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ジョージ・エリオット『ミドルマーチ』佐々木広治の読書随想。

 序曲。
 第一部 ブルック家の長女。

 序曲でアビラの聖テレサが語られ、聖テレサ後にも肩を並べられるような女性たちはいたが消え失せていった、そこに女性の立場を窺わせ第一部にはいる。主軸となる登場人物、ドロシア・ブルックが、四十ほど年上の牧師で学者であるエドワード・カソーボンと婚約し結婚するまでが描かれてゆく。ドロシアに聖テレサがかけられてある。ドロシアが聖テレサに擬する、準えるというか、そういう者を理想とする、憧れとする、という謂い。
 またもう一人主軸となるらしい工場主であり市長ともなる者の娘、ロザモンド・ヴィンシー。若き医師ターシアス・リドゲイドと出会い、恋というのか、結婚したいという思いを抱くようになる。濃淡はあれど、また、濃淡といってもおたがい知り初めたばかりではあるのだが。誰しもが受ける、月並みな印象であるのかもしれないが、ジェーン・オースティンの流れにある人なのだろうと読む。ジェーン・オースティンが亡くなったのは一八一七年であり、ジョージ・エリオットが生まれたのはその二年後である一八一九年。もとよりジェーン・オースティンの作品とはその赴きは異なるが、目の付け所、切り込み方、語り口、なかんずくポジティブ、皮肉で辛辣でありながらも人生を肯定的に捉える、絶対的な信頼感、といった姿勢が通じるような気がされる。むろんまだ一部、はじまったばかりではあるし、オースティンにも『マンスフィールド・パーク』のような陰気というのか後味、どころかはじめから味の優れないものはあるわけであるが。
 後を継ぐというのは、先代よりも優れたものをもってはじめて成り立つもの。そうでなければただの模倣、亜流でしかない。著者は、また、本著は、まだ初めの部分ではあるものの見事、後継されているものと受けとれた。ひとりびとりが生き生きと、細やかに描出されていて、楽しい。作品としては、不安要素が、不協和音、不穏なくうきとして醸されてきてはいるものの、それをふくめ。それにしても、こうあけすけに辛辣に人物批評するのは、伝統なのだろうか。魅力ではあるが、気になりはする。
 これから読むという人がいるのであれば、イギリスにおけるキリスト教のあり方について、いや、イギリスのキリスト教については予備知識を、かるくでよいので得ておいたほうがよいとは思う。


 第二部 老いと若きと。

 主にターシアス・リドゲイドとウィル・ラディスローの人となり、背景が描かれてゆく。「さいわいにも百二十年前に亡き人の数に入って、その巨大な脚の下を歩く現代のわれら小人どもを見おろす巨人たちのあいだに座を占めた、一人の偉大な歴史家がある。自分のことをあくまで歴史家と称したこの作家が得意としたのは、彼の作品のなかでほとんど他の追随を許さぬ部分、すなわち、本筋を離れてながながと自分の意見を述べるところである。特にそれが多いのは、各巻のはじめに置かれた序章で、そういう時の彼は舞台の前に安楽椅子をもち出し、みごとな英語を潤達自在にあやつって、われわれを相手に談笑する趣がある。」
 リドゲイドが語られるまえにある口上で、その真意、具体的な狙いは私には明瞭ではないものの、おかし味を受けとりはする。諧謔を含みつつ辛辣に語る。それは次に名が挙げられるヘンリー・フィールディングだとか、それに類する連中への皮肉だけなのだろうか。内容としては長々とした前口なしに上単刀直入に本題へはいろう、というものなわけだが、そう言いながらなかなかに本筋と直接に関わりのないことを語るところが人を喰っていて、それもあって生じる諧謔。悠々と堂々としながらも、ときに鋭く切り込んでくる筆さばきが、頼もしく楽しい。
 ドロシアが夫カソーボンと新婚旅行で滞在したローマで、カソーボンの甥であるウィルと会い、その手引きでウィルの友人である画家のナウマンに引き合わされる。そしてはしなくも二人は画材とされる。ドロシアは聖クララ(アッシジのキアラ)、カソーボンは聖トマス・アクィナス。ふたりの聖人の組み合わせが現実にあったら、うまくゆくものであろうか。そう問うまでもなかろう。また、ドロシアは一部ではアッシジのキアラに準えられている。聖人に(も)通じていないため細かな、深い洞察はできていないとは思うが、こういうところも非常に巧いと思う。
 リドゲイドは医師として理想に燃え、ミドルマーチに不満を抱きつつ、ロザモンドに惹かれはじめる。ロザモンドはロザモンドでリドゲイドに惹かれる。されどその惹かれる内容、程度はやはり異なる。
 ロザモンドの兄フレッド、ロザモンドの友人メアリーのことも描かれてあり、分量はすくないが印象的ではある。
 リドゲイドとロザモンドのほかに、ドロシアとカソーボンという一対の夫婦の仲の齟齬がある。新婚旅行であるというのに、既に。実はその前から兆候はあったわけだが、ドロシアが情熱的な理想によって覆い隠し、いまも隠し続けているわけだが。誰に対して隠しているのか、自分自身に。それをウィルが見抜く、というふうに読めなくもない。実際のところは薄々感じとりはじめている、程度ではあろうが。それは彼女に惹かれているからの洞察でもあるわけで。
 主にふたりの男性にスポットライトを当ててあるわけだが、理想に情熱をもつふたり、というふうでもある。また、サブタイトルにあるとおり、老いと若きの対立、もしくは亀裂、でもある。


 第三部 死を待ちつつ。

 フレッド・ヴィンシーの愚行、ドロシア・ブルックの哀しみ、その元となるエドワード・カソーボンの貧弱で老いた心身、ターシリアス・リドゲイドとロザモンドの婚約、ピーター・フェザーストウンの死。
「また人の世は多分に喜劇であると考えるようにもなっていたが、自分はその中で下劣な役や陰険な役はつとめまい、と誇り高い、いや、おおらかな覚信ができていた。」
 メアリー・ガースが伯父であるピーター・フェザーストウンの病室に寝ずの番で、真夜中にいるときのようすを描いた部分。「人の世は多分に喜劇」というのはピーターの遺産狙いで蠅の如く集りくる親類縁者のことを彼女が見てのものであるが──ちなみに著者はゴキブリに準えている──、それは本著自体そうである、そういう見方で描かれているのだとさりげなく表明されているようで、いとをかし。
 その筆致、意地悪で皮肉な眼ともいえるそれはは初めから、すべての登場人物に対し向けられたものであり、フレッドの愚行が分かりよい好例ではないか。愛するメアリー、その父親に借用書にサインさせ、その借金とて遊びでできたものであり、借用書にサインさせたことも軽くであり。返すあてがあったからではあるが、そのあても浅薄な、彼にとっては間違いなしのものでしかない。で、案の定失敗し迷惑をかけてしまう。愛する人の家族に。しかも赤貧洗うが如しの家に。描きようによっては悲劇になるだろう。実際のところ、借金を負わされた家は悲劇ではあるのだが。
 私はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のドミートリイ・フョードロウィチ・カラマーゾフが連想された。婚約者であるカチェリーナから借りた金を返済するために東西奔走し、悉く不首尾に終わり、それが彼の父親殺しの動機であり証拠ともされてくるわけだが、そういうふうになってもおかしくないだろう。されどお国柄の違いだとか、育ちの違い、なかんずく書き手の違いによって、喜劇といえるものとなってしまう面白さ。それでいて甘く見て描出しているわけではなく、あくまでも辛辣にリアリスティックに見据えながら。いや、リアリスティックに見据えるからこその、諧謔味といえるのではないか。
 その辛辣さも、おおらかな包みこむあたたかさがある。突き放し見捨てないからこその、厳しさ、といった風情、といえるだろうか。ジェイン・オースティンの衣鉢を見事に継いでいる。跡継ぎとは、越えたときにようよう適うものである、ということに首肯でき。
 面白いというと語弊、もしくは誤解を招きそうだが、前述したとおりピーター・フェザーストウンが亡くなる。そのすこし前にエドワード・カソーボンが危うくなる。亡くなりはしなかったものの、長くはなさそうな状態。されど既に屍のような状況ではあろう。人として。いつからのことであったのか。少なくともドロシアと結婚する前から。後は肉体が滅びるのを待つだけの日々。ドロシアはそう遠くない看取りのため、それだけのために結婚したものであろう。彼女の心も次第に死に近づいてゆく。


 第四部 三つの愛の問題。

 ピーター・フェザーストウンの葬儀。親類縁者で賑々しく。遺産のほぼほぼが、大抵の者らの未知の存在であるジョシュア・リッグに譲られる、という遺言書が有効となる。実際のところ今際のきわ、その直前ではそれを取り消そうとしたわけだが、メアリー・ガースが従わなかったからそういう顛末に至ってしまった、言わば事故と見做せる結果ではあるが。ジョシュア・リッグは蛙に似ていると形容されていて、態度もまた然り。英吉利には「蛙の面に水(もしくは小便)」という成句はなかろうけれど、それを連想させられる。感じ方というものは国は違えど、時代は違えど、通じるものがあるのだと感じたり、それはまた著者の観察眼というのか、慧眼によるところなのだろうけれど。
 フレッド・ヴィンシーは取り分がなしとなり落ち込み、メアリー・ガースは気の毒になり、また罪悪感のようなものももつが、私はそれでよかったのではと思った。財産を引き継ぎ、仕事もせずに今まで通り無責任のらりくらりするつもりであったわけで、人としてはそんなふうな状態にならずに済んだわけだから。
 一方、メアリー・ガースだとかガース家には幸運が舞い込む。といっても法外な遺産が転がりこんできた、ということでもないが。
 メアリーとフレッド。
 リドゲイドとロザモンドの婚約に纏わること。
 ドロシアとカソーボン。カソーボンの従兄弟であるウィル・ラディスロー。
 第四部の三つの愛とは、この三組のことをいうのだろうか。組、といえるのかどうか、かろうじて、といった具合ではあるものの。フレッドとメアリーは成立してすらいないし、ドロシアとカソーボンもなにやらドロシアはロマンチックな気分で燃えあがっているが、カソーボンは実務的な期待がつよい。ドロシア、カソーボン、ウィルに至ってはウィルが一方的に燃えあがっているだけであるし。カソーボンはカソーボンなりに、じめっと燃えだしてはいて、それは主に嫉妬心であるらしいが、それだけでもあるまい。カソーボンは死期が間近であるらしい。それにしても、こういう、さぁなんと形容したものか、いじけて実は自信のなくコンプレックスを抱えた老人の内面、心理を描出してゆく凄さときたら、もう。無論、カソーボンのみにあらず、なわけであるが。
 なにとなく、近所の事情に精通した人の話を傾聴しているような気分がされなくもない。他人の家庭事情をよくまぁここまで事細かに知っているものだと感嘆したり呆れたり、怖くなったりしながらも、興味津々で。辛辣で手厳しくもありながら、されど下品ではなく、教養抜群で。噂好き、詮索好きは多いだろうが、こういう人は現実にはまずいないことだろう。
 喩えのひとつに聖アガタが使われる。ドロシアは聖女に喩えられたりと、わりと聖女の喩えが眼につく。もっともアガタはドロシアに対するものではないが。それにしても、聖女アガタの最期。また彼女が私淑したシラクサのルチアの最期。血腥い。そうした連中もだが、それを殉教だと美談にしたり信仰にしたり、平然と喩えにしたり。感覚的に、日本人には馴染まぬものがあるのかと思わなくもない。いや、日本人に、というか、私個人とは、という限定的な感じ方なのやもしれぬが。
 喩えでは、ダンテとベアトリーチェ、あるいはペトラルカとラウラ、というのもおもしろかった。
 お国柄の違いは感じつつも、登場人物ひとりびとりに親しみを覚えてきつつはある。いや、親しみを覚えてきたからこそ、違和感を覚える、といった方が適切なのだろうと思う。実際のところはそう愉快な展開ではなく、悲劇ですらある出来事が多いにも関わらず。関わらず、というのはおかしいか。我々の現実がそうであるのだから。それをどう読ませるか、味わわせるか、があるばかりで。それが著者は超一流ということ。


 第五部 死の手。

「あらゆる人の心を汲みとって、思い悩む苦しみをとり除いてくれる人だのに──自分の考えのみを押しつけて、冷酷にひとを容れようとしない、そんな人とは裏はらに。」以上の引用はドロシアの声に出さず内にとどめた独白、というか、内面を表現した地の文章。厳密に規定してゆく必要性はないだろう。いずれにせよドロシアの嘘偽りない思い、表明であることには間違いないわけであり。それでは「あらゆる人の心を汲みとって、思い悩む苦しみをとり除いてくれる人」とは誰なのか、といえばウィル・ラディスローであり、対して「自分の考えのみを押しつけて、冷酷にひとを容れようとしない」とはカソーボンのことである。そう知れば第四部まで読んでいれば仮に第五部を読んでいないとしても、さもありなんと何の不可思議も感じないのではないな。さりながら、ドロシアがその客観的事実に気がついたということには意表を突かれるにしても。
 …と述べてゆくことに少々躊躇い迷いを覚えなくもない。言わばネタバレになるようなことになるわけだが、されどそれをいえば便覧等あるわけであるしネットには溢れている。また、そういう筋がわかったところでこの作品の魅力を損なうことにはならないだろうと私は判断する。加えて本著は長篇であり、それだけで敬遠する人が少なからずあるそうだから、そういう人のなにがしかの手がかりとなるであろうし、と続ける。
 ドロシアはなぜ目覚めたのだろうか。人の見方が変わるということは地道な努力を重ねてゆくか、よほど大きな出来事、衝撃的な体験をして、ということくらいだろう。ドロシアは後者。まだ若く、結婚生活すらまだ新婚といえる時期であるわけであり。新婚という言葉で醸すような甘やかな雰囲気は微塵もないとはいえ。新婚旅行すら索寞としたものであったわけであるし。われわれが等しく受ける衝撃的な体験──等しく衝撃的というのはなにやら異様な感じではあり、見方をかえれば平凡な、だとか、ありふれた、だとか、月並みな、といえるかもしれぬ。そう平気で言えてしまうことは私にはかなわぬ業だが──の最たるものは、死別だろう。然り、カソーボンがこと切れたのだ。そしてその遺書に補足された文章に、ドロシアはようやっと目を醒ましたのだった。正解にいえば補足された文章のみならず、であるわけだが。それはドロシアに対して、ばかりでなく、その地に住んで彼女らを知っている者らのみならず、読み手である我々にとっても。本第五部ではことにカソーボンの性情が描きだされていて、最期の最期に留めとして、となるわけだから。
 フレッドが学位をとり、フェアブラザーを介してメアリーに求婚する。フェアブラザーの気持ちが、メアリーとおなじく私も意想外だった。
 元はピーター・フェザーストウンのものであった屋敷、地所であるストーンコートをニコライバルステロウドが書いとる。受け継いだジョシュア・リッグは彼の願望を果たすために。そんなバルステロウドにラッフルズという男が会いにくる。どうやらバルステロウドの過去、芳しくない時代の知り合いらしい。バルステロウドの使用人といった立場のケイレブ・ガースが居合わせるが、彼にはゴシップを好む性がないため、すぐに去る。ラッフルズは絵に描いたような俗物でバルステロウドに好感はもたないできたが、私も不快だった。されどバルステロウドに好感、というまでもなくそれなりに親しみをもてるようになったし、こういう俗物、小悪党、チンピラはいるものだし、おもしろいは、おもしろい。


 第六部 未亡人と人妻。

 冒頭からシーリアの赤ん坊を眺めたりするドロシアがアレクサンドリアのカタリナに喩えられている。この著作の初めから繰りかえし繰りかえし聖女に準えられている。時代が時代なら彼女らのように殉教された、ということなのだろう。見方をかえれば、著者にとっての聖女像ということになるのであろうか。描かれる年代自体が著者の生きた時代から一昔前とはいえ、聖女が活躍(という言い方をするのは不適切かもしれぬが)とは明らかに異なる近現代においたとき、どうなるかという試み、ともとれなくはない。
 メアリーから牧師に反対され、他の仕事に従事するのであれば希望はあると伝えられたフレッドがケイレブに、ケイレブと同じ仕事をしたいが、自分はものになるだろうかと問い、かく答えられる。「二つのことがたいせつだ。一つは自分の仕事を愛することだね。仕事が終ることばかり考えて、はやく遊びたいなどと思わぬことだ。もう一つは、自分の仕事をはずかしく思って、ほかのことをしたほうが体裁がいいのではないか、などと考えないことだね。自分の仕事と、それを立派にやりとげることに誇りをもつのだね。」含蓄に富んでいる。彼の人生観、人間性が表れてもいる。
 ゴドウィン卿の御曹司リドゲイド、ロザモンドの夫リドゲイドの親戚であり訪問してきて、ロザモンドを乗馬に誘う。妊娠中の大切にしなければならない時期にも関わらずロザモンドは夫の反対を押しきり乗馬し、ちょっとした事故があってそれが元で流産してしまう。リドゲイドは激怒するが、ロザモンドはわりと平然としている。乗馬したのも、なんならリドゲイドと結婚したのも、見栄というか沽券というそういうものでしかないこと、穏当にいえばその比重が大きいことが読み手は改めて知らされ、そしてリドゲイドも気づきはじめる。流産はそのきっかけとなったようだ。それは遅かれ早かれ、であろうが、夫婦の愛し方に対する掛け違いが見えはじめた、それは主にリドゲイドにとってということでもある。リドゲイドのそれは、ドロシアに通じるものがある、と気づかされる。
 絵に描いたような俗物のラッフルズ。また現れバルステロウドに絡み金を巻き上げてゆき、ウィルにも絡んでゆく。ラッフルズとバルステロウドの関係がよく見えないなか、ウィルとの絆がさらに不透明であったが、真相がされなりに明かされることとなる。
 ウィルとドロシアの別れ。ドロシアの感情、思いが、彼女らしくて、微笑ましい。ウィルにとっては微笑ましいなぞ馬鹿にするな、だろうが。


 第七部 二つの誘惑。

 リドゲイドとロザモンドの関係が悪化の一途を辿りゆく。かく述べると画一的であり、通俗的であり、さらに俗にいえば夫婦関係のすきま風がつよくなり、ほぼ修復不可能にみえる、であり、先の展開は明白ではあるが、そういうイマージュにあるだろう三文小説、パルプ小説、低俗ドラマ、月並み漫画、そういった大量生産される粗雑なものとは、やはりものが違うため、その魅力、旨味は直に当たってもらう他ないだろう。もとより私は邦訳に、であるし、それを目安に話しているわけであるが、原文で読めるのであればそれに及くはなしであろうから、是非お勧めする。先に述べた下賤なイマージュを生み出す作物からすればおよそ食指のうごかぬものだろうが、一流のものは材料がなんであれ見事に見せ、味わわせる、ということを学ぶことができもしようし。リドゲイドとロザモンドとの夫婦関係の不和、その芽は結婚当初からあり、いや、結婚しようとする動機にすらあり、それが成長し、幹となり葉を生い茂らせ、といった具合ではあり。それでもたがいに調整してゆく、擦り合わせをしてゆくしかないのだろうけれど、リドゲイドにはともかく、ロザモンドにはその気がまったくない。発想すら湧かない。生い立ち、性格を見てゆくとうべなるかなではあるが、こういう者と上手くゆく者がいるのだろうかとすこしく疑わしくはなる。リドゲイドには問題がないと言いはしないものの、彼の落ち度はロザモンドという人を見抜けなかったことだろう。されど見抜くのはそう容易なことではないわけだが。そんなリドゲイドが緑竜亭で玉突き、賭けごとをはじめる。そこへかつて入り浸っていた義兄であるフレッドがふらりと来る。ガースの元で真面目に仕事に取り組んでいたわけだったが。
「ここで妹の夫に会おうとは──学者ぶった気取屋で、おそろしく自分の優越を自覚している男、とフレッドは、リドゲイトについてのこの先入観からまだ抜けきれずにいたのである──そのリドゲイトが、フレッドならいかにもしそうなことだが、興奮して賭けをしているところを見ようとは、フレッドのまったく予想もできないところだった。」
 結句としてフレッドが助ける格好となる。そうはっきり助けるという意識ではないものの。フェアブラザーがそこの階下にいて、呼ばれたことに託つけて。それでリドゲイドは泥沼に嵌まる難を逃れることとなったわけであり。一方フレッドとフェアブラザーとの間で、穏やかな会話だけではあるも、かなりおおきな、重要なことが交わされる。フェアブラザーの言は脅迫なようでいて、そういう気持ちがなくはなかったとしても、当の本人に話している時点ですでにそれは戒めであり励ましとなっている。そのことにフレッドも思いいたる。フェアブラザー、人格的に立派な、出来た人だと私も見直す。驚き、感動をともない。
 ケイレブ・ガースがニコラス・バルステロウドに報告する。ラッフルズがストウンコートにきていて体調がよくないという。そしてまた彼から受け持っている仕事を辞する決意もまた。それはラッフルズから聞いた話によって、であり。
「あの無頼漢の犠牲者なのです」
「ちょっと待ってください。あなたはあの男の悪徳によって利益を得ながら、あの人が堕落してゆくのを手伝いはしなかったか、そこをとくと考えねばなりません」
 読み手のしての立場として、バルステロウド側からしか見えない(知らない)ために一方的にラッフルズが悪、というのか、無法者という印象であったが、どうやらそうではないらしい。かつ、改めて具体的にバルステロウドが現在の財を築くにあたり、どのようなことがあったのか、いや、してきたのか、が不透明であることに心づかされもする。
 ラッフルズが亡くなる。その亡くなり方が微妙なところ。バルステロウドはリドゲイドに金を貸すことにするがそこにも影響しているようだ。ふたりとも厄介なものから逃れられることとなり安堵するも、ラッフルズが他の街でぶちまけていたことが知られ、一転。


 第八部 日没と日の出。
 終曲。

 「まあ、むごいこと!」ドロシアは手を握りしめて言った。「世の中のひと全部があの方にそむいても、あなたお一人はあの方の潔白を信じたいとはお思いになりませんの? そればかりか、人柄というものがありますわ、 それが前もってその人を弁護しますわ」
「ですがね、奥様」いきごむ彼女にやさしく笑顔を向けて、フェアブラザーは言った。「人柄は大理石に刻んであるというものではありません──固くて変ることのないものではありません。生きていて、変ってゆくものなのです。そして、からだと同じように、病気になることもあります」
 リドゲイドへの疑惑、それはもっともな致し方ないことではあるのだが、度を越えたものでもあり、ただし私はそれを決して良しとするものではないしナンセンスであり時代錯誤──然り、時代も国も違うわけであるから不問に伏すだけである──ヨークシャから帰郷したドロシアが彼を助けようと、フェアブラザーや義弟となったジェイムズや伯父のブルックに提案する。ここのやり取り自体、ドロシアらしいし、彼ららしくておもしろく、フェアブラザーの人の見方にもまた興を惹かれる。いったい、著者は人物造形、そして描出も(あくまでも、「も」である)非常に巧みで、ここにもその面目曜如たるものが見られる。
 ドロシアはウィルから苦悩を打ち明けられ、ロザモンドに会いにゆき。…ここでまた一波瀾おきるわけであるが、それはあえて伏せる。
 主要となる人物は各々、傍から見たら、世間一般から見たら、その当時のかの国の、かつミドルマーチという片田舎の人らから見たら、もしかしたら幸せだとか栄光だとかとは言いきれず、むしろ逆ととらえる向きとなる人物もいるのかもしれない(いるように思われる)が、あくまでも私は、そしておそらく著者だとかそれなり以上に知性や教養、人生経験のある人であれば、皆それぞれにそれぞれなりに充実して幸せだとか豊かといえる生涯を送った、と言えるのではないかと思う。もっとも人生なぞ最期の最期までなにが起こるか分からぬものであり、主要人物で亡くなった者はひとりばかりであるから、あくまでも作品内での話ではあるが。
 終曲は、すなわち本著は、ドロシアに言及されて幕を閉じる。華々しい活躍ではない。むしろ埋もれ、目立たぬ存在となったわけだが、現代における聖女のあり方を示した、と言えなくもないように思う。正解にいえば、本著の時点ですこし過去の時代を舞台にしてあるわけだから、「近代」というべきかもしれないが、されど「現代に通じる」とは言い得よう。そしてそれは聖女、だとかそれに類した特殊な人種、人らのみに当てはまるものではなしに、人にとって生きる意義、価値という謂いで。
 BBCによる「最も偉大なイギリス小説100」(2015年)だとか、The Guardianによる小説家や批評家、学者らにアンケートを取って集計した「史上最高の小説100選」(2026年)で一位に選出された作品だとのこと。ことに後者の記事を目にし、著者の名や題名は知っていたものの手にとらずにきたなか、興をそそられてこの度の運びとなった。外国文学だとか長篇小説に比較的苦手意識はないほうだとは思うが、躊躇がなくはなかった。外国文学といっても好みとしてはロシア文学であるし、そのロシア文学でもトルストイは好まない。かつ分量としては『戦争と平和』くらいある、との記述を見たせいもあり。されどそれは、まったくの杞憂であった。私の愛してやまないジェイン・オースティンの系譜にあたる書き手であり、さりに発展させたものであり、なによりもおもしろく、夢中になって読まされた。無駄、弛みがいっさいない、というのだろうか、退屈させられたり苦しくさせられるところが欠片もなかった。それはあくまでも読み手としてのものであり、登場人物の喜怒哀楽を味わい、味わえてのもの、であるが。至福の時間を過ごすことができ、満足、満足。

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