加藤荘(間借り3畳)の思い出⑩
加藤荘から歩いて1分の所に初音湯があった。江戸時代、銭湯のことを「湯屋」と言った。湯屋は混浴であった。その混浴を覗いたアメリカのハリスは、「これは反社会的」として蔑んでいる。明治になって湯屋から「銭湯」になり、男女別の風呂になった。明治の文明開化は、銭湯という名と構造にも反映された。
もとより「初音湯」は男女別の入口、男女別の浴槽であった。が、初音湯はタイル張りを2,5メートルほど立ち上げて男湯と女湯を分けていたので、女風呂の声が天井の方から聞こえてきた。当然、女風呂からは男たちの会話が聞こえた筈である。
「あなた、もうすぐ上がるから娘を連れてよ。」
という声を聞くことがあったし、その反対に、
「花代、あと5分で上がるからな。」
と奥さんらしき人に向かって連絡している人もいた。
毎日、芋の子洗いのように湯船は一杯だった。油断すると、なかなか髪を洗うカランが取れないこともあった。それは女風呂ならなおさらだっただろう。
当時の東京の銭湯は、男風呂も女風呂もお喋りが多かった。女風呂からは幼子が泣く声がよく聞こえてきた。幼子をなだめながら風呂に入れるお女将さんたちの苦労はいかばかりであっただろう。
私は、姿形、雰囲気から「同じ大学生だな」と思うことがあった。声をかけて、「大学生活の様子」訊いたり、「学園紛争のあるなし」を小さな声で尋ねたりした。東京生まれのK君と知り合いになってから、たまに初音湯で会うと、「近いうちに『こって牛』で一杯やりませんか」と、私から誘ったことがあった。
当時、大学生も地域の人々もほどよい交流があったのである。銭湯は、情報交換の場であったし、人々が仲良くなる場でもあった。混浴はなくなっても、男女の息遣い、幼子の息遣いが感じられた。
初音湯の暖簾をくぐる時にも、ドラマはあったし、湯船に入って人々の会話を聞く時にも、ドラマは続いた。初音湯から出る時、番台のオヤジに「ありがとう。」と言って出た。暖簾を押す時の、あの仕草もまたドラマそのものだったのである。
ドラマ仕掛けされた銭湯の廃業が続いている。
五月雨に 昭和は遠くなりにけり
いいなと思ったら応援しよう!
ありがとうございます。