宇都宮春彦の日常

 宇都宮春彦は、経理部で働いている。芝刈機メーカーに新卒で入社して、もう七年目の二十九歳。小さな頃から人とのコミュニケーションが不得手で、休み時間には友人と談笑するよりも、ひたすら机に齧り付いてドリルを解いている方が落ち着くようなところがあった。仕事でも経費の精算や取引先への支払いについてあれこれ社員とやりとりするのは気が進まないが、エクセル表と睨み合っているときは時間の経つのを忘れることができた。
 毎週月曜日の午前中は、各所へのメール返信や一週間のスケジュール確認など雑務をこなすうちに全社員朝礼の時間になり、それが終わるともう昼食の時間だ。今日も宇都宮春彦は会社の最寄りのコンビニエンスストアへ行き、塩むすびと茹で卵と野菜スティックを購入する。昼食は大概この組み合わせである。たまに気が変わったときは、茹で卵をバジル味のサラダチキンに変更する。毎日昼休みになると屋上に上がって野菜スティックをばりぼりと頬張る宇都宮春彦。陰で数人の女性社員からウサノミヤさん、ウマノミヤさんなど、からかいと親しみ混じりに呼ばれていることには無論気づいていない。
 月曜日の宇都宮春彦は一週間のうちで最も元気がないので、早めに仕事を切り上げて帰宅する。電車で開く本はいつも決まって、アンリ=ギュスターヴ・パルマンティエの『漂流者』。ゆるやかに連なる三部作のうち、完結編が特にお気に入りで、繰り返し読んでいる。一年前まで恋人だった女には、同じ本ばかり読んで飽きないの、と尋ねられたことがある。その問いには新鮮に驚いた。宇都宮春彦にとって、予想通りの出来事が目の前でなぞられてゆくさまは心の安寧を与えてくれるものであり同時に、ときによってまったく同じ文字の羅列が違ったように感じられることはしみじみと愉快なのだった。
 地下鉄から地上に出ると、パン屋に掲げられた「タイムセール」の文字が目に入る。その店は少々高価だが味が良く、セールを見かけたら大抵寄っていく。宇都宮春彦は数人の列の最後尾につき、首を伸ばしてショーケースに並んだパンを眺める。宇都宮春彦の好物、アーモンドデニッシュはまだ売れ残っている。
 宇都宮春彦は、ショーケース越しに店員と対話して購入するタイプのパン屋が苦手である。自分の番がくるまでに絶対に注文を決めておかなければならないという緊張感、それに、店員がパンを一つひとつ取り出して袋に詰めてゆくのを尻目にどれほどの速さで注文を唱えあげるのが適切なのかという悩ましさ。
「アーモンドデニッシュと、コーンマヨブレッドとくるみパン」
 今日もなんとか眉をひそめられることなく注文を終えることができ、安堵する宇都宮春彦。財布とは別に持ち歩いているポイントカードケースのなかからパン屋のカードをすばやく取り出す。
「こちら、いっぱいになりましたので、次回五百円分の商品券としてご利用いただけます」
 一年三ヶ月かけて貯めてきたポイントが、ついに満タンになった。小躍りしたくなるほどうれしい。ポイントカードは、時間をかけただけ貯まるので好きだった。だから宇都宮春彦が集めるのは、有効期限が無期限のカードだけ。知らない街でふらりと立ち寄った店で、その日のぶんのひとつだけスタンプが押されたカードを受け取ると、いつかふたつ目が押される日のことを思って心が浮き立つ。仮にそんな日が訪れることはないとしても。
 晴れやかな表情でパン屋をあとにする宇都宮春彦と、肩がぶつかる。
 私は、手にしたメモ帳を取り落とした。
「あ、ごめんなさい」
 宇都宮春彦はメモ帳を拾い上げ、私に手渡す。そして、ありがとうございます、とつぶやく私の目を見ることもなく、颯爽と歩き出した。私は宇都宮春彦の後ろ姿を見つめる。
 知っている。宇都宮春彦は、次のパチンコ店の角を左に曲がる。その道をしばらくまっすぐ行って、美容室とレンタカーショップの間の道を左に入る。そして十メートルほど進んだ左手の、小さなアパートに姿を消す。私はその角部屋に明かりが灯るのを確認して、とぼとぼと家路につく。

 翌朝、私はいつものように一番乗りで職場へ到着する。更衣室で制服に着替え、静まり返った朝のオフィスで、給湯室やトイレを黙々と清掃する。
 宇都宮春彦は、ほかの社員より少しだけ早く出社する。
「おはようございます」
 私は床にモップをかけながら、オフィスビルの清掃員がテナント社員に対して向けるにふさわしい、適度の明朗さとよそよそしさを湛えた声色と表情で挨拶をする。
「おはようございます」
 宇都宮春彦から返ってくる挨拶は、よくあるテナント社員のそれよりもわずかに実直で、湿り気を帯びている。私の後ろをすり抜け、席に着く宇都宮春彦。手にはコーヒーの紙カップを持っている。きっとそのなかには——頭にふっと浮かんだイメージを逃がさないよう、私は人気のない廊下に出て、胸ポケットのメモ帳を取り出した。
 宇都宮春彦のコーヒーカップのなかには、ほんの数滴、垂らした程度のクリームが混ざっている。なぜならそれが、宇都宮春彦の一番好きなコーヒーの飲み方だから。
 書き留めて満足するとペンをしまい、メモ帳を繰って読み返す。そこには私だけが知る宇都宮春彦の姿が記されている。癖、趣味、好物。私はそこに鼻をうずめて、インクの匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。
 エレベーターの扉が開き、またひとり芝刈機メーカーの社員が出社する。私はメモ帳を胸ポケットにしまい、おはようございます、と、快活に呼びかける。

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