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『私は臓器を提供しない』佐々木広治の読書随想

 「けっして深く考えることのないマスメディアの付和雷同型思考への対抗言論」として二千年に編まれたもの。論者のなかには亡くなった人もいるが、内容としては古びていないと思う。

 近藤誠「ドナーとなった方々に対する救命救急措置など、脳死判定にいたるまでの杜撰さです。クモ膜下出血でかつぎ込まれた高知の女性や、宮城県で交通事故にあった男性は、きちんとした救命救急の措置をうけていれば、わずかなりと助かる可能性があったようです。ところがドナーカードを所持していたため、脳死を待つ方針に早々と切り替えられてしまった」

 阿部知子「患者の内臓にメスが入った時に血圧が急に変動し、それを安定させるために麻酔が使われたという事実も、脳死と言われてもそういう反応のあることを知らされた国民にとっては死を待つ映像以上にショックであったと思う。かつて筑波大学ケースでも、まず角膜を摘出された女性患者の眼のまわりにはバンダの目のような青アザができていたという( 田村春雄『脳死裁判」 それは一般的に抱かれている死の概念・イメージとは大きく異なっている。死後の身体であれば傷つけても脈や血圧が変動することもなく、目の周辺に出血を来たすこともない。 圧が変化すること、血の出ることは明らかに生命徴候である。」「メディアは死を待った。国民も同じように待たされた。そして「死」とされた患者の臓器摘出の折には麻酔が必要とされた。もしも「ドナー患者が痛みを感じているかもしれない」1 と想像した時、それでも国民は「脳死・臓器移植」にGOと言うだろうか?」「臓器移植法とは重症の脳障害患者の救命への最後の望みを打ち砕く(生存権を否定する)」

 近藤孝「「脳死」とは一種の宗教のようなものであって、科学的根拠に基づくものではないことがわかる。私は臓器移植という医療に対して消極的なのかも知れないが、たとえどのような理由があるにしても、患者を殺すのに消極的すぎるということはないであろう。」吉本隆明「臓器移植はすべきじゃないということの大きな根拠は、人工臓器についても研究不十分だし、実現不十分な段階だし、だいたい脳死であろうと心臓死であろうと、身体から即座に臓器を取り出して、それで移植しないと有効じゃないみたいなことがあるでしょう?すると、 これはやはり、あまりに生々しいというか、人食いのイメージが強いし、それじゃ本当の死とはなんなんだ、ということが問題になってくるからです。人間が死んでからどのくらい経っても、移植する臓器は保存できるというための研究のほうが先にされるべきじゃないかと、僕はすぐそう思いますね。」

 小浜逸郎「問題は、臓器移植そのものの善し悪しではなく、別のところにある。脳死判定に基づく臓器移植を公認するに当たって、果たして「脳死は死である」というようなことを法的に明文化するようなかたちで社会的合意を獲得する必要があったのかという点なのである。」

 宮崎哲弥「他者の死を待ち、その死体を食らってまで延命を図ろうとするのは我執の作用に他なりません。このうえなく反仏教的態度だと断言してかまいません。仏教徒はあるがままの死を促容と受け入れるものなのです。ただ私はそうした宗教上の理想、当為を脳死・臓器移植のような社会倫理上の問題に直接適用することは控えるべきだと考えています。自己の信念をいったん「棚上げ」にして事に臨むというのが、それがリベラルな社会の共生のルールだからです。ところが移植医をはじめとする推進派は伝統宗教まで無理矢理動員して脳死・臓器移植を肯定しようとします。しかし、その底流に潜むのは冷血な功利主義的発想です。」

 山折哲雄「脳死・臓器移植を合理化するために、仏教の側から「捨身飼虎」の実例を持ちだすのは見当はずれの議論だということを言いたかったからである。それによって仏教の布施の精神を言い立てようとするのは、いささか身勝手な言い分ではないかということだ。動物たちに食われる運命を是認することなしに、臓器の提供について「布施」の考えに基づくだけであまりに美しく語ることなかれ、ということである。食物連鎖の環の中からおのれを救出しておいて、脳死・臓器提供の犠牲の倫理性を説くのはやめにしたほうがよい。それは近代の合理精神にひそむ傲慢なヒューマニズムを隠蔽する詐術ではないか。」

 平澤正夫「日本の移植医は、シロウトの無知と錯覚を利用し、臓器移植を国をあげてのプロジェクトにすることに成功した。まだまだバブル華やかなりしころでもあり、経済大国技術大国ニッポンの経営者も政治家も文化人も、臓器移植をしない祖国に海外で肩身の狭いおもいをしたくないと短絡してしまった。移植医のおもうツボにはまりこんだのだ。厚生省も政策の目玉にありついてニンマリしたに違いない。」「臓器移植医療は、心臓、肝臓、腎臓といった実質臓器だけを狙うのではない。全身のあらゆる部分をしゃぶりつくすことがわかる。」「人工臓器まで待てないとの意見があるのは知っている。だが、臓器移植が地雷原医療であることをどれだけの患者が知っているのか。下手人はそれをよく知っている。彼らは現代の神でも、英雄でもない。悪魔である。神や英雄面した悪魔なのだ。」

 中野翠「脳死移植が認められて、フレッシュな臓器が移植されるという可能性が開かれて来ると、それによって救われる人たちの心の中に生への希望とともに、当然自然の人情としてあさましい感情も生まれてくるんじゃないかと思うの。 臓器をもらう人――レシピエントって言うの?――のなかでも順位の高い人は、ドナーの脳死や順位の高いレシピエントの死を望んだり羨んだりする感情を抑えがたくなるだろうし ……。生体からの臓器移植という闇のマーケットもできあがる可能性だってある。人間が他人の臓器をあてにしあう世の中って、どうなの? それは助け合いの精神にみちた美しい世の中なの? それとも生への妄執に取り憑かれた醜い世の中なの? それとも……美も醜もない、人間の本性のあるがままに突き進んで行けばいいってことなの?」「事は生き死にの問題よ。メディアはあまりに一部の医療関係者の功名心に引きずられすぎていると思う。「脳死は人の死」と認めたというのだって、かんぐればフレッシュな臓器を入手するためという、ミもフタもなく功利的な考えからという気もするじゃない? そうやって次から次へと人間の欲望のフタをあけていっていいんだろうか。人間は、果たして「運命」という言葉から逃げおおせるものなんだろうか。臓器移植という考えを押し進めていったら、やがては他の人間や動物や機械と融合した合成的な人体を目ざすということになると思うけれど、それで果たして人間は少しでも幸福になれるものなんだろうか。」

 橋本克彦「こうした臓器意識までを視野に入れて、臓器移植が考えられてきたのかどうか。もうすこし考え、さまざまに研究をしなければならなかったのではないのか。もっとも、人間はいつだっておっちょこちょいに先走って、後知恵でなんとか了解の構造をでっちあげるのが常ではあるけれども、臓器の観念性、意識性についてのよりいっそう深い研究が必要なのではないかと俺は思う。」

 近藤誠先生や阿部知子先生のところにあることを、医療に詳しい人から聞いたことがある。脳死とされた肉体にメスをいれ、明らかに痛みを知覚している反応が見られる報告例がいくつもあると。つまり言うまでもなく、意思表示できないだけの状態で、切り刻まれるということになるわけだ。かつ、臓器移植を望んでいた場合、しっかりした治療を受けられない可能性が高いということ。それだけでも、私自身もだし、まわりにも勧められないし、相談されたら止すように言うだろう。いまだに美談として喧伝されるなか、流されずに決める材料にはなるもの、と信じる。

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