稲荷山鉄剣と言う「物証」の重要性
僕は小学生高学年から持ち続けていた日本古代史への疑問を2010年代までは持ち続け、Twitterにも投稿していたのをご存知の方もいると思います。
当時はとんでもと言われていた事が、最近では誰でも当然のように言うようになった説もある事は喜ばしい事です。
当時は優れた論考はあってもまだまだベクトルは分散していました。
僕はこのまま妄想を膨らませても、心霊現象のような方向に向かうしかなくなると考え、Twitterでの日本古代史の投稿を止めました。不毛だと感じたからです。最終的に心霊現象に行くのは人の能力の限界なのかも知れませんが、それなら全てそれで終わりです。まだまだ人のやる事はあるのではないかと。
その頃はまだ芝山古墳の埴輪を「ユダヤ人埴輪」と呼ぶ人が多く、「カソリック」と結びつけていた人は居ませんでした。香取神宮の名の由来がそこにある事も。稲荷山古墳出土鉄剣の銘文の「獲加●支鹵」を「ワカタケル」と読む事に誰も疑問を持っていませんでした。また、武寧王墓誌についての解釈も誰も信じて疑う者はいませんでした。
上記は順不同になってしまいましたが、僕が日本古代史への興味を復活させたきっかけは宮崎市定著の『謎の七枝刀』を読んでからです。
実は僕はこの本を全て読んでいません。読んだ所は稲荷山鉄剣の解読の様子に興味があったのでそれについてと七支刀についてだけ少し読みました。妻の実家が所沢で稲荷山古墳には行きましたし、川越に親戚も居たりして、茨木は水上スキーで、栃木は足利が外祖母、群馬太田は外祖父、千葉は西船橋は先輩の実家に何度が訪れ宿泊した事もあり、お父上の見舞いに行った病院の窓から古墳が見えた事を記憶しています。千葉もとにかく古墳が多い。東京は三十五年在住し、神奈川は鎌倉、小田原、湘南と若い頃の遊び場でした。そうした事で関東全域そして長野にも足を伸ばして土地勘はあるほうだと思っています。
そして僕の生まれは北九州であり、四国、岡山と父の転勤で転校を余儀なくされました。中学1年生から三十五年東京在住で、現在四国です。
ですから、近畿圏の情報は多いのですが、弱点ははっきり言って、中京方面です。何の土地勘も情報も有りませんので、そこが最後の課題となりそうです。住む予定はありませんが行ってみるしかありません。四国から宮津・伊根方面、淡路経由で熱田神宮、紀の川経由で伊勢参りはしました。関東のような土地勘を持つには至りませんが岡山から大山方面へは毎年頻繁に写真で通っていますので距離的な感覚は掴んでいます。近い内に愛知・中山道経由で北関東から東京の母の所に行って感覚を少しでも掴めたらと考えています。
そうした関東の土地勘の関係から鉄剣の解読への疑問が生まれたのです。読んでいただくしかないのですが、『謎の七支刀』を読んで「これは正しい解読では無いかもしれない」、その思いを強く持って独自の解読を試みました。その形跡は今のXにも残してあります。
・「ワカタケル」は名ではありません。鉄剣の記銘にこのような一般名詞を刻むでしょうか。
・雄略天皇は実在が証明されていません。その上で「ワカタケル」を雄略だとする説は馬鹿らしくて信じるに値しません。
・「多」と「須」はボロボロの金錯銘鉄剣では明確にどちらと判断できるような状態ではありませんでした。
・そこで僕は羽生、加須、鴻巣に友人が居た関係でこれは行田の近くで利根川との接続点の加須の事ではないかと考えてみた。
・「獲」は「倭」、「加須」は古墳付近の地名で利根川との接続点
・もう一つ強く感じた事の一つとして、「鹵」の字。これは日本ではあまり馴染みの無い字で有り、故に「歯」ではないかとする説もあるほど。ところがこの時代をグローバルに見渡すと、当然のように百済「蓋鹵王」が471年頃生存している。しかも「獲加須支鹵」の「支鹵」。「蓋鹵王」は「支鹵王」とも書き、ともにあちらの発音では「ケロワン」と読むそうです。こうなると辛亥年の「獲加須支鹵」は西暦471年、「倭の加須の蓋鹵王」と読めるのではないかと僕は解読したのです。
・他に『謎の七支刀』には気になる事が書いてありました。調査を受けたのが元興寺書陵部だと言う事です。元興寺は蘇我氏縁の寺でしたが、藤原氏に移転させられ、その後衰退した歴史が有ります。そうした藤原氏と蘇我氏の因縁が絡んでいるとしたら杜撰な調査にも一理あると思えるのです。
・そして鉄剣には大きな情報がもう一つありました。オオヒコです。これまで神社の祭神や記紀の情報しか無かった名が古墳の鉄剣から出てきたので、これを根拠に様々な研究がなされました。僕もその一人です。そして僕はこの鉄剣の時代と隅田八幡人物画像鏡が同時代を記している事に気付きました。そして継体天皇とされている実在の人物は百済蓋鹵王の弟である昆岐であるとしました。そうすると彼の名「ホムチ」は仲哀、神功皇后、応神天皇の創作話に対応している事が浮かび上がりました。百済蓋鹵王死後の日本に亡命した昆岐の話がおよそ100年あまり繰り上げて垂仁天皇後の歴史として挿入されているのです。他にも日本武尊、武内宿禰と言った創造性に富んだキャラが活躍します。実は日本書紀には継体天皇の母の振媛を遡ると垂仁天皇に行き着くとちゃんと記してあるのです。これが万世一系を演出する為の仕掛けなのです。事実を繰り上げて系統を接続し、男系でまとめる。素晴らしい仕事です。他にも卑弥呼を神功皇后に投影したり見事と言うしかありません。こうして解読して行けば、卑弥呼の前後にはほとんど記録が無く(西暦57年金印、107年帥升)、その前にあるのは徐福始皇帝伝説のみですから、そこに神武天皇を据え、世界の神話や諸氏族の伝承を研究してそこに至るまでの歴史を創作したのでしょう。そこには多くの空想や事実が入り混じって存在しているのです。
僕は一人でも多くの研究者がそろそろ新たな物証による証明に乗り出して欲しいと感じています。今のままでは多くの知識を詰め込んだだけで終わってしまうからです。誰もが自分オリジナルの証拠からの証明を行っていけば、あっと言う間に日本古代史は解明されるのではないでしょうか。知識や小説はAIに任せる時代です。人間ならまだ無い仮説を立てると言う仕事をするべきだと思うのです。
