つらいことから逃げること、逃げないこと。
未来の自分を想像してつらい状態が思い浮かんだとき、そのつらさを避けるために、「逃げること」は選択肢のひとつだと思う。わたしは「逃げてもいい」と思う。でも、一度逃げてしまったら、その次も、その次の次も逃げてしまえばいい。そうやって、逃げ癖がついてしまわないだろうか。
「お母さん、わたし、きょうのダンス大会に行くか迷ってる。どうすればいいと思う?」
娘から相談されるときの答えはいつも決まっている。
「好きにしていいよ」
親としての正解は、「迷ってるなら、行きなさい」だ。けれども、そのときに思い浮かんだのは、どうしたら娘が「後悔しないか」だった。
わたしは、プリントの裏に天秤の絵を書いて、娘に尋ねる。
「行ったら、いいことってなに?」
う~ん、そうだなあ……と娘は言いながら「今までしてきた努力が報われることかなあ」と答える。この日ためにのダンスの練習を積み重ねてきたので、パフォーマンスを披露するのを楽しみにしていた。家でも鏡を見ながら毎夜踊るくらいに一生懸命だった。
「じゃあ、行くのがおっくうな理由は?」
「ダンス大会の会場は体育館でしょう? ダンスグループで唯一仲良くしているSちゃんが欠席するから、今日はひとりなんだよね。お弁当を、ひとりで広げて食べるのがイヤ!」
左の天秤に、「練習したことが報われる」。右の天秤に、「お昼ごはんをひとりで食べるつらさ」と書いた。
絵を見ながら、「それは同じくらいの重さかな? 違う? どうしようか」と娘に問う。「あ~、もしもわたしが休んだら、欠席2人か……。フォーメーション変わっちゃうかも。グループのみんなに迷惑はかけられない。やっぱり、行く!」
決断は早かった。
当日の朝、娘をダンス会場の入口まで送って行くと、周りは女子グループができていて、娘の表情には不安の色が浮かんでいた。わたしは、「お弁当の時間がつらかったら、途中で帰ってきていいからね」と娘を送り出した。
会場では、生徒の席、保護者の席と分かれている。保護者席とステージを挟んで、真向いの生徒席に娘が座っているのを見つけた。わたしは、会場に早くついたので、一番まん前のいい席を確保していた。遠くから娘に手を振ると、娘が気づいて、わたしに手を振る。会場はステージを明るくするために薄暗かったのだけど、わたしはすぐに娘を見つける特技があるので問題はなかった。娘は、前から2列目の席に座っていて、声を張り上げてほかのグループに声援を送っていた。
とうとう、娘が所属するダンスグループの出番がきた。体育館の上空にはドローンが飛び、娘がいつも練習していた音楽が流れる。前面には映画館にあるような大きなスクリーンがあり、踊っている娘の姿がアップで映し出された。なーんだ、すごく楽しそう。全然問題なかったじゃないか。こんなにも踊れている娘をみて驚いた。
娘が所属するダンスグループのパフォーマンスが終わると、仲間たちと楽しそうに話をしていた。その姿を見て、わたしの頭の中に過去の映像が映し出された。去年の今頃は、クラスには友だちがひとりも居なかった。参観日に中学校へ行くと、休み時間はひとりで過ごしていた。そして、とうとう不登校になってしまったのだ。踊っている娘の姿を見て、仲間たちと楽しそうに話す姿を見て、短期間でこんなにも人生が変わるのかと驚く。娘が生き生きと踊る姿を見れるとは、去年の今頃は想像もつかなかった。
娘が生徒席に戻ってくる。前から2番目の席。わたしは、もう一度、一番まん前の席から手を振る。そして、「すごくよかったよ」と娘にLINEメッセージを送った。遠くの席から、娘がまた手を振る。
お昼ごはんの時間は、自分の座席でお弁当を食べるスタイルだったので、孤立するような感じではなかった。わたしは、正直ホッとしていた。
もう一度、娘に手を振る。わたしを見て、娘が手を振り返す。すると、左隣りの子に、娘は声をかけられていた。わたしはもう、手を振るのをやめる。
つらいときには逃げてもいいと思っている。けれど逃げなかった娘は、生き生きとしていた。娘は、がんばってクラスメイトに自分から話しかけてもいた。もしも、横並びにSちゃんと共に欠席していたら、今頃は布団の中でモンモンとしていたかもしれない。
娘が生まれてからいつも一番の味方になろうと、どんなときも応援してきた。将来、娘に大切なひとができたとき、この応援席を譲るだろう。それまでは、何度も手を振り、娘が寂しくならないように一番の応援者であり続けたいと思う。
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