冷めない唐揚げ、笑う月。
「うわぁ」
自分の声で目が覚める。まぶたの裏に、夢の残像が残っていた。
無数の火の玉に、謎の煙。おどろおどろしい怪しげな雰囲気。その中で、白い毛がフワフワと浮いていた。小さかった白い綿毛は、大きくなりながら、次第に俺に近づいてくる。大きな白い毛の塊が顔の前でくるりと回転すると、ギラリと猫のような目で睨み付けられた。「わっ」と声をあげると、白い毛は牙を向いて飛びかかってくる。
「── 変な夢」
天井を見つめながら、独りごちた。いつの間にか蹴飛ばしていた布団を、足で探す。端の方を探り当てて、右足でぐいと引き寄せた。がばっと頬の辺りまで被ると、足がはみ出る。寒いなぁと、身体をぎゅっと小さく丸めた。
ついこの間まで、布団なんていらないくらいに暑かったのに、慌ただしくしているうちに、季節は一気に進んだらしい。枕元の携帯電話を手で探る。モニターがパッと明るくなった。時刻は午前五時五十分少し前。俺は小さく舌打ちをする。六時に起きればいいところを、十分も早く起きてしまった。損をした気分がする。無意識にアプリをタップした。
「てんびん座のあなた!今日は新しい出会いがあるでしょう!」
SNSで流れてきた占いを一瞥する。新しい出会いか、と画面を閉じた。新しい出会いがあれば、香菜さんじゃない人を好きになれるのだろうか。脈はないのだから、早く諦めたい気持ちもある。当たりっこないと思いつつ、占いに期待したい気持ちも湧いた。
俺はぶるっと体を震わせる。
目が覚めてしまうと、さっきまで全く感じなかった尿意を感じて、慌てて起き上がった。
用を足したついでに顔を洗い、歯を磨く。鏡の中に映る俺は、春の頃より幾分か男らしくなった気がした。小林工務店で働き出して、はや四ヶ月。色々あった夏もいつの間にか終わっていて、穂結町で過ごす毎日が日常になりつつある。
ググッと体を伸ばした。ぼきぼきと音がする。今日は土曜日だが、仕事はある。でも、今日は楽しみなことが待っているので、気合が入った。
火曜日のことだ。
「ねえ、稲田くん」
「ふぁい」
一口で唐揚げを頬張る俺に、香菜さんが話しかけてきた。毎日食べても飽きないくらいにみずたま亭の唐揚げは美味しい。出来立てはジュワッと肉汁が広がって、少し冷めると噛み締める度に旨みがじわぁと口の中に広がる。
「今週の土曜日って何か予定ある?」
「土曜日ですか? 仕事です」
香菜さんはふぅんと宙を見た。
「仕事って、夜まで?」
俺は首を振る。
「三時ぐらいには終わると思いますけど」
にやりと笑う香菜さんの笑顔に、俺の胸が高鳴った。振られたってのに、好きな気持ちって簡単になくならないんだなと、最近つくづく思う。香菜さんと話しながら食べる唐揚げは、二割増に美味い。
「ほら、もうすぐ冬じゃない?」
香菜さんは目を輝かせて、俺を見る。
「そうですねぇ」
俺は味噌汁を啜った。味噌汁も二割増に美味い。
「冬の新メニューを考えてるんだけど、土曜日、稲田くんに味見して欲しいと思って」
眉毛をハの字にして頭を下げる香菜さんに、俺がノーと言えるわけがない。お願いされると二割増に可愛く見えた。それに、わざわざ俺に頼んでくれるところが、嬉しいじゃないか。やっぱり三割増に可愛い。でも、俺の気持ちを弄んでるから、一割減。
「僕で良ければ! お腹空かせときます!」
間髪入れずに返事をした。本当は、"僕"なんて言うキャラクターじゃないけど、香菜さんの前だと、どうしてかいい子ぶってしまう。好かれたいんだろうなぁと自分でも分かる。情けないようで、アホらしくて笑えてきた。
可愛い香菜さんを反芻しながら、好かれたいついでに、アイプチを手に取る。自分の顔を眺めていると、つくづく人相が悪いなとため息が出た。親父そっくりの細い吊り目に萎える。香菜さんの、恋人未満友達以上っぽい達也くんの目はくっきり二重だ。夏祭りに仲良くなって以降、ジムに行ったり飲みに行ったりするけれど、その度に自分のコンプレックスが刺激される。達也くんがいい人なのも、タチが悪い。嫉妬もできず、羨ましいなぁと憧れのようなものを抱きながら、ドラッグストアでテープタイプのアイプチを握りしてめてレジに向かったのは、香菜さんとの惚気話を聞かされた夜だった。
テープをまぶたにぐっと押し付ける。二重になった顔をまじまじと眺めた。「気持ち悪っ」と鏡の自分に吐き捨てて、テープを剥がす。剥がしたものの、まぶたには薄くテープが残っていた。上手くいかないなぁとため息をついて、時間を確認する。気がつけば出勤時間になっていた。俺は慌てて作業着を羽織る。準備もそこそこに、家を出た。
「おい、寿史。仕事終わったら、今日はなんか予定あんのか? 飲みにでも行くか」
出勤してすぐ、親方に声をかけられる。「すみません。今日は、予定があるんです。また今度誘ってください」と頭を下げた。
親方が不思議そうな顔で、俺を見つめている。
「なんか、今日は目が変だぞ」
俺は慌てて目を擦った。
「あ、思い出した。そうか。今日は香菜ちゃんとこか。すっかり忘れてた」
頭をぽりぽりと掻きながら「ほら、現場に行くぞ」と、いつものようにぶっきらぼうな親方の背中を見つめながら、俺は思う。俺は親方に、今夜みずたま亭に行くことを話していただろうか、と。
親方の肩で何かが動いた。小さな人間らしきものが、顔を覗かせてコチラを見ている。一瞬、目があった気がした。背中が冷たい感覚に襲われて、ぞわりと鳥肌が立つ。俺はアイプチに失敗したまぶたを再び擦った。そして親方の背中に目を向ける。さっきまでジロリとこちらを覗いていた目は、もうどこにもなかった。不意にニーチェの言葉が頭をよぎる。
深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ。
思い返せば、穂結町に来てからというもの不思議な出来事に見舞われている。なんとなしに営業に回っている時に見つけたアパートの静かな感じが気に入り、勢いで契約したのは良かったが、狐に取り憑かれたり、狸のおじさんに絡まれたりと色んなことがあった。面白いと言えば聞こえはいいが、変なことが起きすぎている。
おかげで香菜さんと出会えたし、唐揚げは美味いし、転職はできたのはいいのだが。夢見が悪かったことも相まって、何かまた変なことが起きるのではないかと、嫌な予感がした。穂結町という温かくも怪しげな町が、俺を変なことに巻き込もうとしているような。あまりに首を突っ込みすぎたのかもしれない。突如そんな気になった。
そんなことを考えながら仕事をしてみたものの、特に変なことは起きずに安堵する。昼ごはんをカラスに食べられたり、黒猫が俺の軍手を咥えて逃げたり、山本のおばさんが急に来て俺の頭を包帯でぐるぐる巻きにしたのは、変なことのようであり、穂結町ではありふれた日常のような気もする。
「ま、いっか。今日は香菜さんとこで、新メニューの試食だしな」
俺はニヤつく口元を押さえながら、仕事を終えて家路を急いだ。すれ違う人が、俺を避けて歩いている気がする。ニヤつきすぎたのかもしれないと、眉間に皺を寄せて前だけ見て歩く。すれ違う人は俺の顔を見て、パッと目を逸らす。まだアイプチのノリがついているのだろうか。俺は目にゴミが入った風を装って、目を擦った。
シャワーを浴びて、洗いざらしの髪で鏡の前へ立つ。ジム通いのおかげか、いい感じに筋肉がついている。俺は眉間だけでなく、胸筋や上腕二頭筋に力を込めた。もりっと筋肉が浮き上がって、思わずニヤける。おしゃれは苦手だが、脱いだら自信がある。香菜さんにも筋肉を見てもらいたいけど、店で脱ぐわけにはいかない。
いまいち何を着ていけばおしゃれなのかがよくからないまま、三本線の入ったスウェットのズボンを履き、黒いパーカーを着た。結局、いつも通りパジャマみたいだなと思うけど、上下が黒なだけ部屋着感は薄いかもしれない。一番のおしゃれ着である俺の筋肉で町を闊歩すると、間違いなく捕まるので諦めざるを得ない。
みずたま亭の前につき、俺は首を傾げた。店の電気がついていない。試食は今日じゃなかったのだろうか。しんと静かなすりガラスの引き戸には、張り紙が貼ってあった。
── 本日は貸切となっております。
「貸切?」
俺は小さく呟いた。
ガラガラと戸を開ける。その瞬間、パンパンと火薬の弾ける音がした。暗闇にチカチカと火花が散る。煙の匂いが鼻を突く。何だか少し息苦しい。
「火事? 香菜さん? 大丈夫ですか?!」
大声を出すと、くすくすと笑い声が聞こえてきた。暗闇に火の玉がゆらゆらと揺れている。小さな無数の火の玉が、こちらに向かって近づいてくる。
「── き、狐火?」
俺の体に緊張が走る。その時、ポンポンと太鼓のような音がして、どこからかにゃあにゃあと猫の楽しげな声が聞こえてきた。
「── 今度は、狸囃子?」
窓からは月明かりが差し込んでいる。怪しげな夜の匂いが俺の顔にまとわりついた。今朝の嫌な夢は、予知夢だったのか。
俺が慌てていると、部屋の明かりがパッとついた。
「稲田くん!ハッピーバースデー!」
そこには、誕生日ケーキを持っている香菜さんが立っていた。
「寿史、おめでとう!」
「稲田くん、おめでとう!」
親方や達也くん、山本さんや常連さん達もたくさんいる。
「え?えー?え?今日、何日でしたっけ」
「10月18日だよ」
俺は携帯電話で日付を確認する。確かに誕生日だ。忙しくて完全に忘れていた。
「何で知ってるんですか?」
「小林さんがね、履歴書見て教えてくれたの。貸切でパーティーしたいって言ってくれたから、せっかくならサプライズにしようって」
俺は膝から崩れ落ちて、椅子に座る。
「まじか。自分の誕生日、忘れてました。まじでびっくりしました!」
「ごめんね。そんなにびっくりすると思わなかったし。ほら、お祝いしよ」
その後はみんなで乾杯して、唐揚げやおにぎりやいなり寿司、冬の新メニューの牛すじと根菜の甘辛煮や、鍋焼きうどんなんかをたらふく食べた。香菜さんがマフラーをくれて、人間姿の菖蒲さんが手袋をくれた。山本のおばさんが手編みの帽子をプレゼントしながら、「急にサイズが合ってるか不安になっちゃって。頭、ぐるぐる巻きにしてごめんね」と笑った。怪しい町なんて思ってごめんなさいと、心の中で頭を下げる。とはいえ、人間じゃない人も混じってるから怪しいには違いないけれど。
お酒もたらふく飲んで、もこもこになりながらふわふわとした気分で、みずたま亭を後にする。自動販売機でコーラを買って、近所の公園のベンチに腰掛けた。今日はやたらと明るいなと空を見上げると、少し欠けた月が夜を照らしている。
コーラの蓋を捻った。茶色い泡が溢れそうになって俺は慌てて口をつける。口の中にジュワッと少し辛くて甘いスパイスが広がり、一気に喉に流し込んだ。火照った体に冷たいコーラが心地いい。
にゃあと猫の鳴き声が聞こえた。
「菖蒲さん?」
俺はあたりを見回す。どこにも菖蒲さんはいない。俺は二口目のコーラを飲んだ。左の手にふわふわとした温かいものが当たるのを感じ、視線を落とす。毛の長い白い猫が俺に擦り寄ってきた。くすぐったくて、思わずふふっと笑ってしまう。
「どっから来たの?おうちは?」
白猫はにゃあとだけ鳴いて、そのまま俺の膝に座った。
「え〜。 ここに座る? え? もしかして新しい出会いってこれかよ」
俺は思わず吹き出した。空を見上げると猫の目みたいな欠けた月が、こちらを見つめて笑っている。
「うーん、どうするかなぁ。うちってペット可だっけ? 確か、違う気がしたんだけど」
ぼそりと呟くと、白い猫と目が合った。猫はにゃあと猫なで声で鳴いて、膝からぽんと飛び降りた。
「これなら泊めてくれる?」
月明かりに照らされて、白いワンピースを着た女性が話しかけてきた。大きくて鋭い瞳が俺を見つめる。
「え? え? えぇ? 人になった?!」
俺は思わず座ったままズッコケた。
白いワンピースの女性はゆっくりと口角を上げ、猫なで声で、「これならペット不可でも大丈夫だよね」と笑う。月明かりに八重歯が光った。
おしまい
本作品は、「おしゃべりな定食、悟る卵。」のスピンオフ作品となります。
