多様な「普通」・多数の「部族」
先日、とある方とランチをしながら雑談をしていたときの事。
「この今の時代に 『普通』 なんて事は
もうないですよね。。」
と言われて、うーん、、と
思わず唸ってしまいました。
そう言えば、家庭で、会社で、酒場で
「普通、〇〇だよね。」
「普通はこう言うよね。」
と、言っていたかも。汗
その方曰く、
「今まで、テレビが多くの「普通」を作ってきた面がある。
しかし、最近はテレビを見る人は
高齢者が中心で若者はあまり見なくなった。
共通で見ること、聞くこと、感じることがなくなってきている。
その事も関係しているかもしれない。」
そう言えば、自分もテレビをあまり見なくなったなあ。
番組を見逃してもTVerで見れるし、
録画でも見れるし、
情報はウェブで確認できるし。
おっさんの私ですらそうなので、
「言わんや若者をや」という感じかも。
それぞれの世代、それぞれの層、
そして、趣味、嗜好、思考が同じ傾向にある
それぞれの集団が
SNS等のウェブに集まり、
それぞれの「普通」を作っている。
今や、共通する「普通」はないのではないか。
そんな趣旨のお話しをお聞きして、
うーむ。。とあれこ考えていたら
「前世代でテレビ離れ」の最新レポートが出ていました。
こうなると、まったくもって共通の体験、共通の考え、
共通の思いのない人々が、
同一文化、同一の社会、同一の組織で生活をしていく事にも。
そしてお互いの「普通」を確かめ合って生活する事になるのだろうか。
同じ言語、同じ文化的背景を持ちながら、
別の嗜好、思想をもつ集団が
それぞれ「部族」化していく。
そして、その「部族」は土地や血筋にとらわれないネットでつながっている。
そんなイメージを持ちました。
ふと、「多文化共生社会」という概念を
思い起こしました。
「国籍や民族などの異なる人々が、
互いの文化的ちがいを認め合い、
対等な関係を築こうとしながら、
地域社会の構成員として共に生きていくこと」
とのこと。
定義は、「国籍や民族など異なる」ことを前提としている。
しかし、
同じ国で言語は同じだけど「普通」が違う。
同じ日本語を話しているのに意味が通じない。
そんな事態が今後ますます起きてくるかも。
無理にこちら側の「普通」を押し付けるのではなく、
「多文化共生社会」定義、概念を広げ、
「同一国内多文化共生社会」として、
「共生」を模索して行くことかもしれません。
そうでないと、多種多様な「分断」が進みそう。
とは言え、歴史が「集中と分散」の繰り返しであるならば、
今は「分散」の方向に向かっているのかもしれない。
たった約200年前の日本では約300の「藩」があったとのこと。
約300の社会、組織が構成され、
中央集権的でありつつ幕府と藩との緩やかな連携を取っていた江戸時代。
それぞれの方言を持ち
(日本語のベースはあるものの)
それぞれの「普通」を持っていた。
今度は「土地」に縛られない『藩』がウェブの力を借りて多数出現してくるのではないか。
いや、もう少し考えを進めると、
今は江戸時代より、戦国時代に近づいているのかもしれない。
戦国時代は、「京都」という『中央』はある。
しかし、実際は
毛利、島津、上杉、武田、織田、北条
などが、中央集権から離れてそれぞれの独自文化圏を有していた。
現代も、X文化、instagram文化、Facebook文化、TikTok文化、YouTube文化、アニメ文化、ゲーム文化などなど。
そして、それぞれの文化圏同士がゆるくつながっている。
その状況は先祖返りのようにも見えるかもしれない。
しかし、螺旋階段のように上から見れば、
元に戻ったようでも、
横から見れば着実に別のステージに登っている。
今はその螺旋階段を上がって行く途中なのではないか。
そして、部族間を取り持ち、
「意味」の交換を促進させる新しい形の
「通訳者」、「翻訳者」が注目されるのではないか。
昔の通訳は、「言葉」を訳すのがメイン。
これから必要になるのは、同じ言葉を話しながら
異なる「普通」を生きる人々の文化を翻訳する人なのかもしれない。
私たちは相手と議論、ダイアローグをする前に、
まず相手の「普通」がどこで育まれたのかを知る。
その理解の積み重ねが、「共生」という新しい社会の土壌をつくっていく。
そんな気がしてきました。
