言葉で「全て」は伝わらない。__「言葉」というデジタルパンデミック。「伝えること」の誠実さ。
「デジタルパンデミック」と聞くとサイバー攻撃やSNSへの依存などをイメージするかもしれない。
しかし「言葉」というものが発明されてから、すでにそれは起こっていたとも言える。
今回は「言葉」、そして「伝えること」について考えてみたい。
正直長い。時間を無駄にしたくない方はまとめだけでもいいかもしれない。
と「伝えておく」
・「言葉」と「定義」
人間は「言葉」を使う。
「書く」
「話す」
そして近現代では
「打つ」
これらの行為は
「伝えたい」
という感情からくる行動だ。
しかし特に現代においては「伝えること」に対しての意識が希薄になっていると感じる。
「注目を浴びること」にはことさら目を向けるが、その割に「伝えること」への姿勢はどんどん歪みつつあると感じる。
何故このようなことが起こるのか。
人はどんどん「枠組み」を増やしていく。
森博嗣の作品でこんな言葉がある。
「人間は定義してから観察する」
「正解」
「二元論」
「MBTI」
「ルール」
「ハラスメント」
「コンプライアンス」
これらは「定義」であり「枠組み」だ。
それは「意思疎通の円滑化」であり、「脳の効率化」でもある。
それらは良くも悪くも作用する。
・「言葉」というデジタル信号
森博嗣作品にはこんな「言葉」もある。
「言葉はデジタルである」
デジタルというとコンピューターが扱う2進法、
「0か1か」
といったイメージだが、言葉も十分にデジタル的要素を持っている。
怒りを「0」
悲しみを「1」
と仮定してみよう。
「0」と「1」の間にも無限とも言えるグラデーションはある。
「0.123456789…」
しかし「0」と「1」を同時に表現する術はない。
人間の感情はアナログ的だ。
怒りと悲しみの間に明確な隔たりがあるかというとそんなことはない。
怒りを内包した悲しみも、その逆も、あるいは全く同時に同質にやってくることもあるだろう。
そしてそれぞれの感情にも「程度の差」がある。
0と1の要素を持つデジタルの言葉では感情を表現し切ることは無理なのだ。
悲しみの表現だけでも「哀愁・悲嘆・悲哀・憂鬱・空虚」など多岐に渡る。
そしてそれぞれの「言葉」が示すニュアンスにも違いがある。
これは日本人がデジタルに抵抗した証拠とも言えるかもしれない。
デジタルの「言葉」を細分化し、
「出来るだけ感じた事を詳細に伝えよう」
という意志だろう。
しかし前述した
「意思疎通の円滑化」
「脳の効率化」
という機能には相反する。
それが現代の
「消費社会」
の構造に合致していない。
現代では「質」はほどほどで良いとみなされる。
求められるのは「質」よりも「量」なのだ。
だから「言葉の正確性」はないがしろにされる。
このような状況は「悲嘆」の情を感じる。
・「文章」が表さないこと
こんなエピソードがある。
付き合って数年の20代同士のカップルが居る。
些細な雑談で、学生時代の共通の友達の話になる。
その共通の友達の女の子はいわゆるマドンナでクラスのほとんどの男子が恋心を抱いていた。
男性は興味のない素振りで
「みんなあの子のこと好きだったよなあ」
と呟く。
会話が途切れ、少しの沈黙のあと女性が口を開く。
「あのさあ…」
しかし男性は言いかけた女性の顔の前で手を開き、それを制する。
「言いたいことはだいたい分かる。俺もマドンナの事が好きだったのか聞きたいんでしょ?」
このエピソードが虚構かどうかは想像にお任せする。
どちらにせよ、描写する上で「最小限」の表現に留めている。
そうした意図で書かれた場合に何が生じるか。
小説家の小川哲は著書でこう記している。
「小説そのものが伏線である」
(※小川氏の著書の中ではこの言葉は現代の「伏線をもてはやすことへの警鐘」の意味合いで使われていることを誤解のないよう述べておく。詳しくは著書を是非読んで頂きたい。非常に面白い。)
逆に言えば上記のような「小説ではない」文章においては「伏線」足りえない文章、またはそもそも書かれない描写がある可能性がある。
上記エピソードの場合においては「女性の心理」や「女性の表情」などの描写はなされていない。
この時男性は「女性の表情」や「会話の間の長さ」などから
「女性が何かを気にしている。それは自分もマドンナの事が好きだったのかどうかだろう」
と判断した。…いや判断したのだろう。
それらの要素は書かれていない。
文脈からすれば、
「彼氏もマドンナの事が好きだったのではないか?」
と女性が疑問を持つ…あるいは心配する、という心理は十分に読み取れるだろう。
小川哲氏に従えば「少しの沈黙」がその「伏線」となる。
しかし文章としては「沈黙があった」という事実を描写しているだけだ。
女性の感情を「文章」から読み取っている訳ではない。
「実際の経験」から想像している。
それは自身の体験かもしれないし、ドラマの視聴かもしれない。
しかし重要なのは
「本当に男性がマドンナを好きだったかどうかの正解は示されていない」
そして
「女性が聞きたかったことが男性の言う通りなのかが示されていない」
ことだ。
あなたは2人の心情において何が事実として起こったと感じただろうか?
いや虚構かもしれないが。
結局のところ「文章」とは「経験値から想起させるもの」への接続の役割を担っていると言えるかもしれない。
例えば「好き」や「愛情」という言葉は「多くの人が経験しているであろう感情を想起させるためのデジタル信号」に過ぎない。
「文章」はその解像度を高めるための変換装置の意味合いになるだろう。
読み手の「想像力」にかかっている。
しかしそれはどこまで行っても完全なアナログ信号にはならない。
「言葉」そして「文章」は本来それらが示すことしか表現しないデジタル信号のはずだ。
しかし人間はそれを捻じ曲げる。
・「相違」と「否定」
身近にこんな人が居る。
その人には好きなミュージシャンがいる。
そのミュージシャンについての感想を聞かれる。
私はあまり好きではなかったので
「正直自分はちょっと苦手かな」という言葉をやんわり伝える。
そうすると「なんでそんなこと言うんだ!」となる。
これに納得がいかない。
「自分と違う」=「否定」
と捉える人が世の中には存外に多い。
すごく多い。
パンデミックでも起こったのかと思うくらいだ。
それこそ表現の仕方にはよると思う。
「あんなのはクソだぜ!」
と言ったら怒られてもしょうがないだろう。
「コミュニケーション」の問題だ。
しかし感想を聞かれて、不快でない範囲で正直な言葉を言っても「否定」と取られる。
これは人間が「言葉を捻じ曲げる」せいだ。
私は
「自分はそのミュージシャンが苦手だ」
という「事実」を言っただけだ。それもやんわりと。
どこにもそのミュージシャンの存在を「否定」するような表現は無い。
しかし人間の「経験」が邪魔をする。
「言葉」というデジタル信号に「裏の意味」を勘繰る。
言葉をそのままの意味で受け取ればこのような齟齬は起きない。
これは「言葉」という「枠組み」の良い点だろう。
きちんと使えればの話だが。
・「枠組み」の弊害
さて冒頭でも書いたが「枠組み」へ傾倒しすぎると悪い面も見えてくる。
「枠組み」も「言葉」と同様にデジタル的に人間を「選別」「判断」するという機能においては有用性があるだろう。
しかし「枠組み」に落とし込みすぎることで身動きが取れなくなる。
これらの傾向の危険性は「枠組みにいる」という印象を一旦持たれた時に、そこから外れると「差別」という牙を剥かれることだ。
これは「いじめ」という状況において顕著に現れるかもしれない。
「枠組み」はあくまで「機能」だ。
動画で大自然を見られても、匂いまでは伝わらない。
「全て」を表現していると思い込むと、アナログとの「差」に困惑するだろう。
物事には「あえてグレーにしておく」方が良いこともある。
これはビジネスの場でも多々経験してきた。
例えば、社会人としては
「依頼主には敬語を使う」
というのは当然の社会的常識だろう。
しかし場合によっては「フランクさ」が武器になる時もある。
特に営業職の方などは感じてもらえるのではないだろうか。
しかし「親密さ」と「馴れ馴れしさ」は似て非なるものだ。
そこはバランス感覚が要求される。
「言葉のグレーさ」のバランスによっては信頼が得られることもある。
前章とは真逆のことを言っていると思うかもしれない。
そう、真逆のことを言っている。
またお決まりのフレーズだが「物事はバランスだ」
繰り返すが「良い面も悪い面もある」
どう転ぶかは「伝えること」への誠実さが「伝わるか」にかかっている。
しかし現代では「伝える姿勢」が希薄になっていると感じる。
・伝える姿勢
職場にこんな人がいた。
とにかく「固有名詞」を覚えない。
「略語」を多用する。
そうなると具体的な話にいちいち時間がかかる。
「あのバンバン音がする機械」
とか言われても瞬時には分からない。
名前を出してもらえれば一瞬だ。
覚えられない訳ではないのだろう。
しかしそれを「面倒」と感じているのだろうか。
「相手に伝える姿勢」が希薄なことに慣れすぎると、常にこういう表現になる。
それが常態化するとどうなるか。
語彙力は無くなり、記憶力も低下する。
「言葉」は記憶のための効率的なシステムでもある。
本を読む時も頭で声にする人は多いかと思う。
当然記憶にも「デジタル」である言葉の多様性が関係してくる。
こういった日々の慢心がかつて日本人にあった
「デジタルへの抵抗」という繊細な言語文化を後退させていると感じる。
・「行動」と「評価」
さて以前からの記事の傾向からするとこの記事も
「枠組みへの違和感」
の方向性かと思われたかもしれない。
見てきたように「枠組み」の有用性は確かにある。
しかし諸刃の剣でもある。
要はどう使うかだ。
例えば「MBTI」
これをプロフィールなどに載せる人が増えてきた印象だ。
端的にその人を表すには「効率的」だろう。
しかしそのたかが16種類の枠組みの中で自分が表現されることに本当に違和感がないだろうか?
特に「個性」を重要視される「表現の場」において。
noteには「提唱者」が多いらしい。
プロフィール欄にそれを載せた時に「そういう人なんだ」と先入観を持たれてもいいなら「効率化」という観点、または「印象操作」という意味では効果的だと思う。
または仲間意識だろうか。
「レールを敷くこと」
それは効率的で間違いがないかもしれない。
しかしそういった見られ方に少しでも違和感を持つなら「枠組み」に自分を押し込めない方がいいのではないかと思う。
「自分の枠組みを主張して行動するが、それに伴う評価には納得しない」
これも多く見られる傾向だ。
・まとめ
さて少しだけまとめよう。
・言葉はデジタル信号であり、「基本的には」その意味合いにおいて正しく使う。しかしアナログである人間の「全て」を表現することはできない。
・「枠組み」も同様の有用性はある。しかし現代においてはそこに人間を落とし込み過ぎるという懸念点がある。
それは行き過ぎると「差別」を生む。
・「言葉」や「枠組み」にも機能の限界があることを意識する。
真に大切なのは誠実に「伝えよう」、そして「理解しよう」とする姿勢を持つかどうかだ。
今回は小説家先生の言葉を多く使わせて頂いたが、内容としては完全な「持論」である。
文章力が拙いせいで矛盾を感じる人もいるかもしれない。
やはり「デジタルへの抵抗」はなかなか難しい。
先人達の執念には頭が下がる。
何者でも無い中年の戯言なので聞き流して…いや見流してもらいたい。
これから自分も書いていくのに、随分ハードルを上げてしまった気がする。
しかしこれだけ上げておけば潜り抜けられそうだ。
戒めとして、森博嗣先生の作品の言葉を最後の最後にも引用して締めくくりたい。
「貴方は言葉を駆使して、自分の歩いてきた道の舗装をされているだけよ。
貴方は後ろ向きに掃除をしているだけ。」
「行動」がその人を表す。
「言葉」がそれを伝える。
その順番を間違えないようにしたい。
「有言実行」は少し中年には荷が重い。
ではまた。
