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掌編『レッドフード・シンドローム』

深夜二時。じっとりと肌にまとわりつく湿気と、ひび割れたアスファルトが吐き出す熱気が、重く淀んだ風に乗って網戸を揺らした。

六畳一間の安アパート。剥がれかけた壁紙が油とヤニで黄ばむその部屋で、ベッドの縁に腰掛けた狼男のロゥは、肺の奥まで吸い込んだ安タバコの煙を、深い溜息とともにひび割れた天井へ向かって吐き出した。人間界の底辺に紛れ込んで生きる彼の日常は、埃を被ったスノードームのように退屈で、ひどくくすんでいる。

それでも、彫りの深い整った顔立ちと、女の庇護欲を無意識に煽る絶妙な「見捨てられない駄犬感」のおかげで、今日まで雨風を凌ぐ寝床にも、空腹を満たす食事にも困ったことはない。要するに、しがないジゴロだった。

コン、コン、コン。

微睡みかけた静寂を、硬い音が切り裂いた。控えめだが、機械仕掛けのメトロノームのように正確な等間隔。薄い鉄のドアを執拗に叩くその響きに、ロゥの背筋に氷のような冷たいものが走り、見えない耳と尻尾の毛が総毛立った。

ドアの隙間から這い入ってくる空気を、狼男の鋭敏な嗅覚が捉えたのだ。

甘ったるく、脳髄を不快に痺れさせる安物のストロベリー系香料。それに混じる、生温かく、赤黒く乾いた鉄錆のような匂い——。今、世界で一番嗅ぎたくない「重すぎる愛」の匂いだった。

「……開いてるよ、ルル」

諦めとともに掠れた声を絞り出すと、ギイッと錆びた悲鳴を上げてドアが開いた。

廊下のちらつく蛍光灯を背にして立っていたのは、血のように真っ赤なオーバーサイズのパーカーをすっぽりと被った少女だった。華奢な身体が押し潰されそうなほど大きな籐のバスケットを、異様に青白い両手で胸に抱え込んでいる。

深く被ったフードの奥から覗く、ビー玉のように無機質で真っ黒な瞳が、ゆっくりと部屋の隅々までを舐め回すように這った。

「こんばんは、ロゥ。おばあちゃんの看病の帰りに、寄っちゃった」

鼓膜にべったりとへばりつくような、舌足らずで甘い声。しかし、瞬きひとつしないその双眸には、光の粒が一切宿っていなかった。

ルルは泥のついた赤いスニーカーを脱ぎ捨てると、足音ひとつ立てずに部屋へ上がり込み、ロゥの隣にちょこんと腰を下ろした。ロゥは背中を伝う冷や汗を必死に抑え込み、幾多の女を蕩かしてきた、甘く気怠い極上の笑顔を顔に貼り付けた。

「こんな夜更けに危ないじゃないか。呼んでくれれば迎えに行ったのに」

「嘘ばっかり。さっき、三回もメッセージ送ったのに。ずっと『既読』にならなかった」

「ご、ごめんごめん、疲れ果てて寝落ちしちゃっててさ。あははは」

「ふーん……。寝落ち、ね」

ルルはロゥのシャツの襟元に顔を埋め、すんすんと子犬のように鼻を鳴らした。ロゥの心臓が、肋骨を内側から叩き割るような早鐘を打つ。

数時間前までこのシーツの上で転げ回っていた、派手なフェイクファーを羽織った雌豹——その安っぽいムスクの香水が、狼の嗅覚にはっきりと残っていたからだ。

「ねえ、ロゥ」

「な、なにかな、マイ・スイート・リトル・レッド」

「このシーツ、私が昨日洗ってあげたお気に入りの柔軟剤の匂いじゃない」

空気が、凍りついた。

「なんか……ひどくアルコール臭いし、発情した獣臭い雌の匂いがする」

ルルの声の温度が、絶対零度まで急降下する。赤いフードの陰で、彼女の細い指がバスケットの持ち手を白くなるほどきつく握りしめていた。ミシミシ、ミシ。籐の編み目が悲鳴を上げる音が、狭い部屋に異様に響く。

「い、いや、違うんだルル。これはその、バイト先の……」

「バイト? ロゥは無職でしょ? 私が毎月、お小遣いをあげてるのに、なんでバイトなんかするの? ねえ、なんで? どこに行ってたの? 誰と会ってたの? 私より、その汚い雌豚のほうが好きなの? ねえ、ねえ、ねえ」

瞬きもせず、息継ぎすら忘れたかのような詰問。充血した瞳に大粒の涙を浮かべたルルの両手が、ロゥのシャツの胸ぐらをギリギリと締め上げる。真っ暗な瞳の奥底で、歪んだ狂気のスイッチが完全にオンになっていた。

「ルル、落ち着いて! 俺が愛してるのは君だけだよ。君のその赤いフードよりも赤く、情熱的な瞳しか、俺には見えてないんだから」

ロゥは引きつりそうになる頬を引き上げ、必死で甘い言葉を紡ぎながら、彼女の華奢で震える背中を優しく撫でた。狼男としての本能が警鐘を鳴らし「今すぐ窓から逃げろ」と叫んでいたが、誇り高き人外のプライドなど、この重厚で致死量の純愛の前では風前の灯火だった。

ロゥの規則正しく背中を撫でる手が、呪いを解くように効いたのか。ルルの指先から、ゆっくりと力が抜けていく。だが、フードの奥の瞳に淀むどす黒い執着は、微塵も晴れてはいなかった。

「ほんとに? 私だけ?」

「当たり前さ。君の作ってくれる極上の料理以外、俺の胃袋は一切受け付けない体になっちゃってるしね」

それは紛れもない本音だった。彼女の料理スキルはプロのシェフも舌を巻くレベルだ。もっとも、たまに得体の知れないハーブ——おそらく強力な睡眠薬か自白剤の類——がたっぷりと仕込まれているが、そこは人外の頑丈な肝臓。数時間、泥のように眠るだけで済んでいる。

「……なら、いいの」

ルルは憑き物が落ちたようにふいっと身を引き、大事に抱え込んでいたバスケットの蓋を開けた。

途端に、むせ返るようなバターと甘いチェリーパイの匂いが部屋中に満ちる。こんがりと焼けたパイ生地の表面には、まるで新鮮な血の海のように、どろりとした真っ赤なジャムがたっぷりと塗りたくられていた。

「おばあちゃん、最近ちっとも食欲がないって言うから、消化にいいパイを焼いて持っていったの。でもね、ちゃんとロゥの分も焼いてきたんだよ」

「うわぁ、美味しそうだな。わざわざありがとう、ルル」

「うん。だから、今、ここで食べて」

ルルはバスケットの底に手を入れると、パイと一緒に「それ」を取り出した。

ギラリ——。薄暗い蛍光灯の光を乱反射し、鈍い輝きを放つ刃渡り二十センチほどのサバイバルナイフ。猟師が熊の厚い毛皮と肉を断ち割るために使いそうな、おぞましい代物だ。しかも、その分厚い刃の表面には、狼男の皮膚を焼き焦がし、命を奪いかねない『銀』のメッキが幾重にも施されている。

「き、切り分けるナイフなら、台所に果物ナイフがあるよ?」

「ううん、これで切るの。これはね、深い森で悪い狼さんに会った時、そのお腹を縦に切り裂くための、猟師さん特製のナイフなんだよ。ロゥは、嘘つきな悪い狼さんじゃないよね?」

小首を傾げ、無邪気に微笑むルルの背後に、鎌を構えた死神の幻影がはっきりと見えた気がした。ロゥの顔から、さーっと血の気が引いていく。

「も、もちろんだよ。俺は君だけの、従順で可愛い子犬さ」

ロゥは小刻みに震える両手で、ずっしりと重いチェリーパイを受け取った。銀のナイフの切っ先が、彼の喉仏からわずか数ミリの距離で、ピタリと静止している。刃から放たれる呪いのような冷気が、狼の毛穴を粟立たせた。

「美味しい? ねえ、美味しい?」

「最高だ。君の重た……いや、深い愛が、たっぷりと詰まってる味がするよ」

実際、パイの味は絶品だった。濃厚なチェリーの酸味と、脳がとろけるような甘みが、極度の緊張でカラカラにひび割れた口内に染み渡っていく。ただ、時折奥歯でジャリッと鳴る不穏な食感については、深く考えないことにした。十中八九、粗く砕かれた睡眠薬の錠剤だろう。

「ねえ、ロゥ」

一心不乱にパイを頬張るロゥの顔をじっと見つめながら、ルルはぽつりと、独り言のように呟いた。

「私、おばあちゃんちに行くの、もうやめようかな」

「え? おばあちゃんの看病、どうするんだい?」

「だって、おばあちゃん、もう動かないもん」

その静かな言葉に、ロゥは思わず息を詰まらせた。

「ゴホッ、ゲホッ! ……えっ?」

「うふふ、嘘だよ。冗談」

むせるロゥを見て、ルルはコロコロと鈴を転がすように笑うと、彼の口元の端にこびりついた赤いジャムを指で掬い取り、自分の薄い唇へと含んだ。血を舐めとるような、ひどく艶めかしい仕草だった。

「ただね、私にはロゥがいれば、他にはもう誰もいらないなって思ったの。ロゥもそうでしょ?」

ジゴロとして修羅場をくぐり抜けてきたロゥの直感が、サイレンを鳴らして警告していた。この女は、完全に一線を越えている。今すぐ窓ガラスをぶち破り、三階から飛び降りてでも逃げ出すべきだ、と。

だが、都会の生活で野性をとうの昔に失った悲しい習性か、あるいは彼自身の根腐れしたダメ男気質のせいか。ロゥは逃げるどころか、銀のナイフを握りしめたまま微笑む少女の頭を、ポンポンと優しく撫でていた。

「君の言う通りさ。俺には君しかいない。君のいない世界なんて、月のない夜よりも退屈で、無意味だ」

息をするように紡ぎ出した甘ったるい台詞に、ルルの瞳の奥の暗がりがわずかに揺らぎ、温度を取り戻した。彼女はコトン、と銀のナイフを床のラグの上に投げ捨てると、甘える子猫のようにロゥの胸元へとすり寄ってきた。

鼻腔をくすぐる、人工的なストロベリーの香りと——やはり微かに混じる、生臭い鉄の匂い。

「……ほんと?」

「ああ。嘘じゃない」

その時だった。ロゥの視界が、ぐにゃりと泥のように歪んだ。

頭の芯が痺れ、まぶたに鉛の重りが乗ったように視界が塞がれていく。人外である狼男の強靭な代謝機能をあっさりと凌駕するスピードで、強烈な睡魔が全身の血流を瞬く間に支配していく。

(……やられた。今日の薬、いつもよりずっと強いぞ)

「ロゥ、眠いの?」

天使のように無垢な響きが、遠のく意識の底にポトリと落ちた。

「ああ……君のパイが、あまりにも美味しくて……。腹が満たされたら、なんだか……」

「よかった。いっぱいたべてくれたね。これでロゥは、もうどこにも行けない」

カチャリ、と。

冷たく無慈悲な金属の擦れる音が、静まり返った部屋に響き渡った。

ロゥが霞む目をかろうじて開けると、彼の手首には、鈍い光を放つ重厚な手錠がはめられていた。そこから伸びる太い鎖は、ベッドの鉄パイプへと頑丈に、そして執拗に巻き付けられている。

肌に触れた金属の感触は、ただの鉄ではなかった。ジリジリと肉を焦がし、骨髄まで凍りつかせるような、狼男にとって最も忌むべき痛み。

「純銀製の特注品だよ。猟師さんにね、お願いして作ってもらったの。嘘つきで悪い狼さんを、二度と森に逃がさないための、魔法の鎖」

ルルは狂気と純真がマーブル状に混ざり合った恍惚の笑顔を浮かべ、ロゥの耳元で甘く囁いた。その吐息さえもが、逃れられない呪縛のように彼に絡みつく。

ジゴロとして数多の女のベッドを気ままに渡り歩いてきたロゥの自由は、どうやら今夜、あっけない終わりを迎えたらしい。純銀の鎖に繋がれてしまっては、どれほど狂おしい満月が輝こうとも、この狭く埃っぽいアパートから抜け出すことは不可能だ。

だが、不思議なことに、ロゥの胸の内に湧き上がったのは、恐怖でも絶望でもなかった。

そこにあったのは、深い呆れと——ほんの少しの、狂ったような安堵だった。

(まあ、いいか……。しばらくは家賃と食費の心配をせずに済むし。他の女の香水を洗い落とす手間も省けるってもんだ)

どこまでも腐りきったダメ男の甘い諦観とともに、彼は抗いようのない眠気へ身を委ね、重たくなるまぶたをゆっくりと閉じた。

この重すぎる純愛という名の牢獄は、案外、居心地が悪くないかもしれない。少なくとも彼女は、ロゥの胃袋を完全に掴んで離さない、この世で最高のシェフなのだから。

「……おやすみ、俺の可愛い赤ずきん」

「おやすみなさい、私の狼さん。ずーっと、ずーっと一緒だよ」

ルルは愛おしそうにロゥの銀髪を撫で、チュッと冷たい唇を彼の額に落とした。

「……もし逃げようとしたら、おばあちゃんみたいに、お腹を裂いて、重たい石をいっぱいいっぱい詰めてあげるからね」

まどろみの底へ落ちる直前、耳元を掠めたその言葉が冗談なのか本気なのか。

それを確かめる術もなく、ロゥの意識は、底なし沼のような甘く深い闇の中へと沈んでいった。

網戸越しの生ぬるい風が、赤いフードを微かに揺らす。

窓の外では、都会の毒々しいネオンの海に浮かぶように、血のように赤い月が、ただ妖しく輝いていた。


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