声を、腹の底から絞り出した。





本作は、夏目漱石の「夢十夜」に影響を受けて、書いた作品です。




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