「うまい文章」イコール「いい文章」なのか
「うまい文章」とは,どのような文章か?
と問われたら,どのように答えるでしょうか。さまざまな定義があると思います。「内容が一読で理解できる文章」,「内容が論理的に構成され,引っかかりがなく,スイスイ読める文章」,「重要な情報を記憶できる文章」,「トピックについて無関係な情報がなく,一貫性のある文章」・・・これらは,「うまい文章」を書くための心がまえとして,ガイドブックや参考書で紹介されている定義です。ChatGPTに添削をお願いしたら,これらの定義に沿うような「うまい文章」を生成してくれると思います。生成された文章は,添削前よりも読みやすく,隙がなく,論理明快で,格式高い文章になっているでしょう。しかし,技術的に優れた「うまい文章」は,読む人が「いい文章だな」と感じるような文章だと言えるでしょうか・・・難しい問いですが,必ずしも,そうとは言い切れないのではないかと思います。
仕事柄,大学生が書いた文章を読む機会が多いのですが,あるトピックについて意見を述べるというようなジャンルの文章を書いてもらうと,同じような内容が並んでいるなあとか,同じような書き方をするなあと感じることがあります。学校教育,起承転結という語りの文化,作文教材,ネット上の情報など,さまざまな社会的要因の影響が,書き方の選択につながっているはずですので,個々人の文章力を問題にしているわけではないのですが。文章でも,美術でも,音楽でも,何もないゼロの状態から作品を作ることは,おそらくほとんどないのではないかと思います。読んだことのある文章とか,知っている作品とか,見たこと聞いたことがあるもの,印象に残っているものなどの「素材」があって,私たちは,それを記憶から呼び起こし,複数の選択肢から最適なものを選び,組み合わせて変形し,文章とか作品を生み出しています。あらゆる創造行為の根底には「選ぶ」ということがある。これは千葉雅也先生の言葉です(『センスの哲学』文藝春秋,2024)。ですので,今まで見てきたものや浴びてきたインプットなどの「素材」が似ている場合は,書いた文章や作り上げた作品が結果的に「似てくる」という結果になるのは避けられないのかもしれない。先日も,数人の学生が書いた「XX志望動機書」を添削する機会があり,皆に共通するレトリックと展開パターンが目に留まりました。次のようなものです(一部のみ紹介)。
▪️「私が学生時代に力を入れたことは,◎◎委員の活動です。委員会の企画係リーダーとして,⬜︎⬜︎を担当しました。この経験を通して身につけた忍耐力を生かして,今後も○○で精一杯努力してまいりたい所存です」
▪️「私が打ち込んだのは,◎◎でのインターンシップです。⬜︎⬜︎を担当し,組織のニーズを満たす仕事をするよう心がけました。○○においても一層努力を続け,一生懸命学ばせていただきたいと思います」
自己PRの典型的な「型」に押し込めて書いている例だと思われます。優等生が書く模範的な文章。わかりやすく明快ではあります。しかし,誰もが使える典型的な「型」であるがゆえに,「普通」です。規則性のある文章に一般化されてしまったことで,書き手の個性や特性が見えなくなってしまっている。その結果,これが,木村さんが書いた志望動機書だったとして,名前を山根さん,福田さんに置き換えたとしても,おそらく通用してしまうと思います。なので,読む審査員の中に,書き手である「木村さん」の印象が残らない。「努力」とか「忍耐」とか「学ばせていただく」という,常套句も,あまりに頻繁に使われるクリシェ(cliché)であることから,それが木村さんの言葉でも,山根さんの言葉でも,福田さんの言葉でも,ほとんど同じに聞こえてしまい,読み手を退屈させてしまう可能性があります。
こんなふうに,「型」や「テンプレート」に忠実に従い,それを再現すべく「うまい文章」を書こうとした結果,個性がなくなり,そして,中身が薄くなってしまうケースがあると思います。逆に,技術的に優れていなくても,中身が濃く,読み手の心をとらえる「いい文章」というのがあると思います。何度か同じ表現が出てきたり,「です・ます」と「である」が混在して文末が揃っていなかったり,文章自体は少々拙いのだけれど,書き手のこれまでの取り組みや生き方が具体的に表現され,拙いけれども書いている人の体温が伝わってくる。英語の文章でも,文法エラーが多くてこれはヒデーナと思いつつ,でも何か内容に引きつけられる,続きが読みたくなる文章というのがあります。英文としては拙くても,その人の読み手意識とか気遣いが溢れていて,オリジナルの「作品」として成立している。こうした経験を通して,文章は「うまいか ヘタか」の二項対立では説明できないし,技術的に優れた「うまい文章が」必ずしも「いい文章」とは限らないのではないかと考えるようになりました。規則性とか型から少しズレている,この「ズレ」にむしろ価値があるのではないかと。
自分だけが書ける,自分にしか書けない「いい文章」が書けるようになりたい。そのための第一歩として,まず,「ヘタウマを目指してみる」というのは,どうでしょうか。学生のみなさんは,「ヘタウマ」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。技術的にはヘタだけど,何か魅力がある。ヘタだけどウマい。
ヘタウマ:創作活動において技巧の稚拙さが,かえって個性や味となっている様を指す言葉。技術が下手で美術的センスもないが,感覚がうまい。つまり,技巧的には下手であるが人を惹きつけて止まない魅力があるものを指す。まるで素人や子どもが作ったように「ヘタ」だが,それゆえ個性があり,味わいのある「ウマい」出来栄えとなっている作品・作風のこと (山藤章二『ヘタウマ文化論』岩波新書 2013)
「うまい文章」を書こうとすることにおいては,アマチュアのライター(私自身もそうです)は,物書きを職業としている人々,プロのライターや小説家の技術にはとうてい敵いません。なので,「プロのようにうまく書こう」とする土俵で勝負しようとする以上,アマチュアはいつまでもただのアマチュア,素人なわけです。でも,「プロのようにうまい文章を書こう」とするマインドを持つのをやめて,自分自身の基準に軸をシフトすることで,「おっ,ヘタウマだね!」とか「これはこれでアリなんじゃない?」いう新たな展開が生まれるかもしれない。上述した千葉雅也先生の言葉を借りると,「勝負する土俵を変える」ということです。土俵を変える・・・とても素敵な言葉だと思います。もちろん,プロの文筆家を目指して完成度を上げていこうとする努力や姿勢も大事です。しかし,千葉先生はこう述べておられます。「そうであったとしても,いったん勝負の土俵自体を変えて,自分にしか表現できないオリジナリティを出せる出発点から始めてみる」と。そうすることで,プロの文筆家基準で競争している人たちの競争に混じらずに,別ルートで文筆家として認められることが可能かもしれない。絵画でも,対象そっくりに書く写実的な正確さからいったん離れて,意図的に歪みやズレを表現することで,それが芸術として認められたケースがあります。その代表は,ピカソです。写実的な正確さで勝負する土俵からいったん離れて,自分軸の土俵で勝負する。その独自性のある「歪み」とか,典型的な型からの「ズレ」に味わいがあると評価されれば「ヘタウマ」になる。文章を書くことにおいても,この「ヘタウマ」がむしろ「いい文章」と評価されることにつながることがあるのではないかと。(# 学術論文のようなジャンルでは,「型」通りに書くことの方が好まれる傾向がありますが)
学生の皆さんは,これから大学でたくさんのレポートやプレゼンの原稿を書いたり,志望動機書を書いたり,就活の時にはエントリーシートを書いたり,様々な場面で文章を綴る機会があると思います。その時に,「理想的なモデル文のように書こう」とか,「先輩や大人の人たちが書いているような文体で再現しよう」とか思う必要はないかもしれません。いや,思ってもいいかもしれないけれど,誰かと同じになりたいという「型通り」,モデルの「再現しすぎ」の傾向からいったん降りる。千葉雅也先生が述べておられるように「勝負する土俵を変えてみる」。再現志向ではなく,素人や子供のような自由に戻って,「型」の枠組みからズレたところで違うことをやってみる。ヘタウマを目指すマインドで,自分にしか表現できない歪みやズレを文章に綴ってみてはどうでしょうか。学生の皆さんがよく使っているChatGPTは,高い確率で起こりそうな「それっぽい」単語列を生成できますが,自分で考えて文を書いているわけではありませんから,ChatGPTがヘタウマな文を書くことはできません(少なくとも,現段階の性能では)。しかし,人間は思考をし,意味を考えて文章を書くことができます。勝負する土俵を変えて,規則性から逸脱することもできる。学生の皆さんは人間であってAIではありません(よね)。なので,あなたにしか書けない文章,あなただから書ける文章というのがあると思うんですよね。「うまく書こう」じゃなく「ヘタウマに書こう」・・・考え方を少し変えてみてはどうでしょうか。これは,学びに対して「姿勢」を変えるということです。勉強というのは,ただ新しい知識を得るだけではありません。姿勢を変えることで,浴びるインプットの中身の見え方が変わってくることがあります。典型的な「型」の再現志向からいったん降りてヘタウマを目指してみる。新学期に,ぜひ試してみてください。
#sugie shinsukeさんのイラストをお借りしました。ありがとうございます。
