「力のある人」は どこを見ているのか
『私の解放日誌』という韓国ドラマが好きなのですが,この作品は,私たちが無意識に縛られている「相対的価値観からの解放」をテーマにしたもので,前を向いて生きるための深い哲学的な言葉で溢れているんです。中でも,印象に残っているフレーズがあります。
「相手を ク◯野郎と ののしったり バカにしたりすることで『自分を立たせる』のは 力のない証拠だ。力のある人は そこから『解放』されている」
この「相手からの解放」というテーマは,ニーチェの「距離のパトス」という考え方と対抗するものだと思います。これは,自分よりも低い存在を設定しておき,そこからの距離感によって「おのれの高さ」を自覚できるようにしておくことが,人間を高貴な存在へと高めていく推進力となる,という考え方です。言い換えると,他人を批判したり軽蔑したりバカにしたりして「あいつらとオレは違う」という距離感をバネにして,自尊感情を保つ生き方のことです。しかし,おのれの「高さ」を自覚できるために,常に参照対象としての「低い」ものの存在が必要となる生き方って,なんとなく虚しくないでしょうか。他者の弱みや欠点をバネにして自分を立たせようとするこの考え方は,むしろ,力がない証拠なのではないか。そこから「解放される」ことが,力のある証拠であって,これこそが人間をより高貴な存在へと導くのではないか・・・ そんなことを,ドラマ『私の解放日誌』で出会った上の言葉に触れたときに考えたのです。自分よりできない人を批判したり,バカにしたりして自分を立たせる生き方はダサいと思うし,そこに大事な時間や労力を割くよりも,自分自身で「よりよきもの」を生み落としていくことに目を向けてエネルギーを注ぐ。そっちの方が生産的で,賢明でかっこいい生き方じゃないかと思ったのですよね。
「力のある人」といえば,博士論文研究の指導教官であったローデス・オルテガ先生の顔がまっさきに思い浮かびます。オルテガ先生はもともとはスペインご出身ですが,大学院から渡米され,学位を取得された後から現在に至るまでアメリカの大学で教鞭を取っておられます。世界的に活躍している言語学者の一人です。私自身は,2006年から2012年までの大学院留学期間中,オルテガ先生の授業を受けたり,また論文指導を受ける機会に恵まれました。この6年間,そしてそれ以降も,私はオルテガ先生から,本当にいろいろなことを教えていただきました。そんな中でも忘れられない言葉があります。それは,大学院の授業で学生による個人プロジェクト発表があった時のこと。先生は,静かに,しかし毅然とこうおっしゃったのです。「自分が先生であろうと先輩であろうと誰であろうと,他人の発表を批判してはいけない」と。
日本人の私にとって,当時,この言葉は,何かとても新鮮で,「そんな考え方もあっていいのか!」と,価値観がひっくり変えるような心地がしたのを覚えています。東アジアと欧米では,師弟関係に対する考え方が異なり,日本で生まれ育った私は,より強固な階層構造を刷り込まれていたように思います。だから,「先生はえらい人」,「先輩は尊敬すべき人」,「長く大学院にいる人は自分よりも知識を持っている人」という考え方が,無意識のうちに体に染み付いていたように思います。日本の学校では,先生が生徒に対して「えらそうにしている」のは普通のことだと思っていましたし,日本国内の学会に出ると,大御所と呼ばれる先生が若手の研究者の発表の不足点や心構えについて,その良し悪しをあげつらうという場面を折に触れて目にしてきていたのです。なんかいつも上から目線でほんとにエラそうなんですよね。それを見ている周りの人は,「ああいうふうな失敗を自分もしないように努力すればいい」と身を引き締めるようになる。先生と生徒の関係や師弟関係というのはそういうものだと思っていたのです。だからこそ,オルテガ先生の「立場がどうであれ,他人の発表の批判をしてはいけない」という考え方が,あまりにも目新しく,高潔に映ったのでした。
その時,オルテガ先生は続けてこう言いました。「相手の批判をしても,お互い成長することはありません。批判をしてお互いが成長するなら,私は朝から晩まで誰かを批判して過ごしていることでしょう(笑)」そして,こう続けられました。「ただ批判をするよりも,他人の発表がより良くなるためにどうすれば良いのかを,一緒に考えるのです。コメントは常に建設的 (constructive)でなければならないのです」と。先生といえば,えらそうで威張っている人という固定観念が染み付いていた私は,この時,本当に驚いて,目の前の霧が晴れるような思いをしたのです。なるほど,確かにそのとおりだ。
それ以来,私は他人の発表を聞くときも,論文を査読するときも,欠点ばかりを指摘して相手を批判するのではなく,「この研究を,より良くするためにどうすればいいか」ということを考えるようになりました。ときどき「これはちょっとひどい・・・」と思うことも正直ありますけれど,そんなときでも,「ここがダメあれがダメ」とダメ出しに向かうのではなく,建設的なコメントはどう出すべきかに視点を切り替えるようになりました。その方が,お互いに学問的に成長できると思うからです。相手が学生であってもそれは同じです。年下であっても経験が浅くても,若い学生さんというのは,大人や専門家が持ち得ない独自の視点を持っていることが多々あるんです。そこには敬意を払わないといけないと私は思っているのです。オルテガ先生と出会わなければこんなふうに考えることもなかったのかもしれません。
こういう経験をしてきましたので,大学院生の研究発表に対して,上から目線でえらそうに高圧的なコメントをしている教員を目にすると,強い違和感を抱いてしまうんです。違和感というか,ほんとに気分が悪くなってしまう。ちょうど昨日もそんなことがあった。毎年1月から2月は,学生が学びの集大成を披露する時期。同僚の教員が学生の発表に対してコメントをするのをすぐ近くで目にする機会も増えます。「これが足りてない,あれが足りてない」と,不足点をあげつらうのは,実はとても簡単なことです。しかし,相手を批判して自分を立たせるというのは,ある意味,楽な逃げ道であって「力のない証拠」ではないかと思ってしまいます。一方で,相手のポテンシャルを信じ,良い点を見出し,建設的なコメントや言葉を紡ぐのは,賢さと忍耐,センスが必要であって,誰でも簡単にできることではない。真に「力のある人」というのは,安易なマウントから自らを「解放」し,相手とともに知的な成長を目指せる人。毎年,この季節が巡ってくるたび,自分はそのような人間でありたいと思うのです。今日はこのことを書かずにいられなかった。えらそうにすみません。
