類型化の時代(2012)
類型志向の時代
Saven Satow
Aug. 15, 2012
「類型的な美しさがまずあって、その先に個性的な美しさも認識されるわけで、そのことは、単純で一般的な見取り図があるから、差異が浮かび上がり、差異を考えることができる、という人間の認識すべてを支配する法則によく合致する」。
アラン『芸術の体系』
第1章 Roll Over Beethoven
「最近の音楽はやかましいだけで、どれもこれも似たようなものばかりだ」。その直観は決して勘違いではない。そんな分析結果をスペインの「人工知能研究所(Artificial Intelligence Research Institute)」の研究チームが『現代西洋ポピュラー音楽の進化の計量(Measuring the Evolution of Contemporary Western Popular Music)』で公表している。この論文は『サイエンティフィック・リポーツ(Scientific Reports)』電子版に2012年7月26日から公開されている。
チームは、チャック・ベリーが『メイベリーン』を発表した1955年から2010年に発表されたロックを始めとするポピュラー音楽の約46万曲を解析し、音程と音色の多様性が失われ、似た作品が増える方向に「進化」してきたと指摘する。音程進行の変化がなくなり、よく使われる音色がさらに多用されている。また、音量が大きくなる傾向も認められる。こういった特徴を踏まえれば、チームによると、ヒット曲をつくるガイドラインも導き出せる。コード進行の単純な古い曲を新ヴァージョンとして今流行の楽器など新しい手段で演奏して音量を大きめで録音する。そうすれば、新しい試みと称賛でもって受け入れられるだろう。なるほど、トリビュートが流行し、バンドの再結成が相次ぐはずだ。Mの『ポップ・ミュージック』(1979)はもう皮肉ではない。
この傾向に関してチームも理由を挙げている。音量のインフレについては、録音技術の発達に加えて、音楽番組での視聴者の注意を引くためであろうと推測している。
もっとも、音のインフレは、何も、音楽だけの現象ではない。黒澤明監督の『用心棒』(1961)は映画史上初めて殺陣シーンに効果音を入れたことで知られているが、翌年の『椿三十郎』ではその音量が大きくなっている。送り手は、受け手はすでに経験して慣れているから、それ以上のことをしないと新鮮味を感じてくれないと考えるものだ。70年代後半から映画界は観客動員アップを狙って、録音技術の革新だけでなく、劇場の音響設備にも工夫を凝らしている。さらに今の映画の音量は言うに及ばないだろう。
曲が似通ってくる理由は、研究チームでなくても、ある程度推察できる。ポピュラーは、クラシックと違い、理論傾向が著しく弱い。音楽上の継承・発展は習慣や経験、勘によって行われる。クラシックの延長線上にある現代音楽の作曲をするには、体系的な知識を長年に亘って学習し、専門家に師事しなければならない。ポピュラーであれば、そんな過程は必要とせず、見よう見まねで曲を作れるようになる。リテラシーを知らなくても、オラリティで何とかなるというわけだ。けれども、それは自分を相対化する認識が弱いことを意味する。しかも、チャック・ベリーならベートーベンをぶっとばすことができても、主な担い手である若者には、曲作りの蓄えが少ない。商業主義の圧力の下で、感性や身体知に依存して作曲しなければならないとしたら、売れた実績のある進行パターンを選ばざるを得ない。
声の旋律に関して言えば、コンピュータ解析以前からポピュラー音楽では単調さの傾向が認められている。歌詞と音の動きの関係は「メリスマ」と「シラビック」の二種類に大別できる。前者は一つの音節、すなわちシラブルに対して多数の音が与えられる歌の旋律である。一方、後者は一つの音節に一つの音が対応する旋律である。両者を比較する際、日本の文脈でよく引用されるのが『江差追分』と『ソーラン節』である。シラビックの方が話し言葉のリズムに近い。伝統的な声楽では、メリスマとシラビックを組み合わせて変化を作り出している。また、儀礼などでは両者の曲を混在させることが慣例である。だが、ポピュラー音楽では、圧倒的にシラビックの曲が多い。それは音楽における言文一致とも言えよう。
考えようによっては、過去半世紀のポピュラー音楽は伝統的な民衆音楽のありように舞い戻っているとも言える。民謡は新しさを追い求めない。しかも、歌い手や弾き手に大幅な裁量権が許されているため、標準が存在しない。同じタイトルの曲であっても、多くのヴァージョンが併存している。ポピュラー音楽もいくつかの進行パターンをタイトルや歌詞を変えて歌ったり、演奏したりしている。民衆音楽の伝統的な姿に回帰していると思える。
こうした分析は、日本のポピュラー音楽にも応用可能である。欧米の曲のパクリも多いので、同様の結果が出ると予想できる。また、パラメータを入れ替えれば、文学や映画、ドラマ、マンガなどにも拡張できよう。おそらく結果は興味深いものになる。
第2章 The Times They Are a-Changin’
それにしても、個性化よりも類型化に向かっている結果は、いささか皮肉である。確かに、一般的に、美において個性は類型の上に成り立つ。類型を共通認識としてそれぞれが受け取り、その差異から個性を理解する。この50年間、社会の解放性は非常に進み、個性の追及・尊重が認知される。音楽も同様である。特に、70年代後半から何でもありのポストモダン状況が到来する。にもかかわらず、実態はみんなと同じことをしている。何をやってもいいと言われて、何をやったらいいのかわからなくなったというわけだ。
何をしてもよいとしても、それを誰かが共感しなければ、消えてしまう。ポストモダン状況であろうと、芸術やエンターテインメントにおいては快苦の共通感覚が大切である。その対象を通じて快苦を誰かと共有し、それが価値観として認識される。この共通感覚に基づいてコミュニティが形成される。規範の弱体化は表現を共通感覚によるコミュニティづくりへと変える。
共通感覚は価値観であるので、社会からの影響を大いに受ける。それは道徳やイデオロギーのような明確なものだけでなく、不安感や閉塞感、昂揚感など漠たる空気も含まれる。それらは比喩表現を通じて作品に反映される。
ローマン・ヤーコブソンは、『一般言語学』において、失語症の研究から、比喩は隠喩と換喩の二種類に集約できると指摘する。前者は類似性の比喩であり、後者は近接性の比喩である。
隠喩は、本来無関係で独立した二つのものを両者の独自性・同一性を保持したまま、類似的に結びつける表現である。「人間は考える葦である」はこの一例である。一方、換喩は、近接している二つのものを両者の全体と部分の関係を踏まえて、前者を後者の名称で置き換える還元的表現である。「人はパンのみにて生きるにあらず」において「パン」は食全体を表わしており、換喩の好例である。ただ、これは、通常、提喩の説明であるが、ヤーコブソンは換喩に含めて考えている。一般的には換喩は、「永田町」で国会を示すように、あるものをそれと直接関係する別の対象で呼ぶ表現である。隠喩の場合、恣意的な結合、換喩の場合、断片化という危険性がそれぞれにある。
現代において、表現の流れは隠喩から換喩へと向かっている。それを資生堂の広告を例に確認してみよう。資生堂は同時代における女性美の共通感覚に鋭敏な企業であり、広告表現に定評があることでも知られている。広告は強い商業主義的動機を持っている。また、同時代の社会の気分を的確に捉え、願望をイメージ化したものが高く評価される。
西洋ポピュラー音楽の話をしていたのに、資生堂の広告を例にすることに合点がいかないかもしれない。しかし、60年代以降、先進諸国の間で時代の気分が共有されており、サブカルチャーはそれをよく表象している。
1967年の「資生堂サンオイル渚」のTVコマーシャルは、光輝く太陽の下、浜辺で水着姿の若い男女が戯れるシーンが使われている。これは健康美と解放感、男女の平等などが今の女性美のトレンドだという隠喩である。色白のおしとやかな御嬢さんが殿方の後を三歩下がってついていくのが女性の鑑などというのは古臭い。新しい女性美の時代が来ていると杉山登志の名作は語っている。
ところが、1976年の「ゆれる、まなざし」キャンペーになると、比喩表現が異なっている。この関連商品は「資生堂スプレンス・メイクアップフィニッシュ」と」資生堂シフォネット・アイカラースティック」であり、目元の化粧のためのものである。
目は身体の一部である。目だけきれいに化粧しても、他との調和を欠き、逆に、醜く見えてしまう。今の女性美においてポイントとなるのは目だというメッセージがこめられている。目元のメイクアップが女性美の換喩として表現されている。しかも、当時のそれは個性化志向を刺激している。メイクは一通り人並みにできる。でも、他の人とちょっとおしゃれな違いを見せたい。そこで、ブランニューな目元で差をつける。「ゆれるまなざし」はそういった欲求に応えた広告である。
この路線は、1982年の「い・け・な・いルージュマジック」にも引き継がれる。キャンペーンの関連商品は「資生堂ルア・リップカラークリエイター」である。なお、これらを含め、70年代後半から頭に残るものの、具体的な商品名が浮かばない広告が増えている。
少々間が空くが、2006年の「資生堂シャンプーTSUBAKI」のキャンペーン「日本の女性は美しい」に至ると、さらに比喩表現が変化している。このキャンペーンは統合型マーケティング・コミュニケーションの成功例としても知られるけれども、今回それは置いておく。髪は、もちろん、身体の部分であると同時に、昔から女性美の象徴として見なされている。他社も含めて、それを踏襲した広告がシャンプーで使われている。
率直に言って、89~98年の資生堂のテレビ広告には見るべきものがほとんどない。いったい誰に、何を、なぜ売りたいのかが不明である。98年の「アクテアハートハンドビューティー」に山口小夜子、翌年には前田美波里を使ってからアイデンティティを再発見している。彼女たちは資生堂の広告の歴史を変えたことで知られている。
ただ、従来訴えかける対象はあくまで個々の女性である。1970年の「エメロン・クリームリンス」のCMは「日本縦断ふりむき娘」として話題になっている。少々古めかしい歌詞のハニー・ナイツの『ふりむかないで』をBGMに、日本全国の街角で一般女性に「ふりむいてください」とインタビューするスタイルである。彼女たちはあくまで日本に住む個々の女性である。
一方、TSUBAKIのキャンペーンでは、「日本の女性」が謳われている。個々の女性が「日本の女性」という全体の部分として捉えられている。商品のみならず、消費者にも換喩が用いられている。「ゆれる、まなざし」よりも換喩傾向と同時に、類型志向も進んでいる。
第3章 Imagine
振り返ってみれば、90年代、東西冷戦の終結や各種のグローバル化の進展などにより、アイデンティティ・ポリティクスが伸長している。このアイデンティティは自分をある全体に属する部分として把握する換喩的認識である。しかも、その規定には反語が用いられる。「どうしてわれわれが彼らとやっていけようか」。
反語は否定によって意味を規定する比喩表現である。ネガティブであるので、依存的=受動的であるが、インバータ=強調の効果がある。換喩は全体と部分の関係に依拠している。この全体の規定に利用されるわけだけれども、反語はコンテクストの共有があって初めて成り立つ。そのためには個性よりも類型の強調の方が容易である。反語は強める機能があるので、コンテクストが価値観の共有に変換、それによってコミュニティが形成される。そうしたコミュニティは同調性や排他性が顕著である。この傾向は、残念ながら、9・11の影響もあり、2000年代も続く。こうした社会情勢は表現に少なからず影響を及ぼす。
ポピュラー音楽の類型性への偏重が必ずしも社会における換喩の拡大と完全に連動しているわけではないだろう。すでに述べた通り、その領域内部の事情もある。主観の嗜好はまちまちであり、範囲の大小はともかく、それを同じ対象に向けさせることを目指すなら、表現行為は類型を意識せざるを得ない。産業として発達してくれば、そうした動向も強まるものだ。しかし、それを受容する人々は社会の中で生きている。社会の類型性傾向を感じれば、作り手はそれに応えようとする。
こういった動きは音楽の分野で広く見られる。例を挙げると、リバーダンスはアイルランド伝承の音楽ではない。世界市場をターゲットにするため、換喩を利用し、アイルランドに対するイメージ、すなわちアイルランドらしさを演出した芸能である。一見新鮮に感じられながらも、支配的な音楽に慣れた耳に抵抗なく受け入れられるようにする必要がある。芸術やエンターテインメントにおける革新の動機に飽きがあるが、慣れから逸脱すると、広く理解されるのは難しい。リバーダンスにはアイルランドの民族音楽の持っていた多様性は失われている。明らかにグローバル化を意識した戦略である。
言うまでもなく、類型を徹底的に追及することも個性の一つである。ただ、そこまでいかず、たいてい中途半端に終わる。そのため、リテラシーから類型を捉えて、創作に臨む態度が不可欠である。
曲は送り手ではなく、受け手から影響される。作品は後から作られる。歌ったり、演奏したりする際に曲は解釈され、影響を受ける。それを誰かが聞いて再演すれば、先のパフォーマンスにも影響を及ぼす。『星条旗よ永遠なれ』は、ウッドストックでのジミ・ヘンドリックスのステージの記憶なしに、もはや聞くことができない。後から来るものが曲に影響を加え続ける。それが音楽である。
こう考えると、ポピュラー音楽の類型志向は今後も続くだろう。同じところを漂泊し続けるほかない。個性がなくてもかまわない。市場から個性的と思われれば、慣れに沿って飽きを打ち消せるのだから、それでよい。しかし、音楽はもう単数形”Music”ではなく、複数形”Musics”であることを認知しておくべきだ。類型的なものもあれば、個性的なものもある。それらが相互交流して音楽は豊かになる。
今日の社会における隠喩と換喩の位置はあまり健康的ではない。換喩が肥大化しすぎている。けれども、隠喩に期待するのも短絡的だろう。共通感覚の形成を反語に依存する社会の現状が問題だからだ。反語の克服という価値協創に向かう必要がある。
それが時間のかかる難しいことくらいわかっている。だからと言って、悲しんだり、苛立ったり、呆れたり、諦めたりすることもない。それに反語の反語は肯定になる。さあ、思い浮かべてごらん。
〈了〉
参照文献
小西潤子編、『音楽文化学のすすめ』、ナカニシヤ出版、2007年
アラン、『芸術の体系』、長谷川宏訳、光文社古典新訳文庫、2008年
ローマン・ヤーコブソン、『一般言語学』、田村すゞ子他訳、みすず書房、1973年
Joan Serrà, Álvaro Corral, Marián Boguñá, Martín Haro & Josep Ll. Arcos, ‘Measuring the Evolution of Contemporary Western Popular Music’, “Scientific Reports”, 26. Jul, 2012
http://www.nature.com/srep/2012/120726/srep00521/full/srep00521.html
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