生きる意味
僕は今まで僕が生まれてきた意味、それから生きていく意味を頭が痛くなるほど考えた。
思考が反芻して同じところに戻り何度も自分の中で間違いない答えが出なくて
人を傷つけたり傷つけられたりした時にもなんでこんな思いをさせたりしたりするのだろうって考えてまたなんで生まれて生きてきたんだろう。
こんな辛い思いするのはいやだ、もう何も感じたくない。生きてる事は辛い事だ。死ぬ方が救われるんじゃないか?それなら自分が死んだらどうなるのか?
そんな事を考えても別に何も変わらない世界が回り続けるんだろうなと思う
その辺に生えてる草が台風で吹き飛ばされても僕は何も感じないし普通に日々を過ごす
世界にとって僕はその辺の草だ
その辺の草はどうして生きてるのかなんて考えない
ただ生きてる
ただ生きる為に光を浴びて栄養を吸い上げてただ生きてる
生きる事自体に意味なんかない
生きる意味が欲しいのは僕だ
そしてそれを外に求めても答えはいつまでも出ない
なぜなら僕が僕自身の納得できる生きる意味がほしいから
youtubeや書籍の情報をいくら入れてもそれは他人の決めた生きる意味で僕の生きる意味ではない
他人の考えた価値観でつまり他人軸では意味がない
僕は悪い事をしたら一生忘れずに罪悪感に苛まれるし、自分の納得できない事を我慢できない。
メディアの情報をほぼほぼ疑うし、みんなが正しいと言っている事をみんなが言っているから正しいという多数決的な考えが苦手だ
こんなに疑い、個性やアイデンティティや感性を大事にする人間なのに人間はなぜ生きるのかなんて人の数だけ答えのある疑問を外に求めてた。
皆様が思う人間が生きる意味なんて答え
簡単な答えに飛びつこうとしてた
電車で座ってる時に近くにいるおばあちゃんに席を譲るのはマナーとして譲るべきだからなのか?
違うだろう?自分が譲ってあげたいから譲ってあげるでありたい
僕がそうしたいからそうするべき
みんながそうするのが正しいとか知らないしどうでもいい
その通りにして後から責任なんてとってくれるわけじゃない
だからここではじめてこの疑問になる。
僕はどう生きたいのか?
このどう生きたいのかを分解して考えていく。
これを深掘りするのはまた思考する必要がある。
短期的な目線と長期的な目線とベースの精神状態と自分は感覚的に何を好み何を嫌うかを考えなくてはいけない。
このnoteというコンテンツになぜ記事を書いているか自分でもわからない
ただ僕の日記的な側面と僕の頭の中はもしかしたら誰かの何かを動かしたり0のところから何かを感じてもらえるかもしれない。
感情が動くならそれは感動じゃあないのか?
また反応がありそうなら深掘りした記事も書くかもしれませんが今日のここまで。
