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バッターボックスに立つ哲学者

今やメジャーリーグでは、大谷翔平、山本由伸らの数多くの日本人プレーヤーが大活躍。

数々の名勝負、名シーンを作り上げています。

そして、今年も伝説級のシーンが次々に生まれました。

とは言え、自分にとって忘れ難い伝説のシーンの一つは、やはりヤンキース松井秀喜の本拠地初戦の満塁ホームラン。

前の打者が敬遠され、満塁としてから松井と勝負をしようとする相手チーム。

松井秀喜に対して日本ではありえない対応。

ヤンキースタジアムが異常な雰囲気の中、表情を変えず淡々とバッターボックスに立つ松井秀喜の佇まいにしびれます。


そんな松井秀喜の物事に対する姿勢を書いている「不動心」という本を改めて読んでみました。

本書はこの新書の帯にも書かれている「心の構え」の在り方が一貫して書かれています。

その中でも、最も印象的なのは、第2章の「コントールできることと、できないこと」というお話。

プレーで失敗しても、審判から理不尽は判定を受けても、バットやヘルメットを投げつけたくなる気持ちを押さえつけ、悔しさに感情的になったりしないようにする。

悔しさは胸にしまっておきます。そうしないと、次も失敗する可能性が高くなってしまうからです。コントロールできない過去よりも、変えていける未来にかけます。

(同書p65)

分かっているつもりでも、なかなか難しい。

いつも平静を装って淡々としている松井でしたが、実は心の中では相当煮えたぎっている人間的な側面も本書で垣間見ることができる。

松井も超人ではなく試行錯誤を繰り返しており、普通の人なんだなあと、ちょっとホッとしたりしています。

一方で、メンタルトレーニングをしっかりやろうとしていたことが、高いパフォーマンスを上げ続ける要因のひとつになっていたと改めて感じました。

また、メディアとの向き合い方も印象的です。

ヤンキース入団当初、大リーグ投手の微妙に動くクセ球に戸惑い、内野ゴロばかり。

ニューヨークタイムズは、当時、松井のことを ”Ground Ball King"(ゴロ王)と評していた。

当然、ニューヨークで普通に生活していたら嫌でも目に入るもの。

そんな環境の中で考えていたのは、

メディアの報道というのは、自分ではどうにもならないところがあります。記者の方が見て、感じて書く記事に対して、僕が何かをできるわけではありません。
(中略)
僕を見て取材した記者の方が、どう記事を書くか。それは、書く本人にしかコントロールできません。

(同書p69)

メディアはいい事ばかり書くわけではなく、過剰なほど気にしても始まらないことを語っている。

自分でコントロールできないものは放っておき、コントロールできるものに意識を向けていくこと。

この思考法は、古代ギリシャのストア派の哲学者、エピクテートスの考えに似ているなと思い、「人生談義」の「提要」を改めて読んでみました。

エピクテートスはこのように語っています。

諸々の存在のうち
ある物はわれわれの権内にあるが
ある物はわれわれの権内にない

意見や意欲や欲望や忌避
一言でいえばおよそ
われわれの活動であるものは
われわれの権内にあるが

肉体や財産や評判は官職
一言で言えばおよそ
われわれの活動でないものは
われわれの権内にない

そして
われわれの権内にあるものは
本性上自由であり
妨げられず
邪魔されないものであるが

われわれの権内にないものは
脆い、隷属的な
妨げられる
自分のものでないものである

(「人生談義(下)_提要」p252。段落分けは当方で実施)

自分の活動自体(権内=コントロールできる事)のみに専心し、それによって生じる結果(権外=コントロールできない事)には執着しないようにすることで平安に生きられることを説いている。

そして、エピクテートスは母親が奴隷階級であったようで、自身も奴隷としてローマ帝国の皇帝ネロの解放奴隷であるエパプロディートスに売られる経験をしている。

後に、奴隷から解放され自由人となったが、その経験からか、自分の体(肉体)ですら、「権外」であると達観している。

松井秀喜の方は自分の野球を極めようとする実践の過程で、この「心の構え方」を編み出してきた。

彼の語る「不動心」と、約2000年前のエピクテートスの「権内・権外」の議論が時空を超えて共鳴しあっていることがすごく感慨深い。

松井秀喜は、プロ野球選手というトップアスリートであると同時に、「バッターボックスに立つストア派哲学者」でもあるのではないか。

そんな気がしてきました。

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