見出し画像

霧氷のむこうへ|シロクマ文芸部

 雪庇が頭上に伸びていた。
 わたしはその雪庇に貼りつくように登攀していた。
 白い呼気が霧となって風に吹き飛ばされる、垂直の壁だ。
 流れ落ちる滝がそのまま凍結したような氷柱に、ところどころ顔を出している岩場を足掛かりにして、ここまで高度を稼いできた。
 冬山は時間ですら凍ってしまう。
 でも冬山は単独行が好みだった。
 危険じゃないかという声が蘇る。

 でもそんな性分なのよ、嫌々組んだパーティが、極限状況になったとしたら。そんなときは誰かの判断に任せたくはない、それに委ねられるほど鷹揚にはなれないわ。
 自分の命だけなら、背負える。

 そう言い返すような口論が続いて。
 いつしかその彼との連絡は希薄になった。人生を一緒に重ねる可能性もあったのに、その体温と未来は霧の向こうに消えた。
 
 その壁との対話は、幾度となく繰り返していた。
 彼との対話がおろそかになっているというのに。
 起伏のある壁面を眺めてルートを探り、それを指先で掴みとって、アイゼンを掛けて踏みつけていく。
 その繰り返しで息をつく。
 体温も上がってきている。
 小休止かな。
 身体をハーネスで固定して、サイドポケットからチョコバーを出した。市販のものではない、命を預けるからには手作りにしていた。
 それで栄養と糖分を疲労した全身に巡らせる。
 小休止するとたちまち指先はかじかんでくる。
 頬が痛いほど冷たい。
 さっきまでは無心に登攀していた。次の体重確保、アイゼンの位置、ピッケルの角度、それらが心を縛っている間は、記憶は置き去りにできた。

 逃げている、そんなことではないのよ。

 独りごとが脳裏を駆け巡った。山で単独行では語り合う相手は、自分の影だけだ。隠し事もないし、裏切ることもない影。そして言い訳なんかもしない。ああ。山と同じだ。冷たく、厳しく、でも裏切らない。
「もう少しで、鞍部コルだな」
 誰に向けた言葉でもなく、ただ自分にそう告げる。でもここで確かめているのは、私がまだ前に進んでいる、という事実だった。

 再びピッケルを握る。
 氷に響く、乾いた音。
 凍った時間に亀裂を入れて、わたしは進み続ける。
 肌が覚えている彼の指先、髪を触ってくる感触、そうした甘い、柔らかな想い出はその隙間に落ちていく。
 私はただ、無心に頂きを再び目指し始めている。

 


 


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集