命の使い方
ステージ4、全身転移。それでも私は、いま笑っている。 サトシ
プロローグ 20万人に一人
βHCG、2330000万。健康な人なら、高くてもせいぜい「3」程度の数値だという。肺のレントゲン写真は、医療の知識など何もない私が見ても、はっきりわかるほど真っ白だった。小脳に転移した腫瘍は、脳幹を圧迫する寸前まで膨らんでいた。
三年前、私はステージ4、全身転移の末期がんだった。病名は「絨毛がん」。聞いたことがある人は、まずいないと思う。本来は妊娠した女性に多く発生するがんで、男性が罹る確率は十万人に一人ともいわれる、極めて稀な病気だった。
それから三年。私は今、とても元気に過ごしている。定期検診は月に二回から、三か月に一度まで減った。主治医は「ゼロではないが、再発の可能性は極めて低い」と言ってくれている。
「なぜ、生きていられたのか。」
この本は、その問いに対する私なりの答えだ。死の淵から戻ってきた一人の料理人が、何を見て、何を感じ、何を変えたのか。同じ境遇にいる方や、その家族の目に留まり、ほんの少しでも力になれたら、これほど嬉しいことはない。
これは闘病記であり、同時に、当たり前だと思っていた毎日がどれほど有り難いものだったかを思い出すための記録でもある。
第一章
異変
恥ずかしさより、痛み
事の発端は、睾丸の痛みだった。今までに感じたことのない、重く鈍い痛み。ジンジンとした違和感が、数日間続いた。
どんな病院に行けばいいのかもわからず、知人に相談すると「泌尿器科だよ」と教えてもらった。正直に言えば、泌尿器科というのは性病になった人が行く場所だと、勝手に思い込んでいた。少し気が引けたが、背に腹は代えられない。すぐに病院へ向かった。
診察は予想通り気恥ずかしかったが、医師の診断は早かった。原因は「左睾丸の静脈瘤」。治療には手術が必要だという。即決で手術を依頼したが、その病院では対応できず、より大きな病院への紹介状を書いてもらうことになった。その日は痛み止めをもらって帰った。
肺活量の検査で、タバコのことを考えていた
数日後、紹介された病院で手術の日程を決め、術前検査を受けることになった。レントゲン、採血、検尿、肺活量、心電図。人生で初めての肺活量検査は、思った以上に大変だった。
結果が出るまでの間、私は病院の喫煙所でコーヒーを片手に一服しながら、「タバコの吸いすぎで肺活量の検査がうまくできなかったのかな」と、ぼんやり考えていた。一日に少なくとも一箱は吸う、相当な愛煗家だった。
しばらくして診察室に呼ばれた。そこには、先ほど撮ったレントゲン写真を険しい顔で見つめる医師の姿があった。
「肺に写っている、この白い影。わかりますか。これは、明らかにがんが転移した影なんです。」
その瞬間、頭に浮かんだのは「がん」への恐怖ではなかった。「えっ、癌? あ、まずい。もうタバコが吸えない」——これが、最初に思ったことだった。次に浮かんだのは、「肺にがん細胞があったから、あの検査が苦しかったのか」という、妙に冷静な納得だった。今思えば、潜在的に「がん」という現実を受け入れられていなかったのかもしれない。
医師は続けた。
「転移しているということは、原発が別にあって、進行している状態です。がん専門の病院に紹介状を書きますので、行ってください。」
これが、すべての始まりだった。
第二章
奈落
絨毛がんという病
私が患っていたのは「絨毛がん」というものだった。絨毛とは、器官を覆う膜から突出した微細な突起で、腸の粘膜や子宮に多く存在するものらしい。その絨毛細胞ががん化したものを絨毛がんと呼ぶ。本来は妊娠した女性に多く発生し、男性が罹るのは十万人に一人程度という、極めて稀なケースだった。余談だが、男性でもこのとき妊娠検査薬を使うと陽性反応が出るという。
このがんは血行性転移——血管を介して他の臓器に転移すること——を非常に起こしやすい。私の場合も、肺と脳を中心に、ほぼ全身へと広がっていた。
骨肉腫の疑いから、緊急入院へ
病院で最初に案内されたのは「腫瘍軟部科」だった。原発がわからないため、まずリンパや骨、筋肉にできる「骨肉腫」が疑われた。この日は問診のみで、PET検査の予約を取って帰った。
後日のPET検査で、がんの転移は肺だけでなく全身に及んでいること、そして原発が下腹部にあることがわかった。だが問題があった。原発は別の臓器の裏側にあり、さらに臓器に巻き付くような形になっていて、手術は極めて困難だという。次回はMRIを撮る予定となり、今後の方針は医師同士で話し合うとのことで、その日はそのまま帰宅した。
症状はどんどん明確になっていったが、私自身はそれほど危機感を持てていなかった。一方で妻は、「このままでは本当に大変なことになる」と感じていたという。妻は私に、やりたいことや行きたい場所がないか、何度も聞いてくれた。
私が答えたのは「実家」だった。妻はすぐにレンタカーを手配し、息子と娘を連れて、私を実家まで送ってくれた。
『うるせー』と娘を怒鳴った日
だが、このあたりから体に異変が出始めた。実家に着いても、強い倦怠感で動きたくなくなった。頭痛も酷く、生後ゼロ歳の娘の泣き声が頭に響き、私は娘に向かって「うるせー!静かにしろ!」と怒鳴ってしまったという。後でそれを聞いたとき、自分でも信じられなかった。
一泊して家に戻り、予約していたMRIを撮りにクリニックへ行った。しかし症状はさらに進行していて、頭痛、吐き気、めまい、倦怠感が激しく、横になることすらできない状態だった。検査をするかどうか、妻が看護師と相談している最中に、私はその場で吐いてしまった。
これを見た看護師の判断で検査は中止となり、すぐに大きな病院へ向かうよう促された。到着したとき、私はもう自分の足で立つこともできず、車椅子で処置室に運ばれた。医師は私の状態を見るなり、緊急入院を即断した。強い薬で痛みは一旦和らいだ。
脳幹を圧迫する寸前で
数日後、痛みが和らいだところでMRIを撮った。すると、脳に転移していた細胞がさらに大きくなっていることが判明した。原発よりも先に、脳の腫瘍を取らなければ、脳幹を圧迫して死に至る——そこまで進行が進んでいた。
六月中旬に病気がわかってから、わずか三週間でここまで進行していた。手術のため頭にマーキングが施され、後日、全身麻酔で開頭手術が行われた。手術時間は約九時間。術後、ICUで意識が戻りかけたとき、聞こえてきた会話で、自分の身体が本当に危機的な状態にあることをようやく理解した。
「術後のレントゲンで、まだ頭の中にがん細胞が残っています。明日もう一度、開頭手術を行います。」
妻が「えっ、明日ですか。手術に耐える体力は残っているのでしょうか」と医師に尋ねる声が、私の記憶の最後だった。
翌日午後三時、二度目の手術が始まった。時間にして約八時間。再びICUで目を覚ましたとき、最初に思ったのは「あ、俺、生きてる」だった。
私自身に記憶はまったくないが、家族と一緒に、勤めている会社の社長もずっと付き添ってくれていたという。手術室へ担架で運ばれていく私に、二歳の息子が笑顔で「パパ、いってらっしゃい!」と手を振っていた——その光景は、後になって、言葉にならない感情として私の中に残った。
二日連続の手術。最初から最後まで応援してくれた家族、義母、会長、社長、たくさんの人たちのおかげで、私は今、ここにいる。
第三章
支えてくれた人たち
妻という存在
病気にかかったとき、私には二人の子どもがいた。長男は二歳、長女は生まれたばかりだった。妻は山口県出身で、東京には心の拠り所となる実家もない。そんな状況の中で、私はがんを患った。
会話もまだ十分にできない子ども二人を抱えながら、心の拠り所もない土地で夫の看病をする——今、同じような状況にいる方なら、その大変さがすぐにわかるかもしれない。間違いなく、私よりも妻のほうが大変だったはずだ。
それでも妻は弱音を吐かなかった。長男を一時保育に預け、長女を抱えたまま、がんから回復した人の講演やセミナーに足を運び、たくさんの情報を私に伝えてくれた。手術後、意識がしっかり戻ってからは、毎日病院に通ってくれた。
退院後も、「食べることで身体はできている」と学んだ妻は、家の調味料をすべて変えてくれた。醤油、味醂、砂糖、塩、味噌——どれも自然な原料からできた、身体に良いものへ。近所のスーパーには売っていないことも多く、値段も決して安くはなかった。手術費や入院費がかさむ中でも、妻は私の身体を優先してくれた。
このブログを書き始めたのも、もとは妻のアドバイスだった。最初は「本を書く」と意気込んでペンを握ったものの、起承転結がうまくまとまらず、妻に相談したところ「短編にしたら?」と言われ、それがブログを書くきっかけになった。
私の妻は、日本一だと思っている。
病気になれば、誰でも自分のために必死になる。それは当たり前のことだ。誰だって長生きしたいし、やりたいことも、死にたくない理由もある。けれど実際には、自分のことではないはずの家族のほうが、自分以上に考え、動いてくれていた。
見舞いに来てくれた人々
結婚して六年。三年目に病に倒れ、死の間際まで行った。二人の子どもを抱えながら看病してくれた妻には、本当に頭が上がらない。
勤めていた会社の会長、社長、メンバーたち、そして働いていた居酒屋のお客様までが、お見舞いに来てくれた。たかが一従業員のために、自分の時間を使って病室まで足を運んでくれるお客様がいる——それだけで、感謝してもしきれなかった。一緒に現場で働いていた仲間も、休みのたびに顔を出してくれた。誰に会っても、嬉しくて、ありがたくて、毎回涙をこらえるのに必死だった。
病室には、メンバーからの応援メッセージが書かれた横断幕、常連のお客様たちが折ってくれた千羽鶴、好きなアーティストからの直筆サイン(たまたまアーティストの知人がいて、頼んでくれたものだった)など、たくさんの人の気持ちが集まっていた。看護師さんから「サトシさんは、いったい何者なんですか」と聞かれるほど、毎日たくさんの見舞いと、明るい雰囲気が絶えなかった。
会社からは治療費の一部を支えてもらい、会長は多くの人を紹介してくれた。同じようにがんから復活した人、さまざまな民間療法に関わる人、私が好きな野球の選手や関係者——とにかく前向きになれる、ワクワクできる環境を作ってくれた。
私一人では、本当に何もできなかった。たくさんの人に支えられて、今、生かしてもらっている。だからこそ、この命は自分のためだけにあるのではなく、支えてくれた人たち、そしてこれから出会う人たちのために使っていきたいと思っている。
第四章
三つの治療と、ある疑問
手術、放射線、抗がん剤
がんの治療は大きく三つに分けられる。手術、放射線、抗がん剤。私はすべての治療を経験した。どれも、本当に辛かった。
まず手術。脳への転移により、二日連続の開頭手術を受けた。ICUから一般病棟に移った直後は、痛みよりも、水分を好きなように飲めないことのほうが辛かった。もう一つの手術は、下腹部にある原発を取り除くためのものだった。私にとっては、頭の手術よりもこちらのほうが痛みを強く感じた。さらに内臓系の手術は、翌日には強制的に歩かされる。これが本当につらく、できれば勘弁してほしかった。
次に放射線。私が受けたのは全頭照射だった。照射時間は一分程度。終わった直後は何も感じないのだが、少し時間が経つと、激しい吐き気と倦怠感に襲われた。この治療を、土日を除いて十四回受けた。この経験を通して、放射性物質の恐ろしさを身をもって知った。同時に、広島・長崎で被爆した方々、そしてそれでも屈することなく日本を立て直してくれた先人たちへの感謝の気持ちも湧いた。
最後に抗がん剤。投与された薬は「BEP」「TIP」「VIP」の三種類。その副作用は、一般的に語られている通り、本当に過酷だった。吐き気、味覚の消失、脱毛、手足のしびれ、むくみ、めまい、貧血、倦怠感——すべてを経験した。
輸血と抗がん剤の悪循環
ある日、抗がん剤治療そのものに疑問を持つようになった。抗がん剤を投与するための点滴、輸血、飲み薬。あれ、これは悪循環ではないか——輸血をしても、抗がん剤によってまた貧血になる。そしてまた輸血のために抗がん剤を使う。
ここで、私は抗がん剤治療をやめる決断をした。誤解のないように言いたいのは、抗がん剤によって助けられた事実を否定するつもりはまったくないということだ。ただ、自分の目的と治療の目的がずれていると感じたのだ。
私の目的は「元の生活に戻ること」。先生の目的は「がん細胞を無くすこと」。
私は最初の段階で、肺に転移した細胞は取りきれないと言われていた。だから、自分の体内にがん細胞が残ることは、ある程度受け入れていた。そのがん細胞も、間違いなく自分自身の細胞だ。共存すると決めていた私にとって、医師の目的との間に、大きな疑問が生まれたのは自然なことだった。
第五章
身体を変える
腸の体操と、咀嚼五十回
抗がん剤を止めて、私が何をしたのか。これは決して抗がん剤治療を否定するものではなく、あくまで一つの参考として、抗がん剤治療に前向きでない方の助けになればという思いで書いている。
まず始めたのは、いわゆる「腸活」だった。朝起きたら白湯を飲み、お腹の三か所を、右手の中指と薬指の二本で時計回りに百回ずつ、朝晩マッサージする。
食べ方も変えた。一口五十回の咀嚼。麺類でも肉でも同じ。咀嚼を増やすことで、胃腸の消化活動を助けることができる。一口の量も、口いっぱいに入れるのではなく、片方の頬に収まる程度に抑える。これも、胃腸への負担を減らすための工夫だった。
腸の体操と合わせて、腹式呼吸も取り入れた。腹式呼吸はリラックス効果が高く、腸活との相性も良い。抗がん剤を止めても免疫力は著しく下がっていたため、入院生活は続いたが、朝日を浴びたいと看護師さんに相談し、室内で朝日を浴びられる場所を教えてもらい、腹式呼吸をしながら朝日浴も行った。
お菓子をやめ、自然薯と重ね煮へ
身体に入れるものとして試したのは「ミキプルーン」と「温泉水」。ミキプルーンは、健康補助のために今も続けている。目に見えない治療としては「プラズマパルサー」というものも経験した。電子を身体に照射し、細胞の働きを活発化させるという治療法だという。
最後に、いちばん効果を実感したのは食事だった。私はもともと、和菓子、洋菓子、スナック菓子、アイス、菓子パンなど、甘いものが大好きだった。仕事柄ゆっくり食事をとる時間がなく、仕込みの合間にさっと食べられる菓子パンをよく口にしていたし、休みの日にはご飯の代わりにお菓子を食べることもあった。病気になってからは、それを一切やめた。正確には、我慢した。
「がん」は生活習慣病である。
病院での治療も必要だが、それだけで治すには限界があると、私は思っている。体内にがん細胞が残っていても、生活習慣を変えることで、身体は自然と良い方向へ進んでいく。それができなかったからこそ、がんという病気を通して、身体が私にメッセージを送ってくれたのだと、今では受け止めている。
自然薯と、重ね煮の力
ここからは医学的なエビデンスというより、私自身の経験と考えに基づく話として読んでほしい。ここでいう「エネルギーの高い食べ物」とは、カロリーのことではない。食材そのものが持つ力のことだ。
日本には四季があり、季節ごとに収穫できる野菜や魚、果物がある。そして私たちの身体も、四季に応じて求めるものが変わる。汗をかく季節には水分の多いトマトやきゅうり、スイカを。寒い季節には身体を温める南瓜や生姜、唐辛子を。お正月で疲れた胃腸を整える時期には、苦味の強い春野菜を。旬の食材は、自然と身体が欲するもの。それを食べることで身体が喜ぶ食材を、私は「エネルギーの高い食べ物」と位置づけている。
旬とは別に、エネルギーの高い食材として挙げたいのが「自然薯」だ。日本古来の大和芋で、美容や若返り、免疫力アップ、体内デトックスなど、さまざまな効果があるといわれている。調理法にも工夫がある。ご飯を炊飯器ではなく土鍋で炊くと、お米の持つ力をより発揮できる。「気」という字は、昔は「氣」と書かれていた。お米が炊ける力で土鍋の蓋が持ち上がる様子からできた漢字だという説もある。
もう一つ大切にしているのが「重ね煮」という調理法だ。食材が持つ水分だけを使い、無加水で煮込む。椎茸、玉ねぎ、人参の三種類を使い、切り方にもこだわる。トントントンと早く切るのではなく、一回一回、食材への感謝を込めて切る。野菜も、言葉は発しないけれど生きている。雑に切られるのと、感謝されながら料理されるのと、どちらがいいか——人間で考えれば、答えは自然とわかる。
椎茸の石突も、玉ねぎの根のひげの部分だけを切り落とすだけで、皮も茶色の部分だけを剥く。人参の皮も剥かず、葉の部分も捨てない。食材のすべてを使う。「一物全体」という考え方だ。私たちの身体に不要な部分がないように、野菜にも不要な部分はない。
重ね煮にエネルギーが宿る理由は、野菜の重ね方にある。鍋の一番下に、上に向かって伸びる椎茸を。二番目に、下に根を張る玉ねぎを。最後に、下に伸びる人参を。上に伸びる食材を下にして生まれる「下から押し上げる力」。下に伸びる食材を上にして生まれる「上から下がる力」。この陰と陽のバランスが、大きなエネルギーを生み出すのだという。これを味噌汁の具にすると、発酵食品の力と相乗し、さらに強いエネルギーになる。
第六章
心を変える
店長選挙という修行
がんを宣告されても、私はほとんど動揺しなかった。本当に、タバコのことが一番に頭をよぎったくらいだった。死ぬかもしれない、治らないかもしれないという不安は、一切なかった。自分に無関心なのではないかと思われるかもしれないが、その理由は、後になってはっきりとわかった。
当時、私は都内の居酒屋で総料理長として働いていた。その会社は「独立」を掲げ、三年で独立できる人材を次々に輩出し、その多くが繁盛店を経営している。独立を志していた私は、その会社を最後の修行場として選んだ。
この会社には、独特の制度があった。一年に一度、社内最大のイベントとして「店長選挙」が行われる。ここで働く人は皆、独立を目指す人だけだ。独立前に、店長として一店舗を一年間任される。ほぼ全員がこの選挙に立候補し、課題をクリアしながら、最後には全社員の前でプレゼンを行い、従業員からの投票で、その年の店長が決まる。
料理の腕がいい、接客が上手い、他社での実績がある——それだけでは、店長にはなれない。基準になるのは「心」。正確には別の言葉で表現されるが、わかりやすく言えば「相手のために何ができるか」「困難が現れたとき、できないと諦めるのではなく、どう乗り越えるか」という前向きな考え方の強さだった。
当たり前のことを当たり前以上にやり続け、明るく前向きであること。それが社内研修と店舗での営業を通して育っていく。私もこの選挙に挑み、店長の座を手にした。この一年間は濃厚で、無意識のうちに「前向き」「ポジティブ」という思考が、身体に染み込んでいった。
今、私が普通に生活できているのは、この会社があったからだ。
がんを宣告されても、「絶対に治る」としか思わなかった。少し休憩できると感じて、むしろポジティブだった。一ミリも「なぜ自分がこんな目に」とは思わなかった。
脳は現実とイメージを区別できない
病院というのは、一般的に怪我や病気で生活に不自由が生じた人がお世話になる場所だ。そこにいる人の多くは「なぜ自分なんだ」「このまま死んでしまうのではないか」という怒りや不安を抱えている。考えてみれば当然のことだ。好んで入院や通院をする人はいない。
では、私は何をしたのか。とてもシンプルだった。「治ったら何をしたいか」を、できるだけ具体的に想像することだ。
ただ「何かを食べたい」「どこかに行きたい」というだけでなく、「何月何日に、誰かと、どこへ行って、こんな会話をして、こんな表情をして、二人でお腹を抱えて笑っている」——そんな一瞬一瞬を、まるで今その場にいるかのような感覚で、具体的に、鮮明に思い描いた。
人間の脳は、現実とイメージを完全には区別できないという。マイナスのことを考えれば、脳は「マイナス」と判断し、マイナスのホルモンを出す。逆にプラスのことを考えれば、脳は楽しんで、幸福なホルモンを出す。体と気持ち、プラスとマイナスの周波数は、互いに共鳴し合っている。
さらに、イメージだけで終わらせず、それを言葉にする。これが大切だと思っている。言葉にすることで、そこに思いが宿る。それによって、自分だけでなく、周りの人にも幸せを分けることができる。
私は病院の休憩室で、自分の夢を語った。「自分の経験を通して、がんや病気で悩んでいる人、ネガティブになっている人を、一人でも減らすこと」。「食べることで元気になる、病気を防げる料理を提供すること」。今、日本での死因の第一位はがんだという。二人に一人ががんになる時代に、下を向く時間を少しでも短くできるお手伝いができたら、と考えている。
こう言いながらも、私自身、まだ「寛解」と言われたわけではない。検診の間隔は長くなったが、三か月に一度の検査、半年に一度のCTやMRIは今も続いている。何があっても前向きに——それを大切に、これからも生きていきたい。
第七章
ありがとうの原点
「当たり前」の対義語
「ありがとう」の対義語を知っているだろうか。それは「当たり前」だ。漢字で書けば「有難う」——有ることが難しい、ということ。そのことが起きたときに発する言葉が「有難う」になる。
一日にどれくらい「ありがとう」を言っているだろうか。誰かに何かを手伝ってもらったとき、困っていることを助けてもらったとき、しっかり心を込めて言えているだろうか。正直、私は言えていなかった。自分は上司だから手伝ってもらうのが当たり前。家に帰れば妻がご飯を作ってくれるのも、外で働いているのだから当たり前。今思えば、ひどい考え方だった。
その「当たり前」が間違っていると教えてくれたのが、がんだった。入院中、たくさんの仲間が代わる代わる、毎日のように見舞いに来てくれた。そのとき初めて、本当の「ありがとう」や「感謝」というものに気づけた。
生んでくれて、ありがとう
私が勤めている会社も、「ありがとう」を大切にする社風だった。そこで学んだ「ありがとうの原点」は、両親に対する「生んでくれてありがとう」「育ててくれてありがとう」という言葉だった。今、自分がここに存在していることは当たり前ではない。両親がいたから、自分が存在している。すべての「ありがとう」の原点は、ここにあると確信している。
会社では、言葉だけでなく、すべての従業員が自分の誕生日に両親へ「生んでくれて、育ててくれて、ありがとう」を伝えることになっていた。これが、最初はとても恥ずかしい。従業員の多くは二十代前半で、今さら両親にありがとうなんて言えないという人も少なくなかった。それでも、しっかり伝えられないと正社員として認めてもらえない。だから皆、勇気を出して伝えていた。
私もそうだった。この会社に入社したのは二十八歳のとき。二十歳前後のメンバーが多い中での入社で、かなり恥ずかしかったが、伝えた。だが、私の両親は離婚していて、母には伝えられたものの、父には伝えられていなかった。
二十年ぶりの再会
「両親にしっかり伝えなさい」と、もう一度教えてくれたのも、がんだった。体調がある程度良くなってきたころ、ふと、父に会いたいという感情が芽生えた。それまで、ほとんど関心を持っていなかった父に対して、自然とそう思えたのだ。
母に頼み、数日後、父が見舞いに来てくれた。およそ二十年ぶりの再会だった。二人で泣きながら過去を振り返り、三十四歳になって初めて、父に「ありがとう」を伝えることができた。
病気がきっかけで、父との交流も増えた。今では、私が働いている居酒屋にもよく顔を出してくれている。
私の周りにも、がんを患った人がいる。話してみると、過去に両親や兄弟と喧嘩をしたまま、未完了の問題を抱えている人が——驚くほど、全員だった。がんという病気は、自分自身としっかり向き合ってほしい人のところに、神様から贈られる「プレゼント」として訪れるのではないか。私はそう、勝手に思っている。もちろん代償は大きい。だが、命があれば、何でもできる。
第八章
脳から見えたもの
十六歳の事故と、脳幹という言葉
脳に興味を持つようになったきっかけは、実は今回のがんが最初ではない。十六歳のとき、バイク事故で頭蓋骨骨折と急性硬膜外血腫を負い、三日間意識不明という大事故を経験していた。幸い、大きな後遺症は残らなかった。今回のがんの手術を含めると、開頭手術は人生で三回になる。
そして三年前、脳への転移が見つかったとき、初めて「脳幹」という言葉を聞いた。調べてみると、簡単に言えば、生きるために必要な呼吸や汗、涙、唾液などをコントロールする部分だという。脳は「右脳」「左脳」「大脳」「小脳」の四つで構成されていると思い込んでいたので、こんな部位があったのかと、病気を通して初めて知った。
西洋医学は左脳、東洋医学は右脳
「右脳タイプ」「左脳タイプ」という言葉は以前から聞いたことがあったが、正直、よくわかっていなかった。病気をきっかけに、脳神経外科の医師に話を聞く機会があった。
右脳は直感脳と言われ、知覚や感性が強い人が多いとされる。対して左脳は、思想や論理が強いという。脳の働きについて書かれた本を読んでいたとき、「これだ」と感じた言葉があった。「西洋医学は左脳タイプ」「東洋医学は右脳タイプ」という考え方だ。
脳には左右どちらも必要だが、医学にも西洋と東洋、両方が必要なのではないかと思う。病気になったとき、西洋医学——抗がん剤や手術——だけでは治らないことがある。なぜなら、本当の原因は、その治療が見ている場所にはないからだ。西洋医学は、身体の悪い箇所だけを見る。がんであれば、腫瘍のある場所を目掛けて治療をする。
一方、東洋医学は、病気になったとき身体全体を見る。がんは、以前も書いたように「生活習慣病」だ。偏った食生活、極端に短い睡眠時間、強いストレス——悪い箇所だけを取り除いても、生活習慣そのものを変えなければ、完治はあり得ない。
これは、私自身の経験と深く重なるものだった。西洋医学の目的は「腫瘍をなくすこと」。当事者である私の目的は「元の生活に戻ること」。結局、右脳タイプ、左脳タイプという考え方があっても、どちらが正しい、悪いということではない。陰陽の考え方と同じで、バランスこそが大切なのだと思う。
エピローグ これからの命の使い方
この本のタイトルにした「命の使い方」は、私の生き方そのものだ。私の命は、私一人のためだけにあるのではない。支えてくれた多くの人たち、そして、これから出会うすべての人たちのために使っていきたいと思っている。
具体的に何をするのか、まだすべてが明確になっているわけではない。けれど、この本を読んで、少しでも光が見えた、お役に立てたと感じてもらえる人がいれば、それ以上に嬉しいことはない。
病気になった時、誰でも自分を治そうと必死になる。それは当たり前のことだ。けれど、本当は、自分のことではないはずの家族や仲間が、自分以上に考え、行動してくれている。今、闘病中の方がこの本を読んでくれているなら、体調が落ち着いてきたら、ぜひ奥さんや家族に「ありがとう」を伝えてみてほしい。
* * *
二人に一人ががんになる時代だという。私は、寛解と言われたわけではないし、これからも検査は続く。だが、何があっても前向きに——その思いだけは、これからも変わらない。
この命を使って、がんや病気で悩む誰かの時間を、ほんの少しでも短くできるなら。食べることで元気になり、病気を防げる料理を、誰かに届けられるなら。そしてその誰かに寄り添えるなら。
それが、私がこれから歩んでいきたい道だ。
生んでくれて、ありがとう。育ててくれて、ありがとう。支えてくれて、ありがとう。
この本を、ここまで読んでくださったあなたにも、心から——ありがとうございます。
