あの夜、東京で一番速かった人の話
フィィィィンという電気自動車特有のモーター音を響かせ、コースにマシンが出てくる。フォーミュラE東京大会、その予選が始まる。
あっ、あっ、あっ、あれはブエミ。あれはダ・コスタ。マルティもマローニーもいる。テレビで見ていた世界トップクラスのドライバーが、私と同じ空間で、今、走っている!
やっぱり、良いなあ。カッコいいな。最高!生まれ変わったら、レーシングドライバーになりたいな。こんなふうに、高速で壁を擦るように走ったら、どれだけのスリルと快感だろう。想像するだけで、身震いする。
走り終えたドライバーたちが、車から降りてヘルメットを取る。先ほどまで命を賭けてドライブしていたことが嘘のように、彼らは飄々と髪をなびかせて歩いていく。
良いなあ。生まれ変わったら、レーシングドライバーの彼女になりたいな。世界最速のイケメンたち。顔のカッコ良さだけではない。命を賭けて走る、その姿がイケメンなのだ。そんなドライバーを誰よりも近くで支え、勝利と安全を祈る。優勝したら、真っ先に出迎えて、歓喜のキス。
ふふ、ふ。こんな素敵なことってない。
そんな(些か気持ちの悪い)妄想に浸っていたところ、「あ、あー!」と、隣に座っていた母が大型ビジョンを指差し、大声をあげる。何事。
スクリーンには、スイス人ドライバーのニコ・ミュラーがクラッシュした映像が映し出されていた。高速コーナーでバランスを崩し、そのまま壁に突っ込んだのだ。ああ...。
幸いミュラーは無事だった。しかし、怖すぎる。あんな高速で壁にぶつかってしまうなんて…。
しかも、当の本人はまるで何事もなかったかのように、車から降りて壊れたマシンをじっと見つめている。レーシングドライバーは凄すぎる。前言撤回。やっぱり私には、来世どころか、百ぺん転生してもムリだ…。
予選が終わり、一旦会場を出るときに写真を撮った。このnoteのサムネイル画像だ。そこには、母と私が共に応援しているドライバーが映っている。
ダン・ティクタム(ダニエル・ティクタム)。
元々F2で走っていた彼は、その豪快なドライビングと、歯に衣着せぬ言動で、良くも悪くも注目を集めたことがあった。日本のスーパーフォーミュラでの走行経験もある。
フォーミュラEでも件の「ティクタム節」は炸裂することがあったが、様々なカテゴリーを渡り歩いた労苦もあっただろう、最近の彼は少し大人びて見えた(髭も生やしだした)。その日、彼の予選順位は20台中の6位。優勝も狙える、好結果だ。

20時05分。
あたりが闇に包まれる中、いよいよ東京で初めての、フォーミュラカーによるナイトレースが始まる。同時刻、都心では90万を超える人が、隅田川の花火大会に訪れているという。
その東京の一角で、今夜、最速を決めるレースが行われる。
シグナルが消える。全車が一斉に走り出す。

心配されていた雨も降らず、序盤は比較的落ち着いたレース展開だった。
この狭いコースでは追い抜きが難しい。車同士の間隔が近づく中、予選トップのジェイク・デニスがずっと先頭を守り続けている。
気になるのはティクタムの存在だ。予選6位からスタートし、順位を少しずつ上げている。終盤、抜きつ抜かれつが発生すると、ティクタムはトップのデニスのすぐ後ろをぴたりとつけるように走る。
しかし、ここでティクタムにチームから無線が飛ぶ。
「ティクタム、順位を維持しろ。デニスに大きなミスがない限り...追い抜きは危険だ。」
チームの言葉は100%正しかった。ここで無理をしたら、共倒れになる可能性の方が高い。おまけに雨も降り出している。ますます追い抜くチャンスは無いだろう...。
だが、私は思う。ティクタムなら?
彼はこの無線を素直に聞くような男だろうか?
果たして、その思いは現実となった。
最終ラップ、あっ、ティクタムが...ティクタムが...…!!
叫び声を上げる母と私。大歓声に包まれる会場。
ティクタムは、見事にトップに立ったのだ。そのまま、ゴールイン。
彼は、デニスのマシンのバッテリーが尽きかけた、その一瞬を突いたのだ。
会場は万雷の拍手に包まれた。ゆっくりとコースを一周し、ピットに戻っていく彼の車に、母と私は何度も何度も大きく手を振った。
私は再び妄想に浸る。
ああ、ティクタム。私は何度生まれ変わってもレーサーになれないよ。
私ならあそこでオーバーテイクできない。「順位を維持しろ。」その指示を素直に聞いて、2位。それで満足する人間だ。でも、あなたは...。
レースの終わりを待つかのように降り出した大粒の雨に、私の涙は混ざって消えた。
