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人生の分岐点——700万円の奨学金と、運動音痴だった私が合気道部主将になるまで

大学進学を決めたあの日から、私は教育ローンと奨学金、あわせて約700万円という重みを抱えながら、4年間の大学生活を送りました。

この経験は、私の人生観や仕事観の軸を形づくるものであり、「自分自身の人生を取り戻す」第一歩でもありました。

現代は、デジタル社会の到来とともに、学び方や働き方が多様化しています。
YouTuberやフリーランスといった、個人のスキルを活かした生き方も広がり、投資を通じて自立を目指す若者も少なくありません。

一方で、「税金や社会保険料が重い」「雇われるのは不自由」と感じる声もあるでしょう。
それでも、多くの人がさまざまな事情から“雇われる道”を選び、そのなかで安定や成長を求めています。
私自身も、過去の経験から“フリーで生きる”ことに不安を感じている一人です。

だからこそ、私は「雇われているからこそ持てる強み」を活かし、経営陣と対話できるような立ち位置で働いていきたいと考えています。

大企業は確かに壁が厚いものですが、中小企業にも誠実に挑戦できる場所がたくさんあります。


大学での学びや経験は、そんな場所へ“食い込む力”を与えてくれるのです。


こんな方にこそ、この記事を届けたいと思います。

・奨学金を抱えて将来が不安な方

・これから奨学金を利用する予定の方

・大学進学を控えた学生と関わる方

・「大学に行けばよかった」と感じている方

・子どもに奨学金を背負わせてしまったと悩んでいる親御さん

・結婚相手が奨学金を抱え、経済的な壁を感じている方


1.大学進学を決めた日


母子家庭で育った私と兄


「高校だけは行ってほしい」――母がそう涙ながらに訴えたことが、私たち兄妹の進路を決めるきっかけになりました。

私は商業高校へ、兄は工業高校へ進学しました。
生活費はもちろん、制服代や教材費など、「学ぶ」ということには本当にお金がかかります。

本当は、中学を卒業したらすぐに働くつもりでした。
祖父や叔父から「お金がないのに高校に行くのは」と嫌味を言われたこともあります。
それでも母の想いに応えたくて、私も兄も必死に勉強しました。

私たちはどちらも中学時代、不登校気味だった時期があります。
進学した高校は進学校ではありませんでしたが、成績は上位をキープし、資格取得にも積極的に取り組みました。
そして、高校生活の中で初めて家族以外の優しさに触れたことで、少しずつ心が揺れ動いていきました。

大学に行きたい


――「大学に行きたい」

そんな気持ちが、胸の奥に芽生えてしまったのです。
本当なら、そんな“欲”を持ってはいけない。分かっていたはずなのに。

友人に頼られ、笑い合える時間が増えるなかで、
「普通の学生みたいに、何も気にせず毎日を楽しみたい」――
そんな気持ちが少しずつ膨らんでいきました。

そしてもう一つ。
「こんな私でも、勉強を続ければ“高み”に行けるかもしれない」
その静かな希望が、胸の内に灯り始めていました。

兄の想いを背負って

兄も一時は大学進学を目指し、資料を集めていました。
けれど準備が間に合わず、大企業(三菱重工)への推薦を受けて就職の道を選びました。
私立高校に通っていた兄は、すでに奨学金を抱えていたのです。

「俺は行けなかったから、お前は大学に行けよ」

兄のその言葉を、私は今でもよく覚えています。

私は、兄が調べてくれていた教育ローンと奨学金を使って、大学進学を決意しました。
「高校2年生のうちに日商簿記2級に合格できたら、大学に行く」
そう決めて、努力を重ね、合格をつかみ取りました。

たくさん勉強して、会計士や税理士になって、お金を稼げるようになりたい――。
そんな強い想いを胸に、私は進学しました。

なぜ私は父と同じ大学を選んだのか


私が選んだのは、父と同じ大学でした。
父は「頭が良かった」と聞いています。
けれど、その父も落ちこぼれのような人生を歩んでいました。
父がかつて見ていた景色を、私も見てみたかった。
なぜ父はそうなったのかを、自分の目で確かめてみたかったのです。
当時の私は、まだ父のことを嫌いになりきれずにいました。

2.大学1年生— 希望と現実の交差点で

場違いな世界

いざ大学に進学してみると、そこには思っていた以上に煌びやかな世界が広がっていました。

制服のある高校生活とは違い、私服で通う大学。
しかも通学先は都心。

ボロボロの服では、周囲の学生たちの中で浮いてしまう。恥ずかしさを感じる日々。

学費だけではなく、交通費や教材費、生活費。
「学ぶ」という行為には、想像以上にお金がかかりました。

気づいたときには、こう思っていました。
——あ、大学って、貧乏人が来ていい場所じゃなかったんだ。

でも、そんなことに気づいたのは、高額な入学金を支払ったあとでした。

「お母さんのために勉強して、良い会社に就職する」
——高校時代に抱いていたまっすぐな夢は、
現実の生活の重みの中で、音を立ててズタズタに切り裂かれていきました。

抱えた奨学金

私が借りたのは、奨学金の第一種と第二種の両方。
保証人を立てられなかったため、機関保証を選択しました。

毎月の振込額は、パンフレットに記載された額よりも少しだけ少なくて、最初は「ん?」と不思議に思ったものです。
後になって、それが保証料分として天引きされていることを知りました。

大きな額ではなかったかもしれません。
でも、ギリギリの生活費でやりくりしていた当時の私にとっては、その“少し”が意外と重かった。
「奨学金=全額そのまま手元に入る」と思っていた私には、それがちょっとした盲点でした。

母からの金銭的な要求

そんな中、当たり前のように母からは生活費の一部を求められる日々。体調を崩し、もう働けなくなったとはいえ、昼夜逆転し、家事も私任せになっていく母。それまで頑張って支えたいと思っていた気持ちが、少しずつ削られていき、気づけば、私はだんだん母に優しくできなくなっていました。

「お金がない」「家でも手伝って」その声に応えながらも、私の中ではどこかで、何かが壊れ始めていたのかもしれません。

大学に来た意味

「勉強するために大学に来たんだから」
そう思って、講義はたくさん詰め込みました。
教職課程も、申し込みは最初しかできないと聞いて、とりあえず履修。

単位を落とさないよう、バイトと勉強の両立に必死でした。
資格も取るつもりでいました。

でも、睡眠時間はどんどん削られていき、勉強時間も思った通りには確保できない。
高額な教材費に頭を抱えることもありました。

このまま、何も得ずに終わらせたくない。
——でも、もし資格のためだけが目的なら、専門学校でも良かったはず。

「私は、なぜ大学に来たんだろう?」
その問いが、だんだんと心の中で重くのしかかるようになっていきました。

だからこそ、私は決めました。
——大学生活を、「資格のため」ではなく、“自分自身の意味”を見つける時間にしようと。

自分の選択

そしてもう一つ。
親の意思ではなく、自分の意思で決めること。
その一歩として、私は大学1年生の後期、合気道部に入部しました。

 

母には相談しませんでした。
母は、私が“目の届かない場所”に行くことをとても嫌がる人でした。
でも、私はもう——
大学でのこと、そして人生の選択を、家族に相談するのをやめたんです。

合気道は、かつて父が所属していた部活。

父と同じ大学、同じ部活——

学部は違っても、父が見ていた景色が、少しだけ重なって見えた気がしました。


嫌いだったはずの父のことも、ほんの少しだけ理解できるようになっていきました。

距離を置いていた父に、自分から連絡を取るようになったのもこの頃です。

家族の変化

一方で、兄との間には、少しずつすれ違いが生まれていきました。

本当は大学に行きたかった兄。

けれど、タイミングが合わず、進学をあきらめて就職の道を選んだ兄。

そして今、大学生活を送る私——。


兄の態度は、次第に冷たくなっていきました。

ある日、突然頭を叩かれたこともあります。

きっと兄なりに、大企業の中で感じる学歴差別や劣等感と戦っていたのだと思います。

後から入ってきた大卒の社員たちに、何かを思わずにはいられなかった。

その感情のはけ口が、私になってしまったのかもしれません。


さらに追い打ちをかけるように、祖父の兄弟が、私たちを哀れんで渡してくれたお金さえも、

母によって奪われてしまいました。

誰のための“支援”だったのか——それを考えると、どうしようもない気持ちになりました。


一番の味方は、かつて嫌いだった父だった

そんな中で、一番私の味方になってくれたのは、あの“嫌いだった父”でした。

「こんなに頑張っとるがや」と、父は静かに、けれど確かな言葉で、私を肯定してくれました。


かつては頼りたくなかった父の言葉が、私には一番沁みました。

3.大学2年生― 限界と責任のはざまで


忙しさと、母の支配

将来のために、自動車学校にも通い始めました。朝5時に起きて洗濯をして、部活へ。そこから教習所へ通う日々。
けれど、その自動車学校も、母が勝手に決めたものでした。
お金を出すのは自分なのに、なぜか母が全てを決める――その矛盾に、私は少しずつ苛立ちを感じるようになっていきました。

ゼミも始まり、日々はますます忙しくなりました。
バイト代は右から左へと消えていき、どんなに学費の支払いが厳しくても、母からは「毎月4万円」の支払いを求められました。
成人式も、諦めました。

これだけ頑張っているのに、大学に入ってからのほうが“子ども扱い”されることが多くなったと感じます。
大学を知らない母の目線。
「どうせ遊んでるだけだろ」と決めつける兄の言葉。

私は、もう大人になっているはずなのに――
気づけば、母から精神的にも経済的にも、何かを“摂取”されていくような感覚にとらわれていました。

合気道部に入ったことも、母にとっては気に入らない出来事でした。
「大学は勉強する場所なのに、なぜ部活をやるのか」
母にとって、部活動は“遊び”でしかなかったのです。

長男という免罪符

兄は就職してから、「迷惑をかけた分、母に恩返しをしたい」と言って、お金を渡すようになりました。通帳も印鑑も、すべて母に預けていたようです。

けれど――
兄は高校時代、バイトもせず、成人式のスーツ代、車校、車代まですべて祖父に出してもらっていました。
私立高校の入学金だって、全部。

「長男だから」。
その言葉が、全ての免罪符のように使われていました。

一方の私は、高校受験の費用すら、自分で払いました。お年玉とバイト代を少しずつ貯めて、公立高校しか選べなかった。学費は母子家庭で無償だったものの、それ以外の費用はすべて、自分でまかなってきました。
兄が高校時代に部活や遊びを自由にしていた頃、私はずっと我慢してきたんです。

兄は兄で、すべてを母に渡してしまったことで――

友人や恋人とのお金の使い道にまで、母の許可が必要になっていました。


「それで本当にいいの?」と、私が問いかけても、

兄はただ「お母さんを泣かせたくない」と答えるだけでした。

「俺は、たばこも許してるし」と、自分を納得させるように、そう言いました。


けれど私は、自分が稼いだお金が、煙のように消えていく毎日に、

どうしようもない虚しさを感じていました。

お金を使う自由もなく、何に使われているのかも見えない――

そんな暮らしが、日に日に辛くなっていたのです。


部活も、講義も、自分も、崩れていく

黒い気持ちが、自分の中に芽生えていくのがわかりました。

部活も中途半端、講義も単位を取るだけ、ゼミもどこか上の空。

大学2年の春、私は表面だけは明るく振る舞っていました。そんな私を見て、「一緒にやりたい」と入部してくれた後輩たちもいました。
でも、私のだらしなさで彼女たちを裏切ってしまったんです。

「先輩がそんな人だと思わなかった」


そう言われたとき、返す言葉が見つかりませんでした。

そして彼女たちは、部活を去っていきました。翌年の新入部員は、1人もいませんでした。

それでも、続けたかった

私は――欲張りだったんです。

大学をやめたくなかった。勉強もしたかった。部活もやりたかった。

おしゃれも楽しみたかったし、「生きていていいんだ」と思える理由が、どうしてもほしかった。

理解してくれる友人や、できれば恋人だって……本当は、ほしかった。

でも――それでも私は、家庭を優先してきました。
部活で帰りが遅くなることは許されず、先輩に強く言い返してしまうこともありました。

「過保護な親だね」
「なんか変だよね」

そんな言葉をかけられても、私はただ、受け流すしかありませんでした。
母からはずっと、「家庭の事情を他人に話すな」「人の不幸は蜜の味だ」と教えられていたからです。

家庭を優先しているつもりでも、母にはその思いが届きませんでした。
“毎日”優先しなければ、それは“優先した”ことにはならなかった。

そうこうしているうちに、部の雰囲気はどんどん悪くなっていきました。
新入生は入らず、部員は減り、同期も来なくなりました。
私も……どこかで「それならそれでいい」と、投げやりになっていたのかもしれません。

――それでも。
先輩が、廃部の危機に頭を抱え、OBから嫌味を言われている姿を見ているのは、耐えられなかったのです。

4.大学3年生―フリーダムを掲げて

部活の再建を宣言した春


「私が部活を復活させます。だから、主将と道場長を任せてください」


そう宣言したのは、大学3年生の春でした。

合気道部を再建するため、そして、誰かの期待に初めて本気で応えたいと思った瞬間でした。


合気道部では、夏の演武会が終わると先輩たちが引退し、その前に後輩の中から主将と道場長を選ぶのが通例。

でもその年は、誰も名乗りを上げようとはしませんでした。


教職課程、教習所、バイト、自分の所属するよさこいチーム。

やりたいことも、やらなければならないことも山ほどあって、週4日活動する部活に真剣に向き合う余裕は正直なかった。

お金も時間も足りず、合宿にも参加できませんでした。


でも、私は「やりたい」と初めて自分から手を挙げたんです。

それまで、「期待に応える」ことより「期待をかわす」ことの方が多かった私が、初めて自分の意思で立った瞬間でした。


同期の多くは公務員志望で、「就職活動に響くから、あまり部活に関わりたくない」と言っていました。

その言葉を聞いたとき、何かが心の中でプツンと切れました。


 「お前らみたいに自分のことしか考えないやつが公務員になるから、国は良くならないんだ。

やりたくないなら口を出すな。幹部の肩書きだけ欲しいなら、黙って私の指示に従え。」



本来、主将と道場長の兼任は禁じられていました。独裁を防ぐためです。

でも、先輩は私を信じて、「お前ならできる」と任せてくれたのです。


それまで私は、誰かの期待に応えられたことなんて、ほとんどなかった。

でもこのとき、初めて「応えたい」と本気で思えた。

目に見える形で、信頼に応えたかった。

この選択を、自分で選んだ人生の道を、「意味のあるものだった」と思いたかった。


いなくなったあの人を探し続け、失ってからは、身近な誰かに依存して、なんとか心を支えていました。

でも本当に必要だったのは、「誰かに支えてもらうこと」じゃなく、「自分の足で立ち上がること」だった。

その強さの芽が、確かにここから芽吹きはじめたんです。


不格好でもいい。軽蔑されてもかまわない。

私は、必死に勉強して、部活も続けて、やれることをひとつずつ、形にしてきました。


大学3年・引き継がれた責任


大学3年の夏、私は初めての演武会に参加しました。

けれどそれは、ただの「初参加」ではなかったのです。


このたった一度きりの参加で、来年、自分が主役となって演武会を成功させなければならない——。

それが、私に課せられた責任でした。


過去の演武会には参加してこなかった。だからこそ、自分の代で失敗するわけにはいかない。

「それは自分の責任だ」と思いました。

段取り、手順、流れ。先輩がいる間に、できる限りのことを頭に叩き込みました。

技の稽古も、これまでにないほど全力で向き合いました。


そして演武会が終わり、大学3年の夏、先輩は引退しました。

在籍はあるものの部活に来なくなった部員たち。
残されたのは、私と後輩1人だけ——。


それでも私は、「廃部だけはさせない」と心に決めていました。

1年間の流れを綿密にシミュレーションして、部活の運営や勧誘、演武会の準備まで、すべて逆算して考えました。


誰にも見えないところで、私はちゃんと戦っていました。


「来たいと思える部室にしよう。だから、私はいつもここにいる」

そう自分に言い聞かせながら、部室の空気を温め続けました。


必修科目もすべて終わり、少しだけ時間の余裕が生まれました。

その時間を、私はバイトと部活と教職課程に注ぎ込むことに決めたのです。



部活再建、最初の一歩は「掃除」から


主将になって、私が最初に取り組んだのは、部室の掃除でした。


「つまらない」「関わりたくない」——そう言って部活から距離を置いていた同期2人を、無理やりにでも巻き込みながら、私は自分の空間を少しずつ作っていきました。


彼らが関わらないのなら、自分が動くしかない。

そう決めてからは、毎朝部室を開けて、予定がない限りはずっとそこにいるようにしました。


誰かがふと訪れるかもしれない。

たまたま来た後輩には声をかけ、コミュニケーションのきっかけをつくる。

ホワイトボードには、いつも細かくスケジュールを書き込みました。


メールやチャットで済むことも、あえて「部室に来ないとわからない」ようにすることで、部室に足を運ばせる工夫をしたのです。

一見無意味にも思えるこのやり方。でも、「ホワイトボードを見に来たついでに」ちょっと顔を出してくれる。そんな小さな接点が、やがて大きな意味を持ち始めていました。


そして私は、合気道の袴に着替えて大学構内を歩くようにしました。

「合気道部はここにあるよ」と、周囲に“見せる”ために。


二人きりの稽古から始まった


そんなある日、部員は私とたった一人。

元柔道部で180cmはあろうかという男子部員との、ふたりきりの稽古が始まりました。


合気道部では、最も技術のある者が「道場長」を任されます。

だけど私は、これまで部活にあまり参加できなかったため、正直、技術は足りていなかった。


それでも私は、「教える立場」として彼の前に立つことになった。


だから、必死で稽古しました。

通常の練習に加え、OBに連絡して指導をお願いし、あんなに嫌いだった父にも頭を下げました。

行ける日はすべて道場に通いました。とにかく、自分にできることをすべてやりました。


「変化」は、静かに訪れた


そんな努力を毎日続けていたら、少しずつ、変化が現れました。

彼が私のことを認めてくれるようになったんです。


部室にいる時間が長くなるほど、ふらっと訪れる他の部員たちと顔を合わせる機会も増え、また会話が生まれていきました。


そして、ある日ふと気づいたときには、また6人で稽古ができるようになっていました。


かつて「つまらない」と言っていた同期も戻ってきて、部員8人全員が揃い、新入生勧誘に向けて動き出すようになったのです。


本当に“部活”ができた日々

他校との合同稽古を企画し、OBや父を招いた特別稽古も実現しました。

学内向けに護身術講習を開き、その様子が大学の広報紙にも掲載されました。

稽古メニューには発声練習も取り入れて、後輩への指導も丁寧に行いました。


初めて、合宿にも最初から最後までフルで参加できたとき——

「ああ、私、今、本当に“部活”をしてるんだ」

そう思えた。心から、楽しかった。


主将としていろんなアイデアが浮かんできたのは、きっと他の人とは少し違う背景が私にあったからだと思います。


例えば、母が私のために立ち上げてくれたよさこいチーム。

その中で私は、演舞の配置を考えたり、選曲を担当したり、祭りの盛り上げ方や舞台演出を考えたり——

さらには大人たちとの会議に出て、意見を伝える経験も重ねてきました。


当時は「なんで私ばっかり」と息苦しく思ったこともあったけれど、

そのすべてが、今の私の“土台”になっていると実感できました。

母が私にくれたもの。それは確かに“愛”だった。できないからといって突き放さず、不器用でもなんとか私を支えようとしてくれていました。


壊れた家と、あたたかい蛇口


私の家庭が崩れたのは、ずっと父のせいだと思っていました。

けれど、本当にそうだったのだろうか。父は、そこまで悪い人間じゃなかった。ただ、弱かっただけなのかもしれない。

人間の弱さがいけないのか。社会の仕組みが悪いのか。

それとも、目に見えない「貧富の差」が、私たち家族を壊していったのか――。

私は、いつの間にか、自分の心の外側に「答え」を探すようになっていました。


でも、たとえ理由を理解できたとしても、母に優しくすることはできませんでした。

笑いかけることもできなかった。どうやって関係を修復していいのか、わからなかった。

母の心と、私の心。

そして、ずっとつきまとっていた「お金の苦しさ」。

簡単に言葉にできない、いくつもの感情が複雑に絡まり合っていました。


両親が離婚したあの日、家族はバラバラになりました。

でも母は、「嫌いで別れたわけじゃない。ただ、経済的に必要だっただけ」と言っていました。

父がまた仕事を始めたら、いつかまた一緒になるのかもしれない。――そんな空気さえ、当時は漂っていたのです。


けれど、そんな思いとは裏腹に、大学3年生の冬、私たちは住んでいた借家から追い出されました。

原因は、母の家賃滞納でした。

兄も私も、少ないながら家庭にお金を入れていたはずなのに、あのお金はどこに消えたのだろう?

まるで、煙のように消えてしまった。


その後、兄が中古の家を買うことを決めました。

大企業に勤めていた兄は、ローンの審査がすぐに通りました。

引っ越し作業の途中、家主の「大学なんて行くからこうなる」というような目を見たとき、悔しさがこみ上げてきました。

怒りも、嘆きも、どこへぶつけていいかわからなくて――家具を壊すことで、私は感情を爆発させました。


それでも、明日は来る。

家具も足りないまま、新しい家に引っ越しました。

けれどその家には、初めて見るものばかり。

蛇口からお湯が出ることに感動し、自動のお湯張り機能に驚いて、少しだけ笑いました。


でもね――


もう、疲れた。

いつ死んでもいいやって、そう思う日もあった。

でも、自分から死にたいとは思わない。

だったらせめて、「好きに生きてみようかな」って。


私はそう思いました。

フリーダムを掲げて。


5.大学4年生— 守りたいもののために

新入部員獲得


「最高の舞台にしよう」——大学4年生、最後の演武会。
私はこの言葉を胸に刻み、前を向きました。

新入生は、留学生を含めて10人近くが入部。
4月初旬までに16名を集めなければサークルに降格されてしまう——そんな危機の中、部員全員で力を合わせて動いたのです。
その結果、無事に目標人数を達成することができました。

何をしたか?
とにかく「楽しんでいる姿」を見せることに徹しました。
合気道がマイナーな部活であることは、私たち自身が一番わかっていました。だからこそ、仲間との絆を前面に出すことを意識したのです。

「こんな仲間たちとなら、部活もきっと楽しい」
「他の部活と迷うくらいなら、合気道部でいいじゃん」

そんなふうに笑いながら入部してくれる新入生の姿に、私たちも救われました。

心をつかむために、レクリエーションや部活後の食事など、コミュニケーションを何よりも大切にしました。
雰囲気が明るくなると、自然とOBも顔を出してくれるようになり、人数は少ないはずなのに、道場には“活気”が溢れていました。

柔道部と共有していた道場の1/4スペースだった合気道部の稽古場が、いつの間にか“半分”にまで広げられていたのです。
お遊びのように見えていた合気道部に、「メリハリ」があることを、周囲が認めてくれたのだと思いました。

同期、後輩、そしてOBたちが、私に力をくれました。
「守りたいものを守るには、自分ひとりの力では足りない」
初めて、心からそう実感しました。

温かい人たちの優しさに触れながら、私は気づいたのです。
「血のつながり」よりも深く、人とつながる感覚があることに。
家族では得られなかった安心や信頼を、他人の中に少しずつ見つけていきました。

教職課程もいよいよ終盤


6月、教職課程の一環で、母校に教育実習へ行きました。

高校時代にお世話になった先生方がたくさんいて、まるで時間が巻き戻されたような感覚になりました。


あの頃の素直だった自分。

今の私は、自分の気持ちをごまかしながら、表面だけで生きているような気がしていた。

でも、先生たちの前では、不幸な自分にはなりたくなかった。

きちんと成長して、今も頑張っている自分を見せたかったのです。


実習期間中、母はなぜか妙に優しくて——久しぶりに“家族らしい空気”を感じました。

そんな些細な変化に、心が少しだけゆるんだのを覚えています。


教育実習を終えた後、母校の先生から「卒業生と語る会」への参加をお願いされました。

声をかけてくれたのは、かつて私が「世の中はお金です」と冷たく言い放ってしまった先生でした。


商業高校という進学が珍しい環境の中で、大学に通う私に再び声をかけてくれたその一言が

「今、ここにいてもいいんだ」

そう、大学で学び続ける自分が“認められた”ような気がして、少しだけ救われた気持ちになりました。


最後の演武会


主将として迎えた最後の一大イベント——演武会は、大成功をおさめました。
1年生や多くの留学生が参加する中、後輩たちへの指導がしっかり行き届いていたおかげで、OBからも非常に高い評価をいただきました。

主将になったばかりの頃は、「男がいるのに、なぜ女が主将なのか」と皮肉を言われたこともありました。
でも私は、“女だからこそできること”を考えました。
その目線を活かして、部の空気を私らしいものに変えていったのです。

1年生には、技のうまさではなく、合気道の基本と礼儀作法を徹底的に教えました。
お辞儀の仕方、間の取り方、丁寧な動作。内足にならないように、かかとを上げないように。技を決めた後の一呼吸と静止——
そうした基本の“美しさ”を、大切にしたかったのです。

そして、女主将として堂々と挨拶すること。
注がれたお酒は、豪快に飲む。
その姿がきっかけで、私はいつしか「酒豪の姉ちゃん」と呼ばれるようになっていました。

演武会には、OBとして父も来てくれました。
——母と兄は、呼びませんでした。

今回は、“親子演武”という演目を作ることもできました。
さらに、留学生たちがいたからこそ実現できた国際色豊かな演武もありました。
自由演目では、これまでの合気道部にはなかったスタイルを披露しました。
若さの勢いと楽しさ、そしてスリルを限られた枠の中に詰め込んだ、挑戦的な内容。
OBたちの反応は賛否両論でしたが、それでよかったと思っています。
誰にも真似できない演武会を、私は形にできた。
そう胸を張って言えるくらい、全力を尽くしました。

もともと運動が得意な方ではありません。

師範演武では受け身を取り損ねて亜脱臼になってしまいました。

それでも私は、最後のレセプションまで全てやりきりました。

痛みを押して、笑顔で立ち続けた自分に、ほんの少しだけ誇りを持てた気がします。


もうすぐ、合気道部は創部50周年を迎えます。
OBたちも、大いに盛り上がってくれました。

——母と兄は知らない、私の大学時代。
心は、完全に離れていました。


父親代わりの祖父の癌が発覚


そんな矢先、父親代わりのような存在だった祖父に、末期の癌が見つかりました。

すでに最終ステージ。突然の知らせに、私は言葉を失いました。


厳しい言葉を投げることも多かった祖父——けれど、その裏にある愛情は、ずっと感じていました。

両親が離婚してから、祖父は家族の支柱のような存在になっていました。

でも、あの“借家から追い出された事件”を境に、私は祖父とも心の距離ができてしまっていたのです。


「涙を流す資格なんてない」

「祖父の前では笑ってはいけない」——

自分にそう言い聞かせていました。


だから、祖父のいないところで、私はこっそり泣いていました。

祖父を想う気持ちと、自分への後悔と。いろんな感情が胸の奥に渦を巻いていました。

心は限界を迎えていた


もう、心は限界でした。
「ひとりで立とう」と、あれほど強く決めていたのに――
気づけばまた、近くにいる男性に心を預けてしまっていたのです。

けれど、それを表には出しませんでした。
ただ、私を見てくれる誰かを、そっと心の拠り所にしていました。
本当は強くなりたかった。でも、本当の意味で“ひとり”にはなれなかった。

そして私は、ただ寄りかかるだけではなく、
一緒に高みを目指せる相手を、どこかで探すようになっていました。

その彼は、公務員試験に合格したばかりでした。
法学部でも常に上位。頭がよくて、まっすぐで、
“普通”の家庭で育った人でした。

本当は、私には不釣り合いな存在だったのかもしれません。
でも私は、普通になりたかった。
穏やかな暮らし、当たり前の愛情、傷つけ合わない日常。
だから、彼を選んだのです――私なりの、静かな願いを込めて。

また父に裏切られた


父が会社を辞めたと聞いたとき、正直なところ、心の中には反発の気持ちが芽生えました。


「だから、何?母子家庭だから関係ない」——そう言い返したくなるような気持ちでした。


その父が、私にこう言ったのです。


「お前もそんなに大変なら、中退したらいいんじゃないか」


……胸の奥が、ひやりと冷たくなりました。


大学時代、父と過ごす時間が少しずつ増えて、距離も縮まりかけていた頃でした。かつて「嫌いだった父」に対して、わずかとはいえ、許しの気持ちが芽生えつつあったのです。


けれど、父は私の4年間を何ひとつ見ていなかったのだと、その言葉で悟りました。


「あなたは、すべて親に出してもらってきた人。だから、“中退しろ”なんて、簡単に言えるんだ……」


——やっぱり、人は変わらないのかもしれない。


そう思ったとき、心のどこかに残っていた父への想いは、静かに、けれど確かに消えていきました。


就職活動、本当はもう家を出たかった


本当は、もう家を出たかった。
でも兄が「俺ひとりでは抱えきれない」と、涙をこらえながら言いました。
その言葉に、私は黙ってうなずきました。
だから――家を出ることは、やめました。

就職活動は、苦しかった。
スーツは安物しか持っていなかったし、ストレスで円形脱毛症が何ヶ所もできていた。
まともな就活なんて、とてもじゃないけど、できる状態ではありませんでした。

それでも、私は“第六感”のような感覚を、知らないうちに身につけていました。
これまでの経験が、私の目を養ってくれていたのかもしれない。
直感で選んだ会社は、派手ではないけれど、少しでも福利厚生の整ったインフラ系の中小企業。
たぶん、今の私の身の丈に合っていたと思います。

こうして、大学4年間は幕を閉じて、新入社員という新たなスタートステージに向かっていきました。


6.さいごに

「親しき仲にも礼儀あり」——

人は、褒められたり、認められたりすることで、はじめて「その人のために動きたい」と思えるものなのだと、私はこの数年間を通して感じました。


大学に進学すると決めたあの日から、自分の中で起きた心の変化、そして家族との関係の変化。

この文章を通して、少しでも伝わっていれば幸いです。


たくさんの人と出会い、学び、考えを交わすなかで、私の中には「家族の中で抱いていた違和感」が、よりはっきりと浮かび上がるようになりました。

その結果、皮肉なことに、私は家族から心が離れてしまったのだと思います。


けれど私は今、「本当に子どものためを思うなら、親自身がまず“自立”していなければならない」——そう強く思うようになりました。


ここでは書ききれませんでしたが、子ども時代に親との確執を経験した人は、きっと少なくないはずです。

それでも、親に「愛」と「自立心」があれば、出産や人生の節目を機に、少しずつ良い関係に変わっていく。——私はそんな場面を実際に目にしてきました。


人は感情で動く生き物です。けれど同時に、理性も持ち合わせている。

私はずっと、「生きている意味とは何か」を問いながら歩んできました。

私は、前回りすらまともにできないような運動音痴でした。

それでも合気道部に入り、仲間と共に稽古に励み、成果を残すことができた——その経験は、何よりも自分自身の自信へとつながりました。


そして、節目ごとに心の奥から湧き上がってきた言葉を、大切に胸に刻みながら、私は一歩ずつ前を向いて歩んできました。


指導教官や、合気道部のOB会長は、それぞれこう言ってくださいました。

「お前は教師になるべきだ」「警察官に向いている」「今の時代、お前のような人間が必要なんだ」


けれど当時の私は、“生きること”に精一杯でした。

“安定した公務員”という道に、自分を無理やり押し込むことはどうしてもできませんでした。


この文章を通じて、「大学に行く意味ってなんだろう」と、少しでも考えるきっかけになれたなら。

あるいは、「大卒」という肩書きの裏にも、さまざまな背景を抱えながら、必死に生きてきた人間がいることを、知っていただけたなら——

私はそれだけで、とても嬉しく思います。

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長くなってしまいましたが、最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。

この作品は、私の「固定記事」と同じくらい、大切にしているものです。

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