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日記 死をマイナスイメージに捉えているあなたへ

死をマイナスイメージに捉えているあなたへ

【起】傷ついた身体と揺らぐ信念

2025年10月1日 記録

相変わらず、今日も日記を書いている。

3日前、処分と草刈りの現場で撒いた除草剤が足にかかってしまった。その痒みに耐えきれず手でなで、無意識に顔や身体に触れていたのだろう。気づけば顔は腫れ、かぶれが体全体に広がっていた。

鏡を見るたびに、自分の顔が自分でないような感覚に襲われる。腫れぼったい瞼、赤く染まった頬。これが今の僕だ。

この10年間、病院には行かないと決めていた。

理由は単純で、「薬や医療に頼らず、自分の身体の声を聞きながら生きたい」と思ったからだ。身体が発するサインを無視して、薬で無理やり症状を抑え込む。そんな生き方に疑問を感じていた。痛みも、痒みも、身体からのメッセージだと信じていた。

だが今回は症状が重く、「無理やり薬で抑え込むしかないか」と思い直している。

医療に背を向けてきた自分が、今になって揺れる。自分の信念を曲げることへの抵抗と、この痛みから逃れたいという欲求が、心の中で激しくぶつかり合っている。

これも一つの試練だ。自分の美学を貫くことと、現実的な苦痛に向き合うこと。どちらも正しくて、どちらも間違っている。


【承】死を意識しながら生きるということ

死について、僕は昔から不思議と恐怖を抱かない。

むしろ、受け入れている自分がいる。死期は毎日近づいている。そう思いながらここ数年を生きてきた。朝目覚めるたびに「今日が最後かもしれない」と思う。夜眠りにつくとき「明日目覚めないかもしれない」と感じる。

それは悲観ではなく、ただの事実だ。

SNSでフォロワーが増えれば増えるほど、声は広く届く。その一方で、自分の死期も近づいている気がしてならない。

真実を語る人ほど、この世から消えていく。

歴史を振り返ってもそうだし、今の時代のSNSでも同じだ。排除される、炎上する、アカウントを止められる。あるいは、重圧に耐えきれず自分から姿を消す。声が大きくなればなるほど、的にされる。注目されればされるほど、攻撃される。

それは「受け入れなければならない現実」なのだと思う。

昨日も、いろんな感情に押し潰されそうになった。「もういなくなってもいいんじゃないか」と頭をよぎった。共通点を探すと、自分はどうやら人に期待しすぎている。筋を通してほしい、協力してほしい、約束を守ってほしい──そんな気持ちが裏切られると、自分の存在価値が揺らいでしまう。

「自分が間違っていたのか」「信じた自分が愚かだったのか」

そんな問いが、心を締め付ける。そしてその果てに「消えたい」と思うのだ。


【転】死と向き合うことで見えた真実

けれど、ここで気づいたことがある。

「死を意識する」ことは、決して悪いことではない。

死を考えるからこそ、今日を全力で走り抜けようと思える。夢半ばで倒れても、走り続けた自分を誇れる。走馬灯が美しいものでなくてもいい。全力で駆け抜けた過去があるなら、それだけで価値がある。泥だらけでも、傷だらけでも、走った証がそこにあれば十分だ。

世の中は「死」をマイナスで語りすぎる。

病院や社会は死を隠し、SNSは「生き生きとした姿」ばかりを映す。輝く笑顔、楽しい日常、成功のストーリー。そんなものばかりが溢れている。だからこそ、死は遠ざけられ、過剰に恐れられる。誰も死について語らない。語ってはいけない空気がある。

だが、死を意識することは本当は生を輝かせるための知恵だ。

ストア派も、仏教も、キリスト教も同じことを言っている。「いつか必ず終わる」ことを知っている人間は、今を大切にできる。死を受け入れる者は、生を深く味わえる。永遠など存在しないと知っているからこそ、今この瞬間が尊い。

僕にとって死は、負けや逃避ではない。むしろ「生きることを強く意識させる存在」だ。

ただ一つ、区別しなければならないことがある。

「死を受け入れる」ことと、「死にたいと思う」ことは違う。

前者は生を肯定する行為であり、後者は心が疲弊して崩れ落ちそうな瞬間に生まれる影だ。ここを混ぜれば、自分自身を見失う。死があるから生が際立つ。終わりがあるから、今が輝く。この違いを理解することが、何よりも大切なのだ。


【結】それでも走り続ける理由

僕はその境界を歩いている。

だが、このギリギリの場所に立つからこそ、見える景色がある。人に期待しすぎて失望しても、それでも人と関わろうとする自分。真実を語る者が消えていくのを見ても、それでも声をあげ続けようとする自分。

それは愚かかもしれない。

でも、愚かであることを恥じる必要はない。効率的に生きることが正解なら、誰も夢など追わない。合理的に判断するなら、誰も人を信じたりしない。

「死期を意識しながら走り抜ける」ことこそ、僕の生き方なのだと思う。

今日も、かぶれの痛みに耐えながら書いている。

この痛みも「生きている証拠」だ。痛いということは、まだ感じる力があるということ。苦しいということは、まだ心が動いているということ。

もし2日後に死ぬとしても、今日の日記を残した自分は確かに存在している。

死を受け入れながら、それでも走る。

僕の声が届く限りは。誰かの心に、何か一つでも残せるなら。それだけで、走り続ける理由になる。


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文字数:約2,150文字

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