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低画質はいま、どのように美的か:意味、テクスチャ、ノスタルジー

驚いたな 手にしたビデオ そいつは
ベータだろ? かけるデッキがないって

筋肉少女帯 - "その後 or 続き"(2007)

HEISEI-VHS

どんな画像もVHS風に加工できるアプリHEISEI-VHSのリリースが話題を呼んでいる。

「平成レトロ」の流行の核心にあるのは、低解像度の美学である。かつてのメディア機器がハード面での制約によって受け入れていた低解像度、その質感をあえて借用して過去を演出すること。
それは高解像度化していくデジタル環境に対するある種の逃避ないし抵抗とも解釈できる。

この問題について僕はかねてから興味があって、一年ほど前のエッセイ連載「低画質ノスタルジー」や「新しいアナクロニズム」として扱った。また、最近刊行された『ゲンロンy』創刊号に僕が寄せた論考(「陰謀の手応え——擬人の時代について」)や座談会でも、ある種のレトロ性について考え、議論している。
HEISEI-VHSのリリースは、数年来流行っているこうしたノスタルジーのある種のピークを示しているのかもしれない。現代、低画質性はどのように美的に消費されているか、ということを考えてみたい。

新しいノスタルジー?

結論から言えば、2010年代から今日まで、大雑把にみてこの15年間の間には、「ノスタルジー」の質に一定の変化が生じているように思われる。

そもそも「ノスタルジー」とは失われた過去や故郷への郷愁を表す言葉だ。
幼少期の幸福を思い出す、戦場に送られた兵士が故郷を思って心を傷める。そのような状態をノスタルジーは示している。そこでは、過去とは触れえないもの、戻りえないものである。
低画質性がかつてノスタルジーを引き起こしたのは、技術的な不可逆性のゆえにだった。「もはやあの機器を使っていた時代には戻れない」、「この画質の時代に戻れないように、私は幼少期に戻れない」ということだ。

たとえば初期のニコニコ動画(やYouTube)は、90年代から2000年代初頭に流行したサブカルチャーに対する(ネタ化も含めた)ノスタルジックな消費という一面が存在していたように思う。それはニコニコ動画各時代の流行まとめを見るだけでもある程度理解できる。
違法アップロードされた過去の低画質コンテンツを懐かしみながら皆で視聴する、ノスタルジックな集団的な共感と一体感が、おそらく黎明期の動画サイトには一側面として存在していた。
古い写真、古いビデオの劣化した映像が喚起する郷愁は、時間の不可逆性と技術の不可逆性が結びつくことで生じる。

しかし現在、HEISEI-VHSをはじめとした現在の画像加工/画像生成アプリは、擬似的に過去を実装することを可能にしたように見える。もはや、当時の機材を苦労して調べて手に入れる必要はない。ここまで到達してしまった僕たちは、こうしたノスタルジーとはまた異なるノスタルジーに直面しているのではないだろうか。

かつての低画質が引き起こすノスタルジーは、戻りえない過去に紐づいていた。他方で現在の低画質性は、どんな高画質な画像にもフィルター機能によって擬似的に・操作的に付与することができる効果(エフェクト)である。

このようにフィルターとして貼りつけられ加工されるローファイな画質は、いかなる過去にも結びつく必要がない。そこで喚起されるのは「過去っぽさ」「平成っぽさ」である。
過去のないノスタルジー。この実装においては、文字通りの意味で平成的なオブジェクトやアイコンが映像内に存在する必要がまったくないし、ユーザー間で「平成」の記憶が共有されている必要もない。

いわゆるY2Kファッションの担い手が平成初期の記憶をほとんど明確に持たない若い世代であったり、実際のVHSを見たことのない世代が「VHS的」な画質に心を動かされたりするのは、そのような新しいノスタルジー、新しい過去への感性の所在を表していると僕は思う。

エモとノスタルジー

かつての低画質ノスタルジーは、特定の時代や場所をめぐる共同体の記憶を、共同的に追憶する機能を担っていた。低画質コンテンツはある時代に紐づいた想起のきっかけである。
しかしそのような想起は、世代差による視差を生み出すものでもある。たとえば2000年代後半、僕がかつて動画サイトで発見していた過去のコンテンツは、僕にとっては「共同的な追憶」の対象ではなかった。僕はそれらをリアルタイムで体験した世代より少し下だったからだ。だから、それはむしろとてつもなく新しいものだった。
そしてそこには過去への参照機能があり、僕はそこから過去のアニメや音楽を「ディグる」旅に出ることになる。皆がそうしていたわけではなかったが、少なくともそれは「可能」だった。
このように、ある世代にとって懐古の対象であるものが、下の世代にとって新しいものとして衝撃を与えることはつねにあるのだ。

しかし現代の低画質ノスタルジーは、具体的な記憶への参照も指示もなく、その低画質の質感そのものにおいて直接に情動を刺激する方向へと向かっている。
そこにも確かに世代差は存在する。「HEISEI-VHS」が極端であるように、それは「平成」「VHS」を体験している世代にとっては見知ったものの再来であるが、さらに下の世代にとってはほとんど経験したことのない新しいものである。
しかしここで注意したいのは、古さがもつ新しさの質には大きな変化が起きている、ということだ。画質の操作によって擬似的にもたらされる新しい低画質ノスタルジーは、過去への参照性、ディグ可能性がきわめて乏しい。

このことは、たとえば「エモい」という言葉を見ても理解できる。
この語の定義のひとつとして、「過去に経験したことがないはずなのに、なぜか懐かしい」という感情がしばしば挙げられる。この定義は示唆的だ。
「エモ」としてのノスタルジーは、「もはや戻れない過去」(不可逆の過去)ではなく、「経験したことのない、存在しない過去の感じ」(不在の過去)に紐づく。この画像処理・映像処理の次元で現れてきた新しいノスタルジーとは、「あった、あった」ではなく、「なかったのに、なぜか」なのだ。

ノスタルジーの情動論的転回?

したがってこの15年をかけて新たに現れてきた低画質の美学の根幹にあるのは、擬似的な過去=過去っぽさの生成技術である。戻れない過去の残像とか、過去のメディア機器の痕跡は実際のところ問題の中心にはない。僕たちは、過去っぽいテクスチャ(質感)の機能により、過去なしにノスタルジーを感じることができる時代にいるのではないか。

ノスタルジーの情動論的転回。なお、このように低画質テクスチャが引き起こす情動は、いわゆる耽溺や興奮にかぎらず、憂鬱や恐怖に結びつく場合もある。それが「リミナルスペース」のパターンである。

こうした画像に、劣化させるエフェクトが加わると、憂鬱な感じがさらに増す。私たちの記憶とよく似た性質を持つようになるからだ。記憶は、不完全で、ぼやけていて、喜びと悲しみが混じり合う霧の中にある。

ALT236『リミナルスペース 新しい恐怖の美学』佐藤ゆか訳、フィルムアート社、2025年、75頁

「劣化するエフェクト」やローポリゴン的な3DCGといったレトロな要素は、そのテクスチャ自体において、ネガティヴな懐かしさ、情動、不気味さにも紐づきうる。しかしその理由を「記憶」と同じようにボヤけているからだ、とするALT236の判断はあまりに乱暴ではないだろうか。

意味的ノスタルジー

ここまで「テクスチャ」という語を何度か用いたが、念頭にあったのは、瀬口真司とつやちゃんの対談である。対談内では、「意味」「テクスチャ」が対義語的に用いられている。
何かを読み取り解釈して抽象的に理解すること(「意味」ないし「物語」)と、具体的な手触り、触感、肌理(「テクスチャ」)。
そして2020年代はまさにテクスチャの時代であると診断されている。対談内のグミの例が秀逸だ。

この議論に引きつけて言えば、低画質ノスタルジーは、意味的ノスタルジーテクスチャ的ノスタルジーに区別されるべきかもしれない。

意味的ノスタルジーにおいて、低画質性は、意味、物語、記憶、共同体といった次元に結びついていた。
それはもちろん、危険を内包している。そもそもそれは1970年代以降、「ノスタルジー産業」として、経済的政治的に大きな力を持ってきた。こうしたノスタルジー産業の力は、現代のサブスクリプション・サービスの時代にいたって最盛期を迎えている、とさえ言える。

2020年後半の投資家向け会社説明会で、ディズニーはこれから公開する作品を予告した。発表された63本の新番組と新作映画のうち、43本は既存の登場人物を使ったものか旧作のリブート版もしくはリメイク版だった。同じく2022年にディズニーは自社ストリーミングサービスのスローバック・コレクションの一部として〔…〕1990年代の映画の宣伝も始め、加入者に「ノスタルジアを覚える?」と問いかけた。広告には「ああ、古き良き日々」の文句も見えた。

アグネス・アーノルド=フォースター『ノスタルジアは世界を滅ぼすのか——ある危険な感情の歴史』月谷真紀訳、東洋経済新報社、2025年、211頁

それは経済的効果をもつだけではなく、特定の過去を極端に理想化し、賛美するような政治的な観念にも結びつきうる。もっと極端な場合、仮にある人がその過去を経験しておらず、ある種の虚構的な想像力によって理想化するような場合もある。
それは文学的な創造性にも、政治的な極端さにもなりうるものであるーー政治的な改革はいつも、理想が過去にあったかのように擬装しながら生じる。
たとえば「MAGA(メイク・アメリカ・グレート・アゲイン)」のような現代のジャンクでファストな復古主義は、明らかに意味的ノスタルジーを活用している。
(そしてアーノルド=フォースターが指摘するように、残念ながら、こうした意味的ノスタルジーに感染しているのは、かならずしも右派だけとはかぎらない。)

テクスチャ的ノスタルジー

けれども、HEISEI-VHSのようなアプリ上のエフェクトとして導入され貼り付けられる低画質性は、過去への参照をもはや必要としていない。これはノスタルジー産業の別の側面を示している。それはその質感そのままにおいて直接に、テクスチャの水準で情動をかきたて、感性を触発するものである。

テクスチャ的ノスタルジーは具体的な過去の参照を持たないがゆえに、特定の過去を理想化するような想像力には結びつかない。
意味的ノスタルジーは、どれだけ歪められた形であれ、政治的な危険を伴うものであれ、一応は歴史への参照性をもつ。だからこそ私たちは歴史を遡ることができるし、歴史認識をめぐる対話と論争を行うこともできる。
それに対し、過去なき郷愁であるテクスチャ的ノスタルジーは、そのような参照を欠き、ひたすら現在の感性のなかにある。

僕はこうした感性を全面的には批判したくない。それに基づく新鮮な時代感覚、実存、制作態度が生まれるならば、それを歓待したい、それに期待したいとも思う。別に、過去のことを勉強しろというような立場に立ちたいわけでもない(子どもの頃、そんな大人たちを僕はずっと鬱陶しいと思っていた)。
問題にしたいのは世代の差(だけ)ではなく、このような過去の変動そのものなのだ。「過去」の質の変化は、現代の思想的な問題なのである。それはそれ自体で言語化される必要があると思われる。

こうした「過去っぽい現在」のアテンションないしエモーション。批評家のマーク・フィッシャーは、現代インターフェースが作り出す堂々巡りの退屈さを「擬似現在」と呼んでいる。

資本主義的サイバースペースという、24時間稼働の過密な環境では、脳はもはや「ぼんやりする時間」を一切許されない。その代わりに、脳は常に「低レベルな刺激の絶え間ないフロー」に晒され続けている。
〔…〕
GIFに登場する人物たちは、「煉獄的な条件」に閉じ込められている。その条件の一部は、彼らが自分たちがループに囚われていることを認識できない、という点にある。彼らは繰り返し続ける、自覚のないまま、永遠に。私たちは、〔…〕これを「擬似現在(pseudo-present)」と呼ぶことができるだろう。

Mark Fisher, “Touchscreen Capture”, Noon 6: An Annual Journal of Visual Culture and Contemporary Art. Gwangju, South Korea: Gwangju Biennale Foundation, 2016, pp. 19-21

意味的ノスタルジーがある種の共同体的熱狂や、極端なイデオロギーに結びつきうるのに対し、テクスチャ的ノスタルジーは、その場その場のアテンションに結びつき、プラットフォームの「擬似現在」のなかに私たちを閉じ込める。だから結局、テクスチャ上の過去は、実際にはもはや過去ではなく、過去に擬態した「現在」なのだ。
フィッシャーがいまも生きていれば、それをGIF画像ではなく、ループする縦型ショート動画に喩えただろう。

過去の無反省な理想化に結びつきうる意味的ノスタルジーと、過去っぽさを擬態して現在のアテンションのなかで一切を均質化するテクスチャの煉獄。そこに挟まれた僕たちは、過去・現在・未来をもう一度、もぎ取り直す必要があるのではないか。そのヒントはどこにあるだろうか?
この問題は、僕にとっては現代の批評が取り組むべき問題だと思われる。

四月から行う連続哲学セミナー「擬似現在を乗り越える」で僕が皆さんとともに考え、議論したいのは、まさにこの問題である。

セミナー内では、これまでに取り組んできた僕の仕事を噛み砕いて紹介しながら、次に一歩進める作業を行う。ここまでに論じてきたような問題に対して、より本格的に哲学的、美学的、批評的なアプローチを行う。ただ、これは新しい問題系だから、進む道はとても蛇行的で実験的なものになると思う。
こうした実験的な取り組みに関心を持っていただける方、広く思想に関心がある人、思想史を学んでみたい人、自分の仕事に何か新しいアイディアを求めている人、自分でも論文や批評を書いてみたいと思っている人たちに、セミナー「SSP(哲学のシークレット・サービス)」は向いていると思う。
これまでの二回の講義でも、多くの方々、とくに人文的なアイディアを仕事に活かしたいという方々に好評をいただいた。今回からは学生向けの料金も設ける。

最後に今回の講義で行いたいことをとても素朴な言い方で要約すると、手前のテクスチャの誤魔化しに支配された擬似現在のなかで、毎日を生きる手応えを作り直すことだ。
そのために、それぞれ別の形でこの問題に取り組んでいると思われる研究者やアーティストをゲストとしてお呼びさせていただいた。みなさんとのコミュニケーションの時間もできるかぎり設けたいと思う。
このエッセイは、この連続講義のための準備であり、小さな助走のひとつである。ぜひ、みなさんとともにこの問題を考えてみたい。

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