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ローマ人への手紙10章14節ー17節

「良いことの知らせを伝える人々の足として」
2026年の始まりを新鮮な驚きをもって迎えましょう。私たちに与えられたみ言葉でもパウロは驚いています。どうしてという疑問の言葉を重ねるのは、神が起こして下さったみわざを見つめて感嘆するからです。呼び求めることができるのも、信じることができたのも、聞くことができたのも神が始められたからです。注意深く読むとここには命令形はひとつもありません。どこかにいけとも、何かをやれとの叱咤激励の声ではないのです。

むしろパウロはできない、できない、できないと人間の側の無力さを重ねていきます。神が何かを起こしてくださらない限り人は何もできないという告白は真実です。しかし神が用意周到に起こしておられることが恵みとして順番に並べられていくのです。だからこそ現に福音はわたしのところにまで届いたではありませんか。

もちろん、何もするなとも、どこにも行くなとも命じられているわけでもありません。神のための行動はもちろん尊いのですから。しかし、遣わされなくては宣べ伝えられないのです。遣わすのはどなたでしょう。神なのです。それなら、どんなに熱心でも、神が遣わしたわけでもない行動の危険性さえあるのです。仮に神に対して熱心でも、その行動が自分の要求を満たすものにすぎないなら、神の義に従ったとは言えないとパウロが言うように。

従って、良い知らせを伝える者の足が美しいのも、成果の評価などではありません。どれだけ遠くへ行ったか。どれだけ多くの者を救ったかが中心ではない。神の福音が思いもよらないところへ届いている恵みです。神は弱い人間の足を用いて、福音を届かせてしまわれる。後で振り返ってみたときにああ、あの足は美しかったのだとわかるのです。たとえ泥まみれでも、傷だらけでも、福音の内容そのものが美しいのです。

しかし、やがて私たちはいけなくなる時がきます。大きい声で語れなくなる時もきます。足が動かなくなるときもあります。しかし、それで自分を責めるのはやめにしましょう。動けなくなった自分には価値がないなどと決めつけてもいけない。過去の行動だけが信仰の根拠なら、今行動できない自分を支える信仰の言葉が見つかりません。ところが私たちの動きが止まってしまったとしても、遣わす者を起こしたもう神は今も働き続けておられるのです。

もっとも最後の最後までわたしたちに赦されている恵みがあるのです。それは福音を聞くと言うことです。キリストが語っておられることを聞き続けるのです。そのためには黙さないといけないでしょう。立ち止まらないといけないでしょう。そのうえで、もしあなたを遣わすという主の声を聴いたのならおそれないで答えて下さい。今年も主は私たちが聞いて欲しい祝福の言葉を豊かに備えて、新しい年へと招いておられます。

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