短編 : 城壁の消える日
「これが、僕たちが三十年かけて高くしてきた壁の末路ですか」
台東区にあるサテライトオフィスの窓外、スカイツリーが春の夜空に突き刺さっている。島田は、データセンターのラックから引き抜かれた古いファイアウォールを眺め、自嘲気味に呟いた。1990年代、まだISDNや専用線の香りが残っていた頃、島田はここに何重もの「堀」を掘り、強固な「城門」を築いた。当時はLANケーブルを自作し、物理サーバを重い腰を浮かせてラッキングするのがエンジニアの矜持だった。
「島田さん、時代は『城』から『個室』へ移ったんですよ」
隣でタブレットを操作するのは、プロジェクトリーダーの佐藤だ。彼は島田がかつて心血を注いで引いた「境界線」を、クラウド上の動的なID認証へと一本ずつ書き換えていく。
「社内にいれば安全、VPNを通れば身内。その『暗黙の信頼』が、現代では最大の脆弱性なんです。社長だろうが、つくばの自宅からリモートワーク中のエンジニアだろうが、一歩動くたびに認証を求める。誰も信じない。それがゼロトラストの戦略です」
島田はため息をついた。かつての多層防御は、組織の「信頼」を可視化したものだった。一度門をくぐれば、社員は互いを仲間と信じて自由にデータを共有した。佐藤の言う「100%の安全はないから、誰も信じない」という思想は、技術的には正論だが、どこか冷徹な、監視社会のような息苦しさを感じていた。
そんな折、事件は起きた。
島田の古くからの戦友であり、現在は営業部で活躍するベテラン社員が、一通のメールを開いたのだ。それは取引先を装った、極めて精巧なフィッシングメールだった。
「島田、悪い。変な画面が出て、顧客リストが開けなくなったんだ」
電話を受けた島田の背中に、冷たい汗が流れる。かつての境界型防御のみの環境であれば、身内のPCが汚染された瞬間、攻撃者は「信頼された内側」を縦横無尽に駆け巡る「ラテラルムーブメント(横移動)」を開始しただろう。島田は反射的に、かつて自分が設計したセグメントごとの「緊急遮断スイッチ」を探そうとした。
しかし、画面には既に「アクセス拒否:異常な振る舞いを検知」の文字が踊っていた。
「島田さん、大丈夫です。既に封じ込めました」
佐藤が、コーヒーを一口啜りながら冷静に報告する。
「彼のPCが不審な外部通信を試みた瞬間、EDRが異常を察知し、ゼロトラスト・エンジンが彼の『信頼スコア』を即座に剥奪しました。マイクロセグメンテーションによって、彼のPCは廊下(ネットワーク)に隔離され、基幹データベースという『個室』の鍵は無効化されています。攻撃者は、城門を突破したつもりが、入った途端に四方を透明な壁で囲まれたようなものです」
島田は呆然とした。自分が一生をかけて守ろうとした「城壁」は、一度門を破られれば終わりだった。だが、佐藤が多層防御の各階層に組み込んだ「動的な鍵」は、たとえ身内が過ちを犯しても、その過ちを組織全体の破滅に繋げないための、新しい形のバリアとして機能していた。
数日後、プロジェクトの最終段階。島田はコンソールから、最後の一行の設定を削除した。それは、長年運用してきたVPNの接続許可設定だった。
「……佐藤くん。僕が作っていた壁は、外敵を防ぐためだけじゃなく、中にいる連中の『不完全さ』を、見ないふりをするためのものだったのかもしれないな」
「隠すのではなく、許容するんですよ」
佐藤は少しだけ笑って、新しいモニタリング画面を島田に向けた。
「人間はミスをする生き物です。だからこそ、システム側がそれを前提に動く。島田さんが作ってきた多層防御の『層』という土台があったからこそ、僕たちはその上で、より細かい『点』の制御を実現できたんです」
データセンターの排気音が、どこか新しく、軽やかに響いた。
島田は、かつて自分が愛した重厚な城壁が消えたあとの、見えない盾に守られた自由なネットワークを、眩しく見つめていた。
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