不死鳥の如く
足元に奈落の底が見えている。
白馬岳稜線という煉獄の扉だ。
文字通りに背後に死神がいる。
最初は霧に捲かれた。
不帰の嶮という不吉な名称を持つ、縁起でもない稜線だった。夏場でも鎖場が連続する難所になる。左右非対称な山容の、龍の背びれを踏んでいくようなルートになる。そこには氷雪が強張りついていて、アイススパイクの爪で抉るように歩いてきた。
霧が納まりかけて暫くすると、北西風が打ちつけてきた。その風は日本海側の重く湿った雪を含んでいた。そのまま天候は吹雪が続き、暫くここを動くわけにはいかない。
岩陰にツェルトを張り、テントのなかで身体を小さく折り畳んでいる。凍傷にならないよう、手指はグローブのなかで、足指は冬靴の中で絶えず動かし続けている。
地上には遭難申告の連絡をしているが、救助隊はこの天候ではまだ近づけてはいない。霧と強風に呑まれてしまうからだ。それにこの場所では、雪崩が一番恐ろしい。
それでもおれは平静でいられた。
いや、そう装って停滞を継続している。
なぜここに踏み込んでしまったのか、撤退する最期のタイミングはどこであったのか、それを逡巡すると滅入ってしまう。
愉しい想い出を紐解いて考えた方が、この場では命を繋ぐことができる。
不帰の嶮、という名前には由来がある。
身の程を知らない男が、天狗を探して山に入り、とうとう帰ってこなかったという伝説がそれだ。実際にこの稜線には、天狗の大下りというピークがある。現在地は不帰Ⅱの下り、凡そ300m程の高低差のあるキレットだと感じている。
猶のこと停滞して、体力を温存する他はない。
身の程しらず、か。
思わず口にして、それが風に吹き消された。淡い呼気までが弾き飛ばされて散っていく。
菜々緒は今、どうしているのか。
まだあの男に抱かれているのか。
黑い情念だけが渦を巻いている。
この煉獄を吹き荒ぶ風のように。
このおれならもっと愛せるのに。
こめかみを摘まんで、その驕慢な考えを追い出そうとした。駄目だ、駄目だ。そんなことばかり考えていたら、天狗の足から蹴り落とされる。
固形燃料の数を確認し、それでも躊躇を断ち切って、温かい夕食を摂ることにした。
お湯を沸かし、レトルトパウチのお粥を温めた。副菜には真空パックの煮卵だ。それにカロリーバーまで加えた。
ふと風雪の境目に、人影を認めた。
それは嫋やかな細腕を振って、おれを誘うように揺れていた。
幻視が始まったのだろうか、とぞっとした。天狗に化かされているとしたらますます笑えない。ああ、いつテントから抜け出したのか、記憶が定かではない。
誰何する声、がする。
名前を連呼している。
違う、おれは菜々緒じゃないぞ。そう叫んだ。
反応はあった。
その雪の断層に紛れている影が、その揺れている腕をこちらに伸ばした。唇が妙に紅い、そう感じた。あんな紅をつける女ではないはずだ。
「いたぞ!」
「こっちだ!」
「意識はありそうか?」
雪を踏む音が重なって聞こえてくる。
座り込んだ尻で後退しながら、天狗の群れが襲ってくるのかを、ただじっと見つめていた。
