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「人をモノとして扱わない」という1日を作れるか


非常勤の先生の急な退職で,秋学期の授業のいくつかが担当者未定となってしまった。大学ではしばしば起こることで特段の緊急事態ではないのだけれど,自分が教務関係の委員を担当している時は,これほど「心臓に悪い」出来事はない。胃薬ください。できるだけ早急に穴を埋めなければならない。しかし,誰でもいいというわけにはいかない。適任の非常勤講師を公募したり,専任教員の中で増コマをお願いしたりして,これまでもなんとか乗り切ってきた。さて今回はどうしようかと頭を悩ませていると,ある先生からこんな申し出があった。


「うちの特任助教の◯◯に 担当させるのはどうだろう」


特任助教というのは,主に博士号を取得したばかりの若手の先生が任期付きで就くポストである。申し出をしてくださった先生の根底には,「若手の◯◯さんにとっても,教育経験を積む良い機会になるだろう」という親心があったのだと思う。人手不足も解消し,若手の先生の実績にもなる。まさにウィン・ウィン。本来なら「これで穴を埋められる」と喜ぶべき提案なのかもしれない。しかし,この言葉を聞いたとき,咄嗟に喜べなかった。むしろ,「えっっ?(い,いま,なんとおっしゃいました?)」と喉に何かが引っかかるような違和感を抱いてしまった。


理由はいくつかある。まず,本人の意向が置き去りにされている。それに,特任助教の◯◯さんは,そもそも今回急遽担当者が未定となった授業を担当するために採用されたわけではない。ただ上司であるという理由で,特任助教の◯◯さんの担当業務の範囲を広げるようなことはできないし,そんな権限もないはずである。「担当させる」という強制の使役動詞も気になった。「担当してもらう」ならまだしも。そして,何より引っかかったのは,「うちの特任助教」という言い方である。まるで,自分の所有物であるかのような言い方。以前,医学部のご年配の先生が,同じ講座に所属する若手の先生のことを「うちの衆(シュウ)」と呼んでいて,武士か!!と心の中でツッコミを入れたことを思い出した。現代でも,「うちのゼミの学生」というように,学生を自分の所有物のように呼ぶ先生は少なくない。おそらく学生時代に自分もそう呼ばれてきたから,無意識に染みついている部分もあるのだろうと思う。でも,個人的にはあまり好きではない。なんなら「うちの奥さん」という表現も。いろいろめんどくさくてすみません。要するに,私が上述の言葉に感じた違和感をまとめるとこういうことになる。特任助教の◯◯さんがまるで「モノ」のように扱われている



・・・と批判的に考察してみたものの,しかし,よくよく考えてみると,自分だって無意識に同じようなことをポロッと発言したり,同じような振る舞いを悪意なくしてしまっているんじゃないか。そんな心配が頭をよぎった。集団の中では,皆にそれぞれの役職や肩書きやラベルが与えられ,皆がその中でのロールプレイングに徹している。「教授」だったり「助教」だったり。「係長」だったり「主任」だったり。「父親」や「母親」もそうである。世の中には,いろいろな役割がある。皆,「一人の人間」である前に,「集団の一員」であることを優先している。そうやって,文明社会は発展してきた。自分の欲望を公然と口にし,それを優先的に追求する生き方や,その場で期待されている役割を正しく演じきれないものは批判の対象となる。社会契約に基づく集団の一員として,自己実現を断念して,集団の一員であることを優先するということは,すなわち,ある程度は,お互いのことを「モノ(役割や機能)」として扱わざるを得ない状況を受け入れることではないか。これこそが「公私の別」であり,相手を「プロ」として尊重し敬意を払うということになるのではないか。


もし,私が明日の会議で,突然,同僚の先生たちに向かって「集団の歯車である前に,私は一人の人間でありたいのです!」と語り始めたら・・・ あるいは授業中に突然,学生たちに向かって「私は教員である前に,一人の女性でありたいのです!」と宣言したとしたら・・・きっと,みなさん大いに困惑することでしょう。「キモい」って学生に言われそう💦 。なぜなら,大学という組織の中で,私は,「私的」ではなく「公的」な人格を演じているからです。「先生である」というのは,すなわち「公的である」ということだからです。つまり「わたくしがない」ということをもって本質とするような存在様態のことです。だから,周りの人が,集団の中でそのような役割を担う「モノ」として私のことを見てしまうのは致し方ないことなのかもしれない。個人の自己実現を集団及び他者のそれよりも優先させる生き方を「より人間的である」として肯定するのは,やっぱり違うんじゃないかと。


そんなことをモヤモヤしながら考えていた矢先,映画監督の濱口竜介さんが,NHKのインタビューで語っていた言葉が心に響いた。


『人をモノとして扱わない』という1日を作る。


同じ行動を繰り返しているだけでは,決して問題を解決することはできない。もし何か違和感を感じていることがあれば,まずは「その構造を眺めてみる」ということが必要になる。それだけで,強固なシステムに対する立派な抵抗になる。気づくことができなければ,その問題を直すこともできない。その中で,もし可能なときがあれば,『人をモノとして扱わない』という1日を作る。・・・趣旨としては,このような内容だったと思う。


『人をモノとして扱わない』ーー 道徳として正しく,大事な理念だと思う。けれど,濱口竜介監督は,「常にそういうマインドセットでいるべきだ」という理想論を語ったわけではなかった。そうではなくて,監督が言ったのは「そういうマインドセットでいる日を,1日作ってみる」ということだった。私たちは,文明社会というシステムを維持するために,お互いをモノ(役割)として扱い,扱われることを,ある程度は受け入れざるを得ないと思う。それを「常に」否定して生きることはむずかしく,現実的ではない。だからこそ,「1日だけでもいいから」という言葉が重く響いた。毎日ではなくても,1日だけでいいから,目の前の相手を役割や機能としてではなく,かけがえのない「一人の人間」として見つめてみる。そういう日を作れるか作れないか。小さな1日の心がけは,いずれ,何十年分の違いとなって表出するのだろうと思った。




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