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「平和を願う島 沖縄」3


旅のそら

昨年9月、初めて沖縄を訪れた。
晴天に恵まれ、飛行中もその景色を満喫した。
だが、那覇空港からの車中と行く先々に広がるパノラマが、私を丸っぽ、視界のない背面までを優しく包んだ。
息を呑むほどの美しさだった。
空の青、海のあお、遠くに見える山々のあお
ところを変え小高い場所から海を見れば、たちまちにして海は藍で満たされた。
藍の海は果てしなく続き、どこまでも深く見えた。
そんな藍に、空の青が一体であるかのように、ともにずっと広がっている。
沖縄の天地に降り立つと、自分がこの豊かな自然から愛されているとさえ感じる。
全てを包み込んでくれる島、沖縄。
道すがら出会った人達も、駅員さんも、バスの運転手さんも、誰もがとても親切で丁寧で優しかった。
島が持つ包容力、島の人々の人懐っこさと優しさに、無条件に信頼し合える安心感が得られる。
人間本来の尊い姿だと気付かされる。

限りない蒼にだかれて
新しい航海へ

沖縄は盆地の京都よりも蒸し暑い。


摩文仁の丘から

On the International Day of Peace,
from Mabuni Hill - the final ground of the Battle of Okinawa.
May the silence of the sea and sky remind us of the preciousness of peace.

国連が定めた「国際平和デー」
戦争で最も深い傷を負った沖縄
その激戦の最終地・摩文仁の丘からはるかな海と
空に祈りを捧げます。


首里の丘

小高い丘に築かれ、曲線の石垣に囲まれた首里城。
琉球王国の歴史そのものであり、政治と文化の象徴だった。
1945年、最後の地上戦で米軍の艦砲射撃により壊滅。戦後、沖縄の人々の願いで復元されたが、近年、再び火災で焼失。後世へ継なぐために、再建が続けられている。

「礼節を守る国」と刻まれた守礼門。
幾多の困難を乗り超え、沖縄の人々の心を静かに伝え続けている。




物言わぬ語り部

幻の琉球の赤 一九志間切弁柄で再建が進む首里城。
その地下には、沖縄戦の第 32軍司令部が掘られていた。
総延長は約1,000m、坑口は5か所とされますが、多くは崩落や埋没で確認できず、発掘調査が進められている。
今回公開された「第1坑口」は、その記録の一端です。
住民の犠牲を拡大させた「南部撤退」が決定された場所。
失われゆく「記憶」は「記録」として掘り起こされ、未来へ、後世へ語り継がねばならない。

1944年、那覇市南西、豊見城の小高い丘に地下壕(全長450m)が掘られ、海軍司令部が置かれた。
すべて「つるはし」と「くわ」で掘られたものだ。
約4千の兵士が身を寄せ、連合軍の艦砲射撃を受けたという。



地球照

(月の写真)

地球照(月齢5.5)
沖縄と向き合った数日
今宵は地球照に身をまかせ
地球を見つめたい

ふてまの空

まちのど真ん中にある普天間飛行場
基地の周りには、小学校9、中学校4、高校3、沖縄国際大学があり、「世界一危険な基地」と呼ばれている。




かでな今昔

嘉手納かでな」という地名は、カリー(縁起の良い)とナ(土地)、すなわち「縁起の良い土地」ともいわれてた。
この地に広がる嘉手納かでな基地は、東京・新宿区がすっぽり収まる広さ。アジア太平洋地域で最大、極東で最も活発に運用される米空軍基地です。
ベトナム戦争期には、ここから B-52爆撃機が出撃しました。基地内には教会や学校、スーパー、ゴルフ場まで整い、まるでアメリカの「街」のような姿を見せている。
そして日本復帰前の1970年12月、隣接するコザで米兵の交通事故をきっかけに市民の怒りが爆発。
武装した米軍と約5千の市民が対峙。米軍車両が次々と放火された「コザ反米騒動」が起こりました。
耳をつんざく戦闘機の爆音と、沖縄県民の怒りの声が、いまも嘉手納かでなの空に重なり続けている。




沖縄をささえる石積み

首里城を支える石畳と石垣
珊瑚や貝を含んだ琉球石灰岩は戦火に焼かれ
破壊されても
人々の手で幾度も幾度も
積み直されてきた
悲しみを苦しみを
ひとつひとつ
石を積むように
静かに埋めながら美しい宝の島を未来へと受け継ぐ
それは沖縄の民の祈りであり
平和への希望である




沖縄の文化を象徴するシーサー

家の入口や屋根の上に置かれる
災難や悪霊を防ぐ沖縄の守り神
県庁のエントランス上部には、
5体のシーサーが、昭和の建築家・黒川紀章によって設計された。
配置は、中心から左右に30度ずつ角度を変え、かって先人たちが万国に目を向け船出したような構図。
阿吽の呼吸で、招福と防災を祈る獅子たちは、沖縄の未来を静かに見守っている。




葉陰に眠る記憶

青々としたクワズイモの葉陰にはかつて核兵器の影が潜んでいた。
1950年代から70年代にかけ、沖縄には最大1300発もの核兵器が配備され要塞化された。
作業に従事した人々でさえ、それが核の施設であることを知らされることはなかった。
澄んだ青空と緑の葉の下に、いまも沈黙の記憶が眠っている。




花の街一いちゃりばちょーで一(一度会えば、皆兄弟)

花の街一いちゃりばちょーで一(一度会えば、皆兄弟)
世界には、花の名を冠した街がある。
けれど、沖縄こそ
ー「花の街」ではないだろうか。
澄み渡る青い空に、白雲が湧き立ち、その下には、美しい花々がひらく。
旅の先々で、困って声をかければ、誰もが足をとめ、親身になって応えてくれる。
この温かさは、いったいどこから来るのだろう。
あざやかな花々とともに、沖縄の人々の心には、いつも花が咲いているのだと思う。

だからこそ私は忘れない。
今から30年前の1995年10月21日、宜野湾市で少女暴行事件に抗議する8万5千人が集まった大規模な県民総決起集会が開かれた。当時の大田知事も出席している。
「ニジティン、ニジララン」(もう我慢ならん)プラカードにはそう掲げられていた。
アメリカ総領事が知事に陳謝した際、大田知事はこう言った。
「こうした事件の再発防止を、我々はずっと要望してきたのに…事件は起こり続けるではないですか」

当時は戦後50年の節目の年だった。
昨年10月亡くなった村山富市氏が首相だった。大田知事は村山首相と米軍基地問題などについて会談した際、語り続け、積もり積もった思いを静かに迫るように首相にぶつけていたという。

「(太平洋戦争で)沖縄は日本本土の防衛の盾、防波堤とされた。なぜこれだけの犠牲を強いられ、過去50年間も協力し、過重な負担を背負わされ続けなければならないのか」
「(政府は)何一つ積極的、主体的に沖縄の問題に取り組んでこなかった」
「これは明らかに差別ではないか」

今一度、歴史認識を深め、向き合っていかねばならない。
これからも年月を経て風化させてはならない。
沖縄の人々が流した涙の歴史を知ることが、同じ日本に住む者として歩み寄れる何よりも大切なこと、本当の意味での、「いちゃりばちょーで一」(一度会えば、皆兄弟)になれるのではないか。

2019年10月、首里城が火災により正殿を含む7棟が全焼するというニュースは記憶に新しい。
首里城の修復が行われるにあたって、その作業には全国から若者たちが参加しているという。
木工技術で貢献しようという宮大工たち、関東で木造住宅の技術を磨いた人、沖縄の伝統的な赤瓦の製作に携わる瓦職人、漆塗りの復元に参加している漆芸職人。建設会社で学ぶ知識で建築設計や施工管理に関わる人、デジタル技術を活用した復元支援をする人等だ。それに、火災をきっかけに漆職人を志し京都で修行し再建に関わることを目指している漆芸職人もいるという。また高校生たちによる募金活動も展開されている。

首里城の復元は、単なる建築ではなく、文化の継承と若者の意志の結晶だ。
全国から集まった若者たちが、技術を学び、伝統を受け継ぎながら、未来へと橋を架けている。
この姿こそが、焼け落ちた首里城の中に残された「唯一の希望」だと感じた。

決して戦争を起こさないために何ができるか。
誰もが希望を持って生きていけるように。
安心して心と心を通い合わせられるように。

強く優しく温かな沖縄の人々の笑顔に「いちゃりばちょーで一」(一度会えば、皆兄弟)、沖縄の友と踊ったカチャーシーを懐かしみながら。

<参考>
朝日新聞「天声人語」
NHKアーカイブス

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